森の入り口と、通してもらえない道
港町を出て三日目、森の入り口に到着した。
道の上に枝がかかり、日陰が途切れなくなっていた。空を確かめるには、顔を真上へ向けなければならない。
周りを見ると幹が太い木が多い。
道から少し奥に立つ一本は、俺とルーチェが手を繋いでも抱えきれそうになかった。
落ち葉の色も、揃っていない。赤い葉の積もった場所を過ぎると、まだ緑の濃い枝が張り出している。その下だけ、昼なのに薄暗かった。
「レイ。このもり、しずかだね」
「ああ」
生き物がいないわけじゃない。
頭の上で枝が揺れた。藪の奥では、小さな足音が遠ざかった。ただ、アシェンの森で聞き慣れた鳥の声がしない。
道端の草に、鑑定を通した。
【ヒカゲスゲ/北方の深い森に自生。薬効なし】
見たことのない草だったが、名前は出た。
港の船荷は分からなかった。こちらは分かる。その違いを決めているものは、まだ見当がつかなかった。
草から顔を上げると、ルーチェが少し先で待っていた。
「とらないの?」
「今日は、名前だけ」
追いついて、また並んで歩いた。
*
道を塞いでいたのは、二本の木だった。
枝を払った太い幹が、横向きに置かれている。切り口には斧の跡があり、両端は道脇の木の間に収まっていた。
その向こうにも、踏み固められた道は続いている。
「……どうやらここが、例の場所だな」
ルーチェが横から覗き込んだ。
「はいっちゃ、だめ?」
「たぶん」
「よこ、とおれるよ」
確かに、幹の端を回れば通れた。
アイテムボックスへ収めれば、道を空けることだってできる。
俺は荷物を下ろした。
「通れるけど、誰かがここで止まるように置いたんだと思う」
森の奥へ声をかけた。
「すみません。どなたか、いませんか?」
返事はなかった。
少し待って、もう一度呼ぶ。
葉の擦れる音がしただけだった。
「まつの?」
「ああ。道を閉めた人が来るかもしれない」
「こなかったら?」
「暗くなる前に、少し戻ろう」
ここまで来て、引き返すのは惜しかった。
けれど、聞きたいことがあって来たのだ。最初から、相手が塞いだ道を勝手に越えてしまうのはまずい。
俺たちは道の脇に座り、遅めの昼飯を食べた。
*
日が傾いても、誰も来なかった。
ルーチェは落ち葉を拾って並べていた。赤、黄色、緑。同じ赤でも、明るいものと黒ずんだものを分けている。
俺は何度目かの地図を畳んだ。
そろそろ戻るか。
そう言おうとしたとき、声がした。
「——警告する。ここから先は、通らない方がいい」
顔を上げた。
道を塞ぐ幹の向こうに、人が立っていた。
いつからいたのか分からない。外套の色が木々に紛れて、顔を動かされるまで輪郭が掴めなかった。
背が高い。フードの脇から、長く尖った耳が覗いている。
エルフだ。
左手に弓を持っていた。矢はつがえていない。
俺は両手を膝の上に置いた。
「はい。勝手に入らずに、お話を聞こうと思って待っていました」
「何の話だ?」
「この森に、読んでいただきたい文字があります」
言ってから、違う、と気づいた。
「文字を持ってきました。読める方が、この森にいると聞いて」
相手は動かなかった。
「誰から聞いた?」
「王立大書庫の司書の方です」
「人間の子供が、大書庫に?」
「はい。そこで調べても、全部は分からなくて」
視線が、俺の顔から鞄へ下りた。
「見せてみろ」
「今、鞄から出しますので」
ゆっくり手を伸ばした。
ルーチェは落ち葉を置いて、俺の隣に座り直していた。
*
油紙を開くと、折り目のついた写しが出てきた。
リーナの母親が遺した一行。
それと、大書庫の古い本の余白にあった、同じ文字の注釈。
一行の方には、俺が書き足した言葉がある。
星。還る。待っている。
読めたのは、そこまでだった。
「そちらに置いてもいいですか?」
道を塞ぐ幹を指すと、相手が僅かに頷いた。
俺は紙を載せ、一歩下がった。
エルフは近づいてきた。
顔より先に、細い指が見えた。紙の端を押さえ、二枚を順に見る。
最初の一枚へ、また戻った。
「これは、どこで手に入れた?」
「家族の母親が遺したものです。原本は、その家族が持っています」
「家族?」
「同じ孤児院で育ちました。リーナといいます。ハーフエルフです」
紙を押さえていた指が止まった。
「……森の外の子か」
「リーナを知っているんですか?」
相手は答えなかった。
俺は顔を見ようとした。フードの下の目は、まだ紙に向いていた。
「本人も、ずっと読もうとしていますが、母親には、もう聞けないので」
ようやく、こちらを見た。
弓を持つ手が少し下がった。
「リーナがここへ来たら、入れますか?」
「入れない」
短い返事だった。
理由が続くのを待ったが、続かなかった。
「なぜですか?」
「入れない」
同じ言葉が返ってきた。
膝の横で、俺の指が曲がった。
リーナは、この文字を読もうとしている。
そのために来ても、駄目なのか。
「……いつかは、入れますか?」
エルフは、俺から紙へ目を戻した。
今度は、返事そのものがなかった。
*
「二枚とも預かる」
しばらくして、相手が言った。
「読んでもらえるんですか?」
「私だけでは答えられない」
読めない、とは言わなかった。
何が書かれているのか。
なぜ、この人だけでは答えられないのか。
聞きたいことが増えた。けれど、さっきの問いにも答えてもらえていない。
俺は二枚の紙を見た。
原本はリーナの手元にある。大書庫の本も、残っている。
それでも、旅の間ずっと持っていた写しを手放すとなると、すぐには頷けなかった。
「手元に、もう一組残してもいいですか?」
エルフは俺を見た。
「書き写す間だけ、待ってください」
「……わかった」
俺は鞄からペンと紙を出した。
木の幹に紙を重ねると、書くたびにペン先が引っかかった。下敷きになるものを挟み、膝の上で書き直す。
ルーチェが、元の紙の端を押さえてくれた。
字の形を一つずつ確かめる。
分かっている三つの言葉も、同じ場所に書き添えた。
その間、エルフは何も言わずに待っていた。
「お願いします」
写し終え、持ってきた二枚を油紙で包んで差し出した。
長い指が受け取った。
「返事は、すぐには出ない」
「どれくらいですか?」
「冬になるかもしれない」
「待ちます」
答えは、考えるより先に出た。
隣でルーチェが俺を見上げた。
その顔を見てから、自分が何を決めたのか分かった。
「……待ちたいです。ここで暮らせる場所を探して」
エルフは、二人を順に見た。
「森の中には入るな。ここまでだ」
「どこで待てば、返事を受け取れますか?」
相手は、来た道の方を指した。
「少し戻ると、森に沿う道がある。その先に木こりの集落がある。待つなら、その辺りにいろ」
「そこなら、冬も過ごせますか?」
「住んでいる者に聞け」
それだけ言って、紙を外套の内側へ収めた。
「あの、名前を——」
顔がこちらへ向いた。
俺は途中で口を閉じた。
「僕は、レイです」
相手は答えず、森の奥へ戻っていった。
数歩で姿が木々に重なり、見えなくなった。
足音は、最後まで聞こえなかった。
*
その夜は、少し道を戻って野営した。
風の当たりにくい場所を選び、湿った落ち葉を除けた。火が落ち着くまで、いつもより手がかかった。
豆を煮ている間、俺は新しく書いた写しを見ていた。
元の紙より、字が大きい。
急いだところだけ線が太くなっている。読めない字を写すのは、何度やっても気を遣った。
「リーナのかみ、かえってくる?」
ルーチェが聞いた。
「返してもらうつもりだ」
「うん」
俺は紙を包み、鞄へしまった。
「あの人、怖かったか?」
「すこし」
「俺も」
ルーチェは鍋の湯気を見ていた。
「でも、まってくれた」
「書いてる間か?」
「うん。ゆみも、ひかなかった」
「ああ」
それは確かだった。
だから信用していい、とまでは言えない。それでも、紙を見て、話を聞いて、持ち帰ってくれた。
最初の「通らない方がいい」だけで終わりにはならなかった。
港町の桟橋が頭をよぎった。
谷から出たという鱗。人を入れない森。
結びつけたくなる。けれど、同じ理由だと考えるには、分からないことが多すぎた。
あの人がリーナを知っているのかさえ、まだ確かめられていない。
*
椀を渡してから、俺はルーチェに向き直った。
「さっき、勝手に待つって言ったな」
「うん」
「ここで返事を待ちたい。リーナに、分かったことを持って帰りたいんだ」
ルーチェは椀を両手で持ったまま、聞いていた。
「でも、冬になるかもしれない。谷へ行くのも、その分遅くなる」
「ふゆの、あいだも?」
「そこまでは分からない」
火の中で、小さく枝が弾けた。
「わたしは、たにも、いきたい」
「ああ」
「でも、リーナのも、しりたい」
俺は頷いた。
ルーチェは少し考え、湯気の向こうから俺を見た。
「ずっと、ここでねるの?」
「いや。まず、教えてもらった集落で聞いてみよう」
「おへや、ある?」
「それも聞こう。寒くなってから探すんじゃ遅いからな」
ルームなら、今夜でも暖かく眠れる。
ただ、森のすぐ外だ。あのエルフがどこから見ているか分からない。火が消えるまでは、開く気になれなかった。
それに、返事を待ちながら暮らすなら、ルームだけでは済まない。外へ出る服も、水も薪も要る。この辺りの冬がどうなるのか、俺は知らなかった。
「くらせそうだったら、まつ?」
「ああ。そうしよう」
ルーチェは豆を一口食べた。
俺も椀を持ち上げる。
話している間に、縁が冷たくなっていた。
「レイ、さむいの、へいき?」
「平気じゃない」
「さっき、すぐ、まつっていった」
「……言ったな」
ルーチェが少し笑った。
俺は薪を一本足した。
火が強くなると、ルーチェが椀を持ったまま、少し近くへ寄ってきた。
リーナの紙は今、あの森の中にある。
俺たちは、その外にいる。
明日は、ここで待つための場所を探す。
毛布を広げ、ルーチェと自分の膝にかけた。焚き火に向けた顔は暖かかったが、背中の冷えは、まだ抜けなかった。




