夜の桟橋と、鱗の値段
その夜、ルーチェはルームに入ろうとしなかった。
窓の下に立って、外を見ている。昼間の大きな船は、もう暗くて見えない。港の明かりが幾つか、波の向こうで揺れていた。
「まだ船を見てるのか?」
返事がない。
俺が隣に立つと、ルーチェは少しだけ首を傾けた。
「……なにかへんなかんじが、する」
「ルーチェどうした?」
「……なにかはわからないけど」
窓は閉まっているが、ルーチェは何か感じているみたいだ。
「それは、どんな感じだ?」
「わかんない。けど、なにかへん」
ルーチェは胸元の服を握った。
「でも、あっちのほうにかんじる」
「どっちだ?」
「みなとの、ずっとはし」
昼間、船を見ていた方とは違う。明かりの少ない、町外れに近い方だった。
「前にも感じたことがあるのか?」
ルーチェは首を振った。
「はじめて」
そのまま、また窓を見る。
昼間、この子は自分がどこから来たのか知りたいと言った。
だからといって、今感じているものが生まれにつながるとは限らない。夜の港に、子供二人で確かめに行く理由としては足りなかった。
足りないと分かっていて、俺も窓の外を見ていた。
「……少しだけ見に行こう」
ルーチェが振り向いた。
「人がいたら近づかない。道から分からなければ、今夜は戻る。それでいいか?」
「うん」
「上着を着ろ。フードも」
俺は部屋の鍵を取り、ルーチェが身支度を終えるのを待った。
*
昼間は荷車の音でいっぱいだった道に、俺たちの足音だけがした。
坂を下りるにつれて、波の音が大きくなる。水際に繋がれた舟が軋み、どこかで綱が木を叩いていた。
ルーチェは迷わず港の端を指した。
塩の山の向こうに、古い桟橋がある。昼間に見た荷揚げ場よりも狭く、板の一部が黒く傷んでいた。
そこに、二つの明かりがあった。
俺は足を止めた。
小舟が一艘、着いている。舟の上に一人、桟橋に二人。男たちが木箱を受け渡していた。
「あそこに人がいる。戻るぞ」
小声で言うと、ルーチェの指が俺の袖を掴んだ。
「あれ」
箱の一つが、桟橋に置かれた。
男が蓋を開ける。もう一人が明かりを寄せ、中から何かをつまみ上げた。
手のひらほどの、平たいものだった。
縁が薄く、中央に厚みがある。男が裏返すと、緑がかった灰色の表面に光が滑った。
鱗。
そう思った途端、袖を掴む手が強くなった。
俺はルーチェの肩を引き、塩の山の陰に身を寄せた。桟橋までは少し離れており、明かりはこちらまで届いていない。
ただ、帰るには、一度、桟橋の見える位置まで出なければならなかった。
何やら話し声がしたので、俺とルーチェは声を殺し聞き耳を立てていたら風に乗って、相手の声が聞こえた。
「——この量、どこから」
「谷の方から出た品だ。詳しいことは聞くな」
「谷って、北の?」
「聞くなと言ってる」
男が鱗を箱へ戻した。
同じようなものが、幾重にも重なっているのが見えた。
「一枚で金貨二枚は堅い。王都の裏なら、三枚出す物好きがいる」
「こんなもんに?」
「刃や矢の通らない防具が作れると聞けば、金を出すさ。それで、実際の効果は知らんがね」
短い笑い声がした。
金貨二枚。
一枚でそれなら、あの箱には。
ルーチェの手が震えていた。
俺は、その手を握った。
「鱗だけか?」
「今回はな。爪と牙は別口だ」
「肝は?」
「ありゃ、もっと高い」
「手に入らなかったのか?」
「あれは生きてるうちに取らなきゃ、値が落ちる」
箱の蓋が閉まった。
俺の手は、獣の腹の開き方を覚えている。
ベックさんの店で、何度もやった。どこに刃を入れるか。内臓を傷つけずに、どう取り出すか。
男の言葉が、知っている手順に重なった。
俺は思わず握っていた手に、力を入れすぎてしまった。
少し緩める。ルーチェは何も言わず、俺の指を握り直した。
男たちが舟の方を向いた。
「今だ。行くぞ」
俺はルーチェを先に塩の山の裏へ通し、その後に続いた。
途中で、背後の明かりが動いた。
二人でしゃがむ。
足音が二つ、三つ。
止まって、木箱を置く音がした。
誰もこちらへは来なかった。
通りに戻ってからも、宿の灯が見えるまでは手を離さなかった。
*
部屋の戸を閉め、内側から棒をつっかえて、外から開けられないようにした。
ルーチェは寝台の端に座った。フードを被ったまま、膝の上に両手を置いている。
水を差し出すと、受け取って一口飲んだ。
「レイ」
「うん」
「あれ、りゅうの?」
「……そう見えた」
近くで確かめたわけじゃない。
男たちの話を、信じていいかも分からない。
それでも、別のものだとは言えなかった。
「いきてる?」
俺はすぐに答えられなかった。
「あの、うろこの、りゅう」
「分からない」
ルーチェが湯飲みを見下ろした。
「鱗は、自然に抜けることもある。お前も、小さいころに落としただろ?」
「うん」
「あれもそうだったのかもしれない。でも……俺には分からない」
爪と牙は別口だ、と男は言った。
その先の言葉も、ルーチェは聞いていた。
俺が都合のいいところだけ拾っても、なかったことにはできない。
「わたしのしらない、りゅうだけど」
「ああ」
「……いやだ」
「俺もだ」
ルーチェの手から湯飲みを受け取り、机に置いた。
それから隣に座った。
窓の外では、舟を叩く波の音が続いている。昨日までは気にも留めなかった廊下の足音に、俺は一度、戸の方を見た。
「明日、この町を出よう」
ルーチェは黙っていた。
「ここに、竜の鱗を売り買いする奴がいる。そんな奴らに、お前を見つけられたくない」
「……まだ、このまちでいろんなこと、みてない」
「ああ」
「おおきいふね、うごくところも」
「見てないな」
昼間、帆を畳んだ船を見上げていた顔が浮かんだ。
あれが風を受けたらどうなるのか。岸から離れた船は、どこで向きを変えるのか。
明日なら見られるかもしれないと、俺も思っていた。
ルーチェは足元に目を落とした。
「でも、あそこは、もういきたくない」
「行かない」
「……レイ、まちをでよう」
「分かった」
俺が立ちかけると、服の裾を引かれた。
「うみは」
「うん?」
「また、みられる?」
俺は座り直した。
「見よう。また、二人で」
ルーチェは小さく頷いた。
笑いはしなかった。
*
荷物をまとめていて、ボックスの奥の布包みを出した。
ほどくと、薄い金色が三枚、手のひらに落ちた。
親指の爪ほどしかない。ルーチェが小さかったころ、抜け落ちたのを拾って、そのまま取っておいたものだ。
寝台から、ルーチェがこちらを見ていた。
「それ」
「お前の鱗。覚えてるか?」
近くへ持っていくと、ルーチェは手のひらを覗き込んだ。
「ちいさい」
「お前も小さかったからな」
一枚に、指先でそっと触れる。
灯りを受けて、金色が動いた。
「ずっと、あったの?」
「ああ。ボックスにしまってた」
「どうして?」
拾ったときのことを考えた。
傷がないか背中を確かめて、何ともないと分かって。それでも捨てずに、布を探して包んだ。
「取っておきたかったんだ」
ルーチェはしばらく鱗を見ていた。
「……これ、うるの?」
「売らない」
そこは、迷わず答えられた。
ルーチェの指が離れた。俺は三枚を布の上へ戻し、端を折った。
「じゃあレイが、もっててね」
「ああ」
一枚ずつ、少し間を空けて包み直す。
ルーチェは、最後の端を折るまで見ていた。
*
寝る支度を終えて、ルームを開いた。
ルーチェは入口で立ち止まり、俺を振り返った。
「レイ、きょうはこっちにきて」
「いいぞ」
宿の戸締まりをもう一度確かめてから、一緒に入った。
ルーチェは竜の姿に戻ると、いつもの寝床で丸くなった。俺が隣に座ると、少し体をずらして、膝に鼻先を寄せてくる。
背中に手を置いた。
灯りの下に、金色の鱗が並んでいた。手のひらの下で、呼吸に合わせてゆっくり動く。
「レイ」
「うん」
「きたのたにには、いくの?」
昼間も話した、北の谷。
あの男が言った場所と同じなのか。それすら、まだ分からない。
「まずは、森まで行こう。谷のことは、そこで調べる」
ルーチェは俺を見ていた。
「何がいるか分からないまま、入るのはやめよう」
「……うん」
鼻先が、もう少し膝に押しつけられた。
俺は背中を撫でた。
しばらくして目が閉じたが、廊下で物音がしたときには、また開いた。
「ここにいる」
そう言うと、ルーチェは俺の手を確かめるように首を動かした。
眠るまで、思ったより時間がかかった。
呼吸が深くなってからも、俺はしばらく座っていた。
宿の部屋へ戻ると、机の上に地図が広げたままになっていた。
港から北へ続く道を、指でたどる。
森。その先の山。
谷の方から出た品だ。
あの声だけが、妙にはっきり思い出せた。
地図を畳み、荷物へしまった。
鱗の布包みも、ボックスの奥へ戻した。




