初めての野営で、シチューが恋しくなった
本作は『捨てられた転生者、規格外スキルで孤児院を救う』の続編です。
第一部・第32話「行ってきます」の直後から始まり、最終話で語られた「三年の旅」を描きます。
第一部を読んでいなくても大丈夫なように書いていますので、ここから読み始めていただけます。
竜の背から見下ろす世界は、思っていたよりも、ずっと広かった。
眼下を、見慣れた森が流れていく。角ウサギの通り道になっている藪も、採り尽くさないように順番を決めて回っていた薬草の群生地も、月白アズリルの咲く川辺も、空から見ればどれも緑の中の小さな染みでしかなくて、それが七年分の俺の生活圏の、ぜんぶだった。
やがて、その緑が途切れた。
見たことのない稜線が、地平の向こうから迫ってくる。色の違う森、名前を知らない川、街道から分かれて細くなっていく脇道。そのどれもが、俺が一度も足を踏み入れたことのない場所だった。
試しに、眼下の斜面に鑑定をかけてみた。
【シロツメ苔/湿った岩に生える。食用不可。煮出せば染料になる】
知らない。
【カザハナ草/北方に自生。若芽は苦みが強いが、干せば熱冷ましになる】
これも、知らない。
鑑定のレベルは、七年前とは比べものにならないくらい上がっている。オスカルさんが唸るような細かい薬効まで、今なら一目で読めるようになった。その鑑定が、さっきから返してくるのは、初めて聞く名前ばかりだ。
答えは、ちゃんと出る。ただ、その答えを俺がひとつも知らない。
七年、俺は町の半径だけを生きていたのだと、上から見てはじめて分かった。
四歳で前世を思い出して、薄い粥の食卓を守るために森へ入り、肉屋に解体を教わり、薬屋に薬草を持ち込み、町の大人たちと証拠を積み上げて悪徳領主の不正を暴き、屋根を直して、家族を増やした。その全部を、俺はアシェンの町から歩いて行ける距離の中でやってきたのだ。誇っていいことだとは思う。ただ、それがこの世界のどれくらいの大きさだったのかを、俺は今日はじめて知った。
風が冷たい。
ルーチェの首の付け根に手を置くと、鱗の下の体温が、じんわりと手のひらに伝わってきた。
——レイ、さむい?
声は耳からじゃなく、頭の中に届く。竜の姿のときは、今でもこっちだ。
「平気だ。……なあ、ルーチェ。世界って、広いな」
——うん。ひろいよ。
ルーチェは当たり前みたいに答えて、それから少しだけ、翼を傾けた。
——でも、レイのおうちは、ひとつだけだよ。
振り返っても、アシェンの町は、もうどこにも見えなかった。
*
空の色が変わりはじめた頃、街道から少し外れた岩陰に降りた。
地面に足がついた瞬間、ルーチェの輪郭が金色にほどけて、次には俺より少し低い背丈の女の子が、砂を踏んで立っていた。人の姿でいられる時間は、この何年かでずいぶん延びて、今では朝から晩まで、ほとんど一日中もつ。
「おなか、すいた」
「わかった、今出す」
アイテムボックスを開く。
時間の止まったその中に、旅の道具がまとめて入っている。寝具、鍋、水、火を熾す道具、着替え、それにアリア姉が持たせてくれた作り置きが数日分。四歳のときは足元の石ころひとつ出し入れして感心していたこの容れ物も、七年経って、荷車ごと呑み込めるくらいには育った。
鍋と薪を出す。薪は、森で拾って入れておいたものだ。乾かした苔をほぐして、火打石で火花を散らす。移った赤い点に細く息を吹き込むと、じきに小さな炎になった。細枝から順に、薪をくべていく。火を熾すのは、もう慣れた作業だった。
炎が立ち上がると、岩陰の空気だけが、急に狭くなった気がした。
静かだった。風の音と、薪の爆ぜる音と、ルーチェが座りやすいように石をよけている音。それだけしかない。
この時間、孤児院は一日で一番うるさい。テオとルカが皿を並べながら小競り合いを始めて、ミコが人数を数え間違えて、セルが「先に座ったもん勝ち」と主張して、ハナが全員まとめて叱って、それでもアリア姉が大鍋の蓋を開けた瞬間だけは、全員が一斉に黙る。
あの騒がしさが、ここには、ひとつもなかった。
*
鍋で湯を沸かして、干し肉と、硬くなったパンを出した。
作り置きは数日分しか持ってきていない。アイテムボックスの中では時間が止まるから、入れておけば腐りはしないのだが、旅先で買えばいいと踏んで、それだけしか積まなかった。今日はまだ、町にも村にも着いていない。
パンを湯に浸して、干し肉を齧る。塩気と、噛むほどに滲んでくる肉の味。悪くはないし、腹も膨れる。
隣で、ルーチェが干し肉を小さく齧って、しばらく黙って噛んで、それから正直に言った。
「……シチューのほうが、おいしい」
俺は、噴き出した。
「だよなあ」
「レイも、そうおもう?」
「思う。圧倒的に、そう思う」
言ってから、少しだけ喉の奥が詰まった。
あの食卓は、当たり前じゃなかったのだ。
七年前、俺が目を覚ました日の夕飯は、麦と雑穀だけの薄い粥だった。肉が出るのは年に数えるほどで、みんなそれを「ごちそう」の顔で食べていた。アリア姉の大鍋にシチューが入るようになったのは、俺たちが森に通って、店を回って、頭を下げて、金を稼いで、そうやって一日ずつ積み上げた結果だ。
あのシチューは、湧いて出たわけじゃない。作ったものだった。
旅に出た初日に、腹の空き方でそれを思い知らされるとは思わなかった。
「ルーチェ」
「ん」
「帰ったら、作るよ。俺が」
「レイが?」
「アリア姉に習う。……いや、横で見てた分で、たぶんもう半分は習ってる」
ルーチェは目を丸くして、それから、火の色を映した金色の目を、細めた。
「たのしみ」
旅の目的の隣に、帰る理由が、ひとつ並んだ。
*
火のそばで、懐から紙を出した。
あの秋の夜に書き出して、それからずっと持ち歩いている、四つの問い。
ひとつ、俺の時空間素質とは何なのか。鑑定がこれだけ育っても、自分のステータスのその行だけは、いまだに【※詳細不明】のままだ。ふたつ、ルーチェの卵はなぜ時のすきまを流されて、あの森に落ちたのか。親竜は、どこにいるのか。みっつ、俺はなぜ転生したのか。よっつ、リーナの母親が遺したエルフ文字には、何と書いてあるのか。
紙の端は、もう毛羽立っていた。
ルーチェが横から覗き込んで、二行目を指でなぞる。
「これ、わたしのぶん」
「そうだな」
「ふえてる。まえは、わたしのぶん、なかったのに」
嬉しそうに言うので、俺は少しだけ笑ってしまった。自分に関する謎が増えることを喜ぶやつは、たぶんこの世界にそう多くない。
ルーチェの指は、そのまま四行目まで下りていった。
「リーナのぶんも、ふえた」
「……ああ」
オスカルさんの店で、調合まで任されるようになったリーナは、今回、留守番を選んだ。行きたくなかったわけじゃないのは、旅立ちの朝のあの顔を見れば分かる。
持った? と、リーナは俺の胸元を指して確かめた。この四つ目は、あいつの問いだ。あの一言は、そういう意味だった。
「ぜんぶ、みつかるかな」
「わからん。ただ、ここじゃないどこかにあるってことだけは、七年かけて分かった」
紙を畳んで、懐に戻す。トーマの鞄の内側には、ニナがくれた川の石と、ミコとルカが描いた孤児院の絵も入っている。屋根の上に、金色の竜が乗っている絵だ。
*
毛布を出して、火のそばに敷いた。
「ルーチェ。ルームの中で寝るか。あそこなら、雨が降っても濡れないぞ」
「やだ」
即答だった。
「あそこ、つめたい。かべが、いしで、しかくくて、なんにもない」
言われてみれば、その通りだった。ディメンションルームの中は、七年前に初めて開いたときから、灰色の石でできた四角い部屋のままだ。時間が止まらないから生き物を入れておける代わりに、居心地の方は、たぶん誰にも考えられていない。
「外の方がましか」
「うん。こっちのほうが、あったかい」
毛布に潜り込みながら、ルーチェはそう言った。
明日の昼過ぎには、街道沿いの最初の町に着く。宿を取って、荷を補充して、王都までの道の話を集める。そこまでは、ちゃんと考えてあった。
毛布から覗いている金色の髪を見ていて、考えていなかったことに気がついた。
「なあ、ルーチェ」
「ん……」
「宿って、どうする」
「とれば、いい」
「そうじゃなくて。……寝てる間に、戻らないか?」
人の姿でいられるのは、ほとんど一日中。ほとんど、だ。生まれてから一度も、完全ではなかった。疲れたとき、気が緩んだとき、ルーチェの輪郭は今でも金色にほどける。
宿の寝台で、朝、金色の竜が丸くなっていたら。宿屋の人が朝飯を運びに来て、扉を開けたら。
ルーチェは、毛布の中でもぞもぞと寝返りを打った。
「だいじょうぶ。……たぶん」
「その『たぶん』が、一番こわいんだが」
「レイは、しんぱいしょう」
そう言ったきり、ルーチェは寝息を立てはじめた。竜だった頃から、寝つきの良さだけはまったく変わらない。
俺は焚き火に薪を足して、しばらくその火を見ていた。
旅は、まだ一日目だ。事件も、敵も、まだ何も起きていない。
それでも、明日の夜には、最初の問題が待っている。




