海の向こうから来た船と、読めない荷札
この町で迎える、三度目の朝だった。
階段を下りると、女将さんが通りへ出ていた。
エプロンで手を拭きながら、港の方を見ている。
魚市場へ向かう人たちも、今日はいつもの角を曲がらなかった。籠を下げたまま、大きな桟橋の方へ歩いていく。
「何かあったんですか?」
「船が入ったね」
「船なら、昨日も」
「あんなのは、毎日入らないよ」
女将さんの指した方へ目を向けて、俺は言葉を止めた。
屋根と屋根の間から、柱が三本突き出していた。
昨日は、なかったものだ。
*
港へ下りると、船の腹が見えた。
家が浮いている。
最初に思ったのは、それだった。
水の上から高い壁が立ち上がって、その上を人が歩いていた。手すりにつかまって下へ声をかけている男が、妙に小さく見えた。
太い縄が岸へ渡り、柱の間には何本もの細い縄が張られている。
帆は畳まれていた。それでも、横木にまとめられた布の量だけで、広げたらどれほどになるのか分からなかった。
「レイ」
ルーチェが、俺の手を引いた。
「あれ、ぜんぶ、ふね?」
「ああ」
「したも?」
水に隠れている方を指している。
「下も、まだある」
ルーチェは、船と海を交互に見た。
「おもそう」
「重いだろうな」
「しずまないね」
俺も、少しのあいだ、それを見ていた。
こんなものが浮くと知っていることと、目の前に浮いていることは、ずいぶん違った。
*
桟橋の途中で、止められた。
「見物は、そこまで。荷が通るからね」
腕章をつけた男が、道脇を指した。
俺たちは言われた方へ寄った。
船と岸を繋ぐ板の上を、人が行き来している。空の手で上がっていき、荷を担いで下りてくる。その繰り返しだった。
木箱。樽。布に包まれた長いもの。
下ろされた荷の一つ一つを、机の男が帳面と見比べていた。箱の横を確かめ、何かを書き、手を振ると、次の荷が来る。
俺は、その手元を見ていた。
大きな船も、港へ着いてしまえば、一箱ずつ数えるところから始まるらしかった。
*
近くの作業台で、木箱の蓋が開いた。
中には、木の皮のようなものが束ねて詰められていた。
赤茶色で、端が丸まっている。荷を確かめる男が一束持ち上げると、風に乗って匂いが来た。
甘い。
でも、菓子の甘さとは違った。鼻の奥が、少しすっとする。
俺は、そちらへ顔を向けた。
知らない匂いだった。
オスカルさんの棚にも、マルタさんの店にも、あんな束はなかったと思う。
鑑定を通した。
【判別不能/既知の分類に該当しない】
俺は、もう一度、束を見た。
意識を集め直しても、文字は変わらなかった。
*
昨日の銀ハダには、名前が出た。
初めて見る魚でも、食べられるかどうかまで分かった。
この木の皮には、何も出ない。
遠いからか。加工されているからか。それとも、俺の知らない別の理由があるのか。
文字を見ているだけでは、そこも分からなかった。
「レイ」
ルーチェが、下から顔を覗き込んだ。
「ずっと、みてる」
「……初めて見るものだったから」
「いいにおい、するね」
「ああ」
「たべるもの?」
「分からない」
俺は、作業台へ向き直った。
分からないなら、知っている人に聞くしかない。
「あの、すみません」
帳面をつけていた男が顔を上げた。
「その束は、何ですか?」
「荷のことは、持ち主に聞いとくれ。こっちは数を合わせてるんだ」
男の指は、もう次の行へ移っていた。
俺は頭を下げて、脇へ戻った。
*
木箱の側面に、荷札がついていた。
文字がある。
今度は、それが読めなかった。
この国の字ではない。大書庫で写したエルフ文字とも違う。
丸い形が多くて、文字と文字の間が空いている。上や横に、小さな点がいくつも打ってあった。
俺は鞄の紐を握った。
読めない一行なら、もう持っている。
それを読むために北へ行く途中で、別の読めない文字が、海から来た。
荷札は、朝の風で少しだけ浮き上がった。
その裏にも、同じ字が続いていた。
*
「そこ、空けて」
声がして、俺は慌てて下がった。
木箱を担いだ男が通るところだった。
背が高く、日に焼けた腕に、青い模様が入っている。刺青らしい。袖口から手首まで、曲がった線が何本も続いていた。
「すみません」
男は箱を作業台へ置き、船の方へ声を上げた。
聞き取れない言葉だった。
向こうから返事が来る。男が片手を振ると、次の荷が動き出した。
それから、俺たちを見た。
「見物?」
「はい。南から来ました」
「南。どこ」
「アシェンという町です」
男は、少し考えてから首を振った。
「知らない」
「小さい町なので」
俺が言うと、男は笑った。
それから、自分の胸を指して、何か短く言った。
今度は、地名らしかった。
俺は聞こえた通りに繰り返そうとしたが、途中で舌がつかえた。
男が、もう一度、ゆっくり言った。
二度目も、うまく言えなかった。
「……すみません。俺も、知らない町です」
男は頷いた。
それで、お互いの町を知らないことが分かった。
*
「あの、この字は、なんて書いてあるんですか?」
荷札を指すと、男は身をかがめた。
「名前」
「荷物の名前ですか?」
「違う。持ち主。船の、主人」
男は札の一部を指でなぞって、その名前を口にした。
さっきの地名よりも長かった。
俺は、音を追うので精一杯だった。
「あなたの国の字なんですね」
「そう」
今度の返事は、早かった。
男は札の端を押さえ、浮いていたところを箱に戻した。
読めない模様にしか見えなかったものを、この人は一目で読んだ。
当たり前の手つきだった。
*
「中の束は、何というものですか?」
俺が聞くと、男は木の皮を一つ指した。
短い名前を言った。
俺は、それを繰り返した。
男は首を傾げて、もう一度言った。最初の音が違うらしい。
三度目で、ようやく頷いてもらえた。
「この国では、何と呼ぶんですか?」
男は、少し考えた。
「こっちの言葉、知らない」
俺は束を見た。
名前は聞いた。
それでも、何に使うものなのかは、まだ分からない。
もう一つ聞こうとしたところで、船から声が飛んできた。
男が振り返って答えた。俺たちと話すときより、ずっと速かった。
担ぎ紐を肩へ戻す。
「あの、最後に一つだけ。ここまで、何日かかるんですか?」
男は船を指した。
「四十日」
「四十日……」
「風、悪いと、六十日」
俺は、その三本の柱を見上げた。
*
昨日、アリア姉に手紙を出した。
早くて三週間あまり先に届くと言われた。
この人は、それより長い間、海の上を進んできたのだ。
「ずっと、船で?」
「そう。寝る、食う、仕事。全部」
男は船の方へ顎を向けた。
手すりの脇で、別の船乗りが椀を持っていた。腰を下ろし、何かを食べている。
こんな大きな船だ、と思っていた。
でも、四十日暮らす家だと思うと、見え方が少し変わった。
「向こうには、町がたくさんあるんですか?」
「ある。港も、たくさん」
「森も?」
男は、少し笑った。
「大きい森、ある。人、入らない。危ない」
もう一度、船から声がした。
男は片手を上げた。
「仕事」
「ありがとうございました」
俺たちは道を空けた。
男は空いた木箱を持ち上げ、船へ戻っていった。
*
ルーチェは、まだ船を見ていた。
荷を下ろし終えた箱の前に、別の荷が積まれ始めている。
「また、いくのかな」
「帰るんだろうな。荷を積んだら」
「よんじゅうにち?」
「風がよければ」
ルーチェは、手すりの上の人影を見た。
「ごはん、いっぱい、いるね」
「ああ」
水も、薪も、着替えも要る。
俺たちの旅なら、困ったときに次の町で買える。海の真ん中には、その次の町がない。
船の奥へ、樽が一つ運び込まれた。
中身が何なのか、俺には分からなかった。
*
魚市場へ回って、家へ持って帰る分の魚を買った。
昨日、ルーチェと数えた人数に合わせて、いつもより多く包んでもらった。
「今日は、ずいぶん買うな」
魚屋が言った。
「家族の分です」
「近くにいるのか?」
「いえ。持って帰るまで、こちらで傷まないようにしておきます」
男は俺を見たが、詳しくは聞かなかった。
「無駄にするなよ」
「はい」
宿へ戻り、魚を保存する支度を済ませた。
人の目がないところで、ボックスへ収める。
最後の包みが消えるまで、ルーチェは横で見ていた。
「これで、たりる?」
「ああ」
彼女は頷いた。
それから、窓の方へ目を向けた。
*
部屋へ戻ってからも、ルーチェは静かだった。
窓は少しだけ開いている。
屋根の向こうに、大きな船の柱が見えた。高いところで、船乗りが縄を引いていた。
俺は卓へ紙を広げた。
さっき聞いた束の名前を、覚えているうちに書く。音が合っている自信はなかったので、その横へ、見えた形も描き添えた。
赤茶色。丸まった木の皮のような形。甘くて、鼻の奥がすっとする匂い。
そこまで書いたところで、ルーチェが言った。
「レイ」
「ん」
「うみのむこうにも、りゅう、いる?」
ペンを置いた。
ルーチェは、窓の向こうを見ていた。
「分からない。さっきの人には、聞かなかった」
「うん」
「大きな森があるとは言ってたな」
ルーチェは頷いた。
それから、少し間を置いて言った。
「わたしの、おやも、いるのかな?」
*
俺は、すぐには答えられなかった。
海の向こうかもしれない。
北の谷かもしれない。
そもそも、今どこかで生きているのかさえ、知らない。
ルーチェは窓から離れて、寝台の端へ座った。
「どんなかんじなんだろ」
「……そうだな」
「わたしと、おんなじ、きんいろかな」
俺は、隣に座った。
「会ってみたいか?」
ルーチェは、少し考えた。
「まだ、わかんない」
それから、両手を膝の上に置いた。
「でも、しりたい」
俺は頷いた。
あの卵を拾った日のことなら、話せる。
孵った日のことも、初めて名前を呼んだ日のことも、覚えている。
その前のルーチェを、俺は何も知らなかった。
*
鞄から、北の谷の絵を出した。
広げると、紙に折り癖がついていた。
「まずは、ここへ行こうと思ってる」
「うん」
「本には、竜の谷と書いてあった。ただ、ルーチェの生まれた場所かどうかは、分からない」
ルーチェは、谷の底に描いた霧を指でなぞった。
「ちがったら?」
「そのときは、そこで聞いたことから、次を考えよう」
「うみのむこうだったら?」
俺は、窓から見える船を見た。
四十日。
悪ければ、六十日。
飛べば、と一瞬思った。
この子は、大きくもなれる。でも大きくなるほど魔力を食うし、飛んだ日は二人とも消耗する。海の上に降りて休む場所があるのかも、俺は知らない。船で四十日かかる距離を、翼だけで越えられるとは思えなかった。
途中に島があるなら、話は別かもしれない。それも、船に乗る人に聞かなければ分からない。
「そこへ行く方法を調べる」
ルーチェが、こちらを向いた。
「すぐに乗れるとは限らないし、何を用意すればいいのかも知らない。まずは、その辺からだな」
「レイも、いっしょ?」
「ああ」
ルーチェは紙へ目を戻した。
さっきより少しだけ、肩が下がった。
*
「ごはん、いっぱい、いるよ」
「さっきも言ったな」
「よんじゅうにちだもん」
「風が悪いと、六十日だ」
ルーチェは、真剣な顔になった。
「じゃあ、ろくじゅうにちのぶん」
「そうしよう」
「レイのボックスなら、はいる?」
「入ると思う。でも、今から詰めるなよ。先に北だ」
「わかってる」
ルーチェは、少しだけ笑った。
俺は谷の絵を畳んだ。
彼女の指は、紙から離れるまで、霧のあるところに載っていた。
*
午後、窓の向こうで白い帆が広がった。
風を受けて膨らみ、それから少し緩む。
ルーチェが卓のそばへ来た。
「レイ、あのふね、いっちゃう?」
「まだ、分からない。帆を確かめてるのかもしれない」
二人で窓から見た。
桟橋では、まだ荷が運ばれていた。
あの船に乗れば、向こう岸へ着く。
見えない場所に町があって、読めない荷札を当たり前に読む人がいる。俺には名前も言いにくいものを、毎日扱っている人もいる。
俺は卓へ戻って、書きかけの紙の端へ付け足した。
——船で四十日。風が悪ければ六十日。
昨日は、二つの箱の間に線を引いた。
今日は、その紙の隣に、海の向こうまでかかる日数を書いた。
窓辺で、ルーチェがまだ帆を見ていた。
俺はペンを置いて、その隣へ戻った。




