塩の来た道と、届かなくなった先
ルームを開くと、ルーチェはもう起きていた。
俺の顔を見て、寝床から首を上げる。
「ルーチェ、おはよう」
「……レイ、おはよう」
人の姿に戻って部屋へ出てくると、畳んであった上着を手に取った。袖を通す前に、一度、窓の外を見る。
屋根の間に、朝の海が覗いていた。
俺は荷物を確かめた。水袋。食料。地図。鞄の口を閉め、留め具をかける。
ルーチェは上着の裾を直して、まだ窓のそばに立っていた。
「レイ」
「ん?」
「ここのうみを、もういっかい、みたい」
「じゃあ、見てから出よう。塩も買い足したい」
ルーチェの目が、俺に戻った。
「きのうのとこ?」
「いや。昼間に通った広場の方だ」
「……うん」
フードを被る手が、金色の髪をいつもより奥へ押し込んだ。
俺は先に戸を開け、廊下を見た。
階下から、食器を重ねる音がしていた。
*
宿の女将さんに鍵を返すと、腹は壊さなかったか、と聞かれた。
「大丈夫でした。お世話になりました」
「そうかい。妹がいるんだ、気をつけるんだよ」
「はい」
ルーチェも隣で頭を下げた。
表へ出ると、パンを焼く匂いがした。空の籠を抱えた女の人が坂を下り、魚市場の方から荷車が上がってくる。
昨夜とは違って、道の先まで見えた。
それでも港に近づくと、ルーチェの歩幅が少し小さくなった。
俺はその速さに合わせ、朝の人通りがある道を歩いた。
塩の広場では、もう荷積みが始まっていた。
白い山の間を担ぎ手が行き来している。荷馬車の脇で樽を数える声がして、御者が馬の首を叩いた。
俺たちは広場の手前に並ぶ、小売りの店へ寄った。
食べる方の塩を三袋。旅で使う分と、家へ持ち帰る分だ。
「北へ行くのかい?」
銅貨を受け取った主人が聞いた。
「はい。森の方へ」
谷、と言いかけてやめた。
「あっちは冷えるぞ。ここら辺と同じつもりで行くなよ」
「気をつけます」
主人は袋の口を締め直し、こちらへ寄せた。
その後ろに、同じ印のついた樽が並んでいる。
王都へ向かう途中ですれ違った、塩の荷馬車を思い出した。
「この町の塩は、王都より南にも行くんですよね?」
「行くさ。大きい商会の荷なら、ずっと先までな。うちも前は、王都の南まで出してた」
「ミューレの方にも?」
「ああ」
「旧道沿いの村にも、寄っていましたか?」
主人の手が止まった。
「……あんた、あの道を通ったのか?」
「王都に来る前に」
「橋はどうなってた?」
思っていたより、早い問いだった。
*
「石の橋脚は使える状態になっていました。村の人たちが、丸太を運んでいて」
「架け直してたのか?」
「人と背負い荷なら渡れる橋にする、と言っていました。僕たちが出たときは、まだ作業を始めたところで」
主人は俺の顔を見たまま、少し待った。
その先を言う。
「荷馬車は、まだ無理だと思います」
「……そうか」
主人は店の奥へ目をやった。
そこには、車輪の半分ほどもある塩の樽が積まれていた。
「うちは年に三度、あの辺りを回ってたんだ。塩を下ろして、野菜や卵を積んでな。村ひとつじゃ少なくても、幾つか回れば商いになった」
「橋が落ちてからは?」
「行けてない。去年の春からだ」
主人は樽の縁に手を置いた。
「回り道ならある。だが、同じ村を回って戻るとなると、六日余計に食う。人も馬も、その間、食わせにゃならん」
「塩の値段を上げても、ですか?」
「上げたら、今度は向こうが買えんよ」
俺は、買ったばかりの袋を見た。
この広場なら、銅貨を出せばすぐに手に入る。
店先には、それが何袋も並んでいた。
「荷馬車が通れる橋を、架け直す話はないんですか?」
「役所には頼んだ。何度もな。橋の工事は、うちらの手に負えん」
主人の指が、樽の縁を一度叩いた。
「橋の工事はまだ先になると言われとる。それはいつだと聞いても、まだ先としか言わん」
あの村の人たちは、丸太を担いで川原へ下りていった。
橋脚が直った、次は自分たちの番だと。
あの橋ができていれば、人は渡れる。背負って塩を売りに来る行商も、通れるかもしれない。
でも、この樽を積んだ荷馬車は渡れない。
俺は店先の袋から、奥の樽へ目を移した。
「川沿いの村は、覚えていますか? ミューレから旧道に入って、二日目くらいの。広場に井戸があって、村長が白髪の——」
「ヨナスの爺さんか」
名前が出た。
俺には、ずっと「村長」だった人だ。
夕飯を分けてもらって、納屋に泊めてもらって。夜中の川原で、何も見ていないと言ってくれた。
「おそらく、その人です」
「元気だったか?」
「はい。橋脚が使えるなら、自分たちで橋を架けられるって」
主人は口を開きかけて、閉じた。
少ししてから、息を吐いた。
「あの爺さんは、荷馬車が着くと水を汲んでくるんだ」
「井戸から?」
「そう。こっちが荷を下ろす前にな。馬にも飲ませる。自分でやるからいいと言っても、聞きゃしない」
主人は樽から手を離した。
「腰も曲がってきてるのに、桶を二つも持ってな」
村長が井戸のそばに立つ姿は、すぐに思い浮かんだ。
その隣に荷馬車が停まっているところは、俺は見たことがなかった。
「……そうですか」
「ああ」
広場で、馬が鼻を鳴らした。
主人がそちらを見た。
俺も、つられて振り向いた。
*
袋を鞄へ収める前に、もう一度、橋のことを伝えた。
「人が渡れる橋も、完成したところまでは見ていません。今どうなっているかは、分からないです」
「分かっとるよ」
主人は頷いた。
「でも、直し始めたんだな」
「はい」
「そうか」
今度は、さっきとは少し違う声だった。
俺は礼を言って、店を離れた。
広場の端まで来たところで、ルーチェが口を開いた。
「あの、ぱんをあげたこのところ?」
何のことか、一瞬考えた。
ミューレで買った最後の丸パン。
それを見ていた、小さな女の子。
「ああ。あの子の村だ」
「おじいさんも、いたね?」
「いたな」
「しおうりのおじさん、しってたね?」
「名前まで知ってたな」
ルーチェは少し歩いてから、俺を見上げた。
「レイ、おぼえてて、よかったね」
「……ああ」
俺は塩の入った鞄を持ち直した。
店へ戻って、俺が運びますと言うことはできた。
樽だって、アイテムボックスには入る。村で野菜を預かって、こちらへ持ってくることもできる。
ただ、その次も俺が行かなければならない。
北へ進んでいる間は、また止まる。
あの夜、川底の石を戻せたときには、もっと大きなことができた気がしていた。
実際、村の人たちは喜んでくれた。あれが役に立たなかったとは思わない。
それでも、まだ渡れない荷物がある。
「レイ」
「ん?」
「はしはいまのままじゃだめなの?」
「荷馬車が通るにはな」
ルーチェは、広場の荷馬車を振り返った。
樽が最後の一つまで載せられ、御者が綱をかけている。
「にばしゃは、おもいもんね」
「ああ。重いんだ」
俺の荷物なら、重さは消せる。
あの人の荷馬車は、そうはいかない。
いつか、荷車も通れる橋を誰かと一緒に。
村を出るときに考えたことを、思い出した。
橋を造れる職人。使う木や石。その金を出す人。役所の返事。
知らなければならないことは、まだ幾つもあった。
俺は道の脇に寄り、鞄から紙を出した。
塩屋の場所と、年に三度という回数を書いた。その下に、ヨナス、と書き足した。
ルーチェは急かさず、横で待っていた。
*
海は、広場の先から見えた。
俺たちは荷運びの邪魔にならない場所に立った。
朝の光が水面で細かく砕けている。大きな船はまだ停まっていた。甲板の上を人が歩き、何人かが綱を引いていた。
ルーチェは俺の隣から離れずに見ていた。
やがて、白い帆の一部が下りてきた。
「あ」
風を受けて、布が膨らむ。
すぐに綱が引かれ、形が変わった。船はまだ動かなかった。
「ゆれてるね」
「ああ」
初めて見た日は、重そうだと言っていた。
ルーチェはしばらく顔を上げていた。それから、自分でフードの端を直した。
「レイ、もういいよ」
「行くか?」
「うん」
坂を上る途中で、二人でもう一度振り返った。
船も、塩の山も、さっきより小さく見えた。
「つぎは、ふね、でるとこもみたい」
「そうだな」
いつ来られるかは、まだ分からない。
それでも、見たいものが一つ残った。
*
町を離れると、街道は内陸へ折れた。
家々が途切れ、道端に草が増える。海から吹いてきていた風は、低い丘を越えたところで弱くなった。
昼の休憩に、パンと焼いておいた魚を出した。
ルーチェは魚を見て、少し顔を寄せた。
「みんなのぶん、ある?」
「ある。昨日しまった分は、そのままだ」
「やくのも?」
「焼くのも。生で食べてみたい人がいれば、その分も」
ルーチェは頷き、ほぐした身をパンに載せた。
俺も同じようにして食べた。
少し塩を足したくなって、買った袋の一つを開ける。指先につまんで、魚に落とした。
袋の口を結び直している間に、塩屋の樽を思い出した。
あの塩があれば、あそこの村は色々使えるはずだが。
今、村長や村はどうなっているだろう。
答えのないまま、袋をしまった。
午後になると、遠くの山裾に、濃い緑の帯が見えてきた。
地図を開いて、道の向きを確かめる。
北の森へ続く道だった。
リーナの母親が残した一行。その手がかりを求めて、ここまで来た。
さらに北には、谷があるという。
昨夜の男が言った谷と同じなのかは、分からない。鱗が本当にそこから運ばれてきたのかも。
まずは、森で話を聞く。
地図を畳むと、ルーチェも前を見ていた。
「レイ、もりは、まだとおい?」
「今日は着かないな」
「じゃあ、きょうは、のじゅくだね?」
「ああ。暗くなる前に、いい場所を探そう」
ルーチェは頷いた。
歩き出すと、隣に足音がついてきた。
次の丘を越えたところで振り返っても、もう海は見えなかった。




