空を選ぶか、道を選ぶか
ミューレの宿には、結局二日、世話になった。
三日目の朝、焼きたての丸パンをいくつか買い足して、俺たちは北の門を出た。門番は来た日とは別の男だったが、俺のカードを検めると「見習いか。気をつけてな」とだけ言って通してくれた。出るときは、連れの通行料は要らないらしい。
街道に出てしばらくすると、ルーチェが空を見上げた。
「きょうは、とんでいい?」
……即答は、できなかった。
飛べば速い。ミューレから王都までは、歩けば十日あまり、ルーチェの翼なら三日で着く。路銀の計算だけなら迷う余地もない。宿代が浮いて、ルーチェの通行料が浮いて、その分だけ荷物のパンが長持ちする。
でも、今朝の食堂の声が、まだ耳に残っていた。南の空に金色の何かが飛んでいた。見た本人は、羽根が一枚もなかったと。
「……今日は、歩こう。歩いてわかることも、あるだろ」
「わかった」
ルーチェは意外なほどあっさり頷いて、それから付け足した。
「あるいて、わからなかったら、あした、とぶ?」
「その時は相談しよう」
*
歩いてわかることは、思ったより多かった。
まず、道端の草。竜の背から見下ろしていたときは流れていくだけだった緑が、足の速さで進むと、一株ずつ意味を持った。鑑定が拾う。
【カザハナ草】
若芽は苦みが強いが、干せば熱冷ましになる
旅の初日に、竜の上から名前だけ覚えた草と、初めて実物で会った。何本か摘んで、鞄の薬草の仕切りに収めた。リーナへの最初の手紙に、書くことがひとつ増えた。
それから、道を行く人。
昼前から、塩と香辛料を積んだ荷馬車の行商人と道連れになった。荷馬車の速さは人の足と大差がなくて、話しながら歩くのにちょうどいい。行商人は、次の宿場までの道のりと、井戸の水がうまい休み場と、王都の南門は朝いちばんが混むという知恵を教えてくれた。
昼飯の休みに、俺は朝摘んだカザハナ草と、道々で溜めた薬草の束をいくつか、行商人に差し出してみた。干せば熱冷ましになる草だ。長く道を行く人の荷に、あって損はない。
行商人はしばらく葉を検分して、「坊主、目利きだな」と笑って、代わりに塩と香辛料の小袋をひとつずつ、荷台から取ってくれた。物々交換というのは、財布が痛まないのに、両方が得をした顔になるからいい。
歩きながら、行商人は少しだけ、声を落とした。
「あんたらも聞いたかい。南の空の、金色のやつ」
「……聞きました。ロック鳥でしょう」
「おれもそう思うがね。ただ、噂ってのは尾ひれがつく。ゆうべの酒場じゃ、翼の生えた金の獅子になってたよ」
行商人は笑い、俺も笑い、隣でルーチェがフードの中で笑いをかみ殺した。
別れ道で行商人を見送ってから、俺は気がついた。
噂が広がるのは速い。けれど、人の口を渡るたびに形を変える。俺たちが歩いている限り、その噂を俺たちと結びつけるものはない。
——でも、飛べば違う。
目撃が重なるたび、曖昧な噂に道筋ができる。飛ぶことは、自分たちの行き先を教えることだった。
*
日が落ちて、街道から少し外れた林の中で、鞄を下ろし、火を熾した。
夕飯は、ミューレの丸パンと干し肉と、道で摘んだ香草のスープ。昼の香辛料をひとつまみ落とすと、湯気の匂いが、ずいぶん飯らしくなった。ルーチェは丸パンを両手で持って、幸せそうに齧っていた。
「ルーチェ。決めごとを作ろうと思う」
「きめごと」
「旅の決めごと。……家族会議だ。ふたりだけの」
ルーチェが、ぱっと顔を上げた。家族会議という言葉の効き目は、うちの家では絶大なのだ。
火のそばで、枝で地面に書きながら、ひとつずつ決めた。
一、人里の近くは歩く。飛ぶのは、人のいない区間だけ。
一、飛ぶのは早朝と夕方の薄明かりどき。昼の空と、満月の夜は避ける。
高さは、下から見て鳥と見分けがつかないくらい。
一、降りるのも飛び立つのも、森か岩場の陰。街道から見える場所では、絶対にしない。
一、町では竜の話をしない。聞かれたら、妹は体が弱くて、で通す。
「よんばんめ、なっとくいかない」
「どこが」
「わたし、びょうきじゃない。げんき」
「設定だ、設定。……体の弱い妹なら、フードを被っていても、宿で寝てばかりでも、怪しまれないだろ」
「せってい……」
ルーチェはその言葉をしばらく口の中で転がして、それから、うん、と頷いた。
「わたし、かよわい、いもうと」
「そうだ」
「かよわいから、パン、もうひとつ」
「自分で取ってこい」
ルーチェはいそいそと、鞄から丸パンを取ってきた。かよわい妹の設定は、身内には通用しないのだった。
決めごとは、こうして四つになった。読み返せば、どれも当たり前のことしか書いていない。でも、当たり前を先に決めておくのが、たぶん旅を長く続けるコツなのだ。
*
寝る段になって、今朝の宿題を試した。
毛布を並べて、手を繋いで寝る。俺の魔力が流れていれば、眠っても人の姿のまま——という、本人の説だ。
結果から言えば、失敗だった。
ルーチェは俺の手を握って三十秒で熟睡した。俺の方は、握る強さはこれでいいのか、魔力はちゃんと流れているのか、寝返りを打ったらどうなるのか、と考えているうちに夜が更けて、いつの間にか寝ていて——朝、目が覚めたら、手の中は空っぽで、隣で金色の竜が、毛布を鼻先まで引き上げて丸くなっていた。
「……レイが、さきに、ねたから」
起き出したルーチェは、人の姿に戻りながら、不満そうに言った。俺が寝たら、魔力は止まる。言われてみれば、当たり前の話だった。
「野営の夜は、竜のまま寝よう。その方が早い」
「うん。……りゅうのほうが、あったかいし」
万能の解決は、なかった。人の姿はまだルーチェには着慣れない服のようなもので、それを着たまま眠れる日は、もう少し先らしい。でも、それでいい気もした。急いで直すようなことでは、ないのだ。
*
翌日の夕方、次の宿場町の門が見えてきた。
門の手前に、掲示板があった。人相書きと、人足の募集と、家畜の競りの知らせに混じって、真新しい貼り紙が、一枚。
『金色の飛行体を見た者は、ギルドまで知らせられたし。確かな情報には銀貨一枚。——買い手が付いている』
銀貨、一枚。
情報だけで、銀貨一枚だ。角ウサギが何羽分だろう、と場違いな計算を頭の隅がして、それから、買い手、という三文字が、ゆっくりと重さを増した。
見た者に銀貨を払う誰かがいて、その後ろに、金を出して「買う」つもりの誰かがいる。
何を、とは書いていない。
書かないのは、書けば騒ぎになると分かっているからだ。貼り紙の向こうの誰かは、金色の正体に、もう見当をつけているのかもしれない。
俺は貼り紙の前で足を止めないまま、鞄の紐を握り直した。隣のルーチェのフードを、少しだけ深く直してやる。
「……歩こう、ルーチェ」
「うん」
決めごとを作った、その翌日に、決めごとの正しさが証明された。
旅は、まだ五日目だった。




