宿の寝台で、ルーチェが竜に戻った
街道沿いの町ミューレに着いたのは、昼を少し回った頃だった。
門には、槍を持った門番がふたり立っていた。栄えている町は、入口の顔つきからして違うらしい。
俺はトーマの鞄の仕切りから、銅色のカードを出した。出発前に作った、見習い刻印付きのギルドカード。門番はカードと俺の顔を見比べて、それから隣のルーチェを見た。
「連れは」
「妹です。カードは、まだ」
「なら、通行料が銅貨五枚だ。カード持ちは要らん」
言われるまま、ルーチェのぶんを払った。門番はカードを返しながら、「妹さんも十になってるなら、ギルドで登録してきな。出張所は南通りだ。滞在中に登録すりゃ、いま払ったぶんは返る決まりだ」と、聞いてもいないことまで教えてくれた。
「……返るんですか」
「カード持ちは、依頼の報酬から町に税が引かれるからな。働くだけで町に金を落としてくれる。門でまで取ったら、二重取りだ」
取りっぱぐれがない上に、二重にも取らない。……いい制度だ。
「登録は、……そのうちに」
俺は曖昧に笑って、ルーチェの手を引いた。
ギルドの登録には、血が一滴要る。あの黒い石に、竜の血を落としたらどうなるのか——考えたくもなかった。何も起きないかもしれない。石が壊れるかもしれない。妹の正体を、王都中に知らせることになるかもしれない。
試す気には、とてもなれなかった。
門をくぐって最初に思ったのは、匂いが違う、ということだった。アシェンの朝は、市場の土のついた野菜と、孤児院の裏の薬草工房の、乾いた葉の匂いがする。ミューレは焼きたてのパンと、荷馬車の埃の匂いがした。街道沿いの宿場町で、行き交うのは商人と旅人ばかり。すれ違う顔の誰ひとり、俺を知らない。
それが、こんなに落ち着かないものだとは思わなかった。
七年間、俺は「孤児院のレイ」だった。市場を歩けば八百屋のおばさんが声をかけてくるし、肉屋の前を通ればベックさんが「持ってけ」と切れ端を投げてくる。名前のない場所を歩くのは、転生してから、たぶん初めてだった。
「レイ、あれ」
隣でルーチェが、屋台のパンを指差した。つやのある丸パンが、籠に山と積んである。
値札を見て、俺は驚いた。一枚、銅貨三枚。アシェンなら二枚で買える値段だ。宿の看板を見上げれば、素泊まりで銅貨二十五枚。どれもこれも、アシェンよりいい値がついている。
頭の中で、勝手に計算が始まる。十六人分のパンなら差額は銅貨十六枚、七日も続けば銀貨に届く——と、そこまで数えて、苦笑いした。もう十六人分の買い出しをする必要はないのに、七年間の癖というやつは、体に染みついたまま抜けてくれない。
街道沿いの旅人価格か、と見当をつけて、それから、もうひとつのことに気づいた。
この町の子供は、腹が減っていなさそうだ。
路地を駆け回っている子たちの頬が、ふっくらしている。走り方に、力がある。……我ながら、嫌な目のつけどころだと思う。でも、俺の物差しは七年前からこれひとつなのだ。子供が飯を食えている町かどうか。
ミューレは、栄えている町だった。ここは、いい町だ。
*
宿は、門から二本目の通りの、角の一軒にした。
宿屋のおかみさんは、俺とルーチェを交互に見て、それから確かめるように聞いた。
「坊や、ふたりだけかい」
「はい。僕は駆け出しの冒険者で、北へ行く途中で、この町に寄りました」
鞄からギルドカードを出して見せる。ここまでは、全部本当だ。嘘というのは、本当のことで挟むと通りがいい。おかみさんはカードの見習い刻印にちらりと目をやって、「あらまあ、しっかりしてること」と眉を上げて、それから視線を俺の後ろのルーチェに移した。フードはかぶせてあるが、覗く前髪だけでも、この辺りでは見ない金色だ。
「妹です」
気がついたら、そう言っていた。
「……いもうと」
ルーチェが、背中で小さく繰り返した。フードの奥で、頬のあたりがじわじわ緩んでいくのが、見なくてもわかった。
「いもうと。わたし、レイの、いもうと」
「はいはい、仲良しねえ。二階の奥、空いてるよ」
おかみさんは笑って、鍵を出してくれた。ふたり部屋を二晩ぶん。ルーチェは階段を上がるあいだずっと、いもうと、いもうと、と歌みたいに繰り返していて、俺は先が思いやられた。嬉しいのは、いい。嬉しすぎて光るのだけは、勘弁してほしい。
*
夕飯は、階下の食堂で食べた。
ミューレの名物だという腸詰めと、豆の煮込み。皿から湯気が立って、腸詰めに歯を入れると、ぱりっと音がして、熱い肉汁が出た。
うまかった。ちゃんと、うまかった。
ルーチェは腸詰めにかぶりついて、一口目で目を丸くした。
「……おいしい」
「だろ」
「おいしい。……でも」
ルーチェは、豆の煮込みを匙でひとすくい飲み込んで、少し考えてから言った。
「アリアねえの、じゃない」
「……そうだな」
うまい、と、帰りたい、は、別の話らしかった。旅の二日目にしてそれがわかっただけでも、俺たちは昨日より少しだけ利口になっている。
*
夜中に、目が覚めた。
隣の寝台が、妙に重そうに軋んだ気がしたのだ。寝ぼけたまま顔を向けて、月明かりの中で、俺は完全に目が覚めた。
寝台の上に、金色の竜が丸くなっていた。
大きな犬ほどの金色が、シーツに埋まって、すう、すう、と寝息を立てている。人の姿のまま毛布に入ったはずのルーチェが、いつの間にか、戻っていた。
そのとき、廊下で、みしり、と床の鳴る音がした。
心臓が、止まりかけた。
足音は、ゆっくりこちらへ近づいてくる。夜番のおかみさんか、トイレに立った客か。俺は音を立てないように手を伸ばして、毛布を引き上げ、金色の体をすっぽり覆った。足音は、扉の前を、何事もなく通り過ぎていった。
安堵で、詰めていた息を吐いた。それから、毛布の膨らみを見下ろした。
「ルーチェ。……おい、ルーチェ」
小声で呼んでも、そっと揺すっても、起きない。竜のときの寝つきの良さときたら、生まれた朝から筋金入りだ。俺は毛布をかけ直して、自分の寝台に腰を下ろして、考えた。
野営の夜は、朝まで人の姿だった。
今夜は、戻った。
違いは、なんだ。場所か、疲れか、飯の量か——いや、違う。
あの夜のルーチェは、初めての野営で、たぶん少しだけ気を張っていた。今夜はどうだ。屋根があって、壁があって、腹は一杯で、鍵のかかる部屋で、隣の寝台には俺がいる。
……安心しきって、眠ったのだ。
人の姿を保つのには、それだけ力がいるのだろう。気が緩めば、無意識のうちに人化が解けて、元の姿に戻る。つまりこの金色の寝息は、ここは安全だと、ルーチェの体が決めた印ということになる。
困る。ものすごく困る。宿に泊まるたびにこれでは、心臓がいくつあっても足りない。
困るのに——少しだけ嬉しいのが、いちばん困る。
*
翌朝、ルーチェは毛布の中で人の姿に戻っていて、夜のことは何ひとつ覚えていなかった。
朝の食堂で昨夜の一部始終を話すと、ルーチェは大して驚きもせず、パンをちぎりながらあっさり言った。
「ねてるとき、レイのまりょくが、もらえたら、もどらないとおもう」
「……ほう」
「てを、つないでねたら、いい。まりょく、ながれてくるから。卵のとき、ずっとそうだった。……あと、うれしい」
最後のひとことが、対策なのか本音なのか、判断に迷うところだった。卵の頃、毎晩魔力を注いで温めたのと、要するに同じことをしろという話ではある。理屈は通っている。通っているが、それを俺は、これから毎晩、眠りながらやるのか。
俺の熟睡は、どこへ行ったんだ。
旅の課題というのは、魔物でも山賊でもなく、こういう顔をしてやってくるらしい。
*
食堂を出る前に、隣の卓の話し声が、耳に引っかかった。
商人ふうの男がふたり、麦粥をつつきながら話している。
「——だからよ、一昨日の夕方、南の空に金色の何かが飛んでたって言うんだ」
「ロック鳥だろう。夕陽で光って見えただけさ」
「おれもそう言ったんだがな。見た本人が譲らねえんだ。羽根が一枚もなかった、と」
俺とルーチェは、目を合わせないまま、黙ってパンを齧った。フードの奥で、金色の目だけが、ちらりとこっちを見た。
竜の背で旅をするというのは、つまり、そういうことだった。
飛べば、一日で三日ぶんの道を稼げる。そのかわり、噂は俺たちより速く飛んで、次の町で待っている。
空を選ぶか、道を選ぶか。
宿を出て、北へ続く街道を歩き出しながら、俺は頭の隅で、もう次の算段を始めていた。




