送れない魚と、二か月かかる手紙
二度目の朝は、港へ下りる道を迷わなかった。
曲がる角も、樽をよける場所も、昨日と同じだった。ルーチェは俺の手を握ったまま、ときどき先へ出た。
「走るなよ」
「あるいてる」
「速いんだよ」
坂の下で、箱を置く音がした。
ルーチェの足が、もう少し速くなった。
*
昨日の魚屋は、俺たちを見るなり眉を上げた。
「また来たのか?」
「おはようございます」
「腹は壊さなかったか?」
「はい。二人とも」
「そうかい」
男は箱へ目を戻した。
「だからって、今日も平気だと思うなよ」
「はい」
昨日食べた魚と、今日ここにある魚は違う。
俺は箱の前にしゃがみ、銀ハダを見た。男に断って手に取り、昨日と同じところを確かめる。鑑定も、一匹ずつ通した。
五匹選ぶあいだ、男は黙って見ていた。
「見方だけは、妙に細かいな」
「薬屋で、荷を検めていたので」
「魚も分かるのか?」
「まだ、教わってるところです」
男は、ふん、と鼻から息を出した。
「なら、火を通せって教えも覚えときな」
返す言葉がなかった。
*
宿の裏で、二匹を捌いた。
今日は、骨の位置を確かめてから刃を進めた。
昨日より、身を残さずに取れた。それでも、端の方は厚くなったり薄くなったりした。
ルーチェが皿を持って待っていた。
「レイ、まだ?」
「もう少し」
「きのうより、きれい」
「だろ?」
「はやくなった?」
「喋らせなければ、少しは」
ルーチェは口を閉じた。
皿だけが、少し近づいてきた。
*
塩をつけて、二人で食べた。
昨日と同じように甘くて、昨日より少しだけ、身の厚さが揃っていた。
醤油のことも、やっぱり思い出した。
けれど今日は、塩をつけすぎないうちに手が止まった。これには、これくらいでいいらしい。
半分ほど食べたところで、ルーチェが聞いた。
「ねえこれ、アリアねえも、すきだとおもう?」
俺は、皿から顔を上げた。
「どうだろうな。食べたことがないと思うから」
「おかみさんみたいに、いやっていう?」
「最初は、びっくりするかもしれない」
女将さんの顔を思い出した。
アリア姉なら、まず俺の額に手を当てる気がする。それから、本当にそのまま食べるつもりなのか、もう一度聞くだろう。
「焼いたやつなら、食べると思う」
「うん。やいたのも、おいしい」
ルーチェは頷いて、皿を見た。
「ニナにも、あげたい。テオにも」
「ああ」
「……みんなに、たべさせたい」
まだ手をつけていない切り身を、彼女の指が少しだけ端へ寄せた。
取っておく場所を作るみたいな動きだった。
*
残り三匹のうち、二匹は火を通した。
最後の一匹は、持ち帰る分にすることにした。
締めて、血と内臓を抜いてから包み、ほかの荷と分ける。
ルーチェは、俺が片づけるところを見ていた。
「それ、おうちにおくるの?」
「……部屋で話そう」
水場を借りた礼を言って、階段を上がった。
戸を閉めてから、鞄を開く。
その内側に、もう一つの口を開いた。
魚の包みを入れると、手の中の重みが消えた。
*
「アイテムボックスの中なら、傷まない」
俺が言うと、ルーチェは頷いた。
「しってる。おにくも、そう」
「ああ。だから、家へ持って帰ることはできる」
「おくるのは?」
俺は、鞄の口を閉じた。
「隊商に渡したら、普通の魚に戻る。ボックスの中から出した時点で、時間が動くから」
「とまったまま、わたせない?」
「今の俺には、できない」
ルーチェは、鞄へ目を落とした。
俺も、そこを見ていた。
獲れたときのまま運ぶ方法なら、ある。
ただし、その荷を運ぶのは俺でなければいけなかった。
*
寝台へ座って、来た道を数えた。
この町から王都まで、四日。
そこから南へ下って、ミューレを通り、アシェンへ向かう。歩けば、片道で二十日前後になる。
戻ってくる日数も、同じだけかかる。
窓が、かたかた鳴った。
もう秋の終わりだった。
いま南へ引き返せば、北へ向かうころには冬になる。
「とんだら、はやいよ」
ルーチェが、隣へ座った。
「ああ。速い」
「わたしなら、はこべる」
「運べるな」
飛べば、何日も縮まる。
それを知らずに、歩いているわけではなかった。
「でも、ルーチェが昼も飛んで急げば、また人の目につくかもしれない」
ルーチェは、窓の方を見た。
「ひとがいないとこだけ、とぶ?」
「それなら、決めごとの通りだ。ただ、人里は歩くし、明るい間は待つ。真っすぐ飛んで帰るほど、短くはならない」
「……そっか」
俺は、膝の上で手を組んだ。
「家に帰りたいか?」
ルーチェは、すぐには答えなかった。
足を一度揺らして、それから言った。
「アリアねえに、あいたい」
「うん」
「でも、きたにも、いきたい」
俺は頷いた。
「俺もだ」
*
しばらく、二人で座っていた。
外で荷車が通った。窓の留め具が、また小さく鳴った。
「……じゃあ、さかなは?」
ルーチェが聞いた。
「取っておこう。俺たちが帰るときまで」
「ずっと?」
「ああ。ボックスに入れておけば、そのときに出せる」
ルーチェは、鞄を見た。
そこから魚が出てくるところを、考えているようだった。
「かえったら、たべる?」
「みんなでな」
「いっぴきじゃ、たりないよ」
俺は、少し笑った。
「足りないな」
「いっぱい、いる」
「町を出る前に買い足そう。焼く分も、生で食べてみたい人の分も」
ルーチェが頷いた。
「アリアねえは、やくほうが、すきかもしれない」
「そうだな」
「どっちも、もってかえろう」
それで、家へ持って帰るものが一つ決まった。
帰る日は、まだ決まっていなかった。
*
昼を過ぎてから、手紙を書いた。
月に一度は出すと約束している。
でも、次の時期まで待つには、書きたいことが多すぎた。
まず、王都を出たこと。
色々な人に見送ってもらったこと。ルーチェと相談して、雪の前に北へ向かうと決めたこと。
それから、海沿いの町へ着いたと書いた。
——ザルツハーフェンという町です。
——海を見ましたが、向こう岸が見えませんでした。ルーチェも坂の上で背伸びをしていました。それでも見えませんでした。世界は広いですね。
隣から覗いていたルーチェが、紙を指した。
「それ、おくるの?」
「本当のことだろ?」
「そうだね。でもレイも、ずっとみてた」
俺は、一行足した。
——俺も、しばらく動けませんでした。
ルーチェに、それを読んで聞かせると、納得したみたいだった。
*
塩を作る町のことを書いた。
白い山になって積まれていたこと。同じ塩でも、食べる分と、皮を扱う仕事に使う分が分けてあったこと。
そして、魚の話を書き始めたところで、手が止まった。
うまかった。
それだけなら、一行で済む。
でも、アリア姉が読んで「うまそうだね」と思うように書きたかった。
冷たくて、噛むと少し弾んで、あとから甘みが出る。
そこまで書いて、読み返した。
菓子の説明みたいだった。
「なんてかいた?」
ルーチェに読んで聞かせた。
「うん。あまかった」
「そうなんだけどな」
「ちがう?」
「違わない。ただ、これで伝わるかと思って」
ルーチェは、紙を見た。
「たべたら、わかるよ」
それができれば、困らなかった。
俺はペンを持ち直した。
*
——魚を食べました。銀ハダという、小さい銀色の魚です。
——こちらでは煮たり焼いたりして食べるそうですが、確かめてから、生でも食べてみました。その事で宿の女将さんには驚かれました。
ここで、少し考えた。
アリア姉は、たぶん女将さんの方へ頷く。
——今のところ、二人とも元気です。
足してみたが、余計に心配される気もした。
消さずに、続きを書いた。
——焼いたのもうまかったです。骨に身を残しすぎて、ルーチェに指摘されました。今日は昨日より少し、うまくできました。
——みんなに食べてもらう分を、俺のボックスに取っておきます。帰ったら、みんなに作ります。
最後の一行を、もう一度読んだ。
作る、と書いた。
昨日の不揃いな切り身が頭に浮かんだ。
帰るまでに、もう少し練習しておかないといけない。
*
「わたしのぶんも、かいて」
ルーチェが言った。
「なんて」
「おさらは、わたしがあらう」
俺は、そのまま書き足した。
——皿は自分が洗う、とルーチェが言っています。
「これでいいか?」
「うん」
読み返すと、魚の味より、二人で何をしていたかの方が長くなっていた。
でも、アリア姉なら、そのあたりを読むだろうと思った。
書いた紙を揃えて、折った。
*
手紙は、港の隊商宿へ持っていった。
荷を運ぶ人の横で、宛先を確かめる男が座っていた。
「アシェンまで、お願いします」
男は封筒を裏返し、表の町の名をもう一度読んだ。
「王都で積み替えだね。順調なら三週間あまり。橋や道の具合によっちゃ、もっとかかる」
「はい」
銅貨を払って、手紙を渡した。
俺の書いたものが、ほかの手紙と束ねられた。
ついさっきまで手の中にあった紙が、もう荷物の一部になっている。
王都では、返事を読むまで二か月ほどかかった。
今度も、向こうが受け取って、返事を書いて、それがこちらへ戻るまでには、それくらいかかるのだろう。
ただ、そのころ俺たちは、この町にはいない。
次に落ち着ける場所が決まったら、また宛先を知らせなければならなかった。
*
隊商宿を出たところで、ルーチェが振り返った。
「もう、いくの?」
「手紙か。荷馬車が出たらな」
「アリアねえ、いつよむ?」
「早くて、三週間くらい先」
ルーチェは、しばらく指を折っていた。
片手では足りなくなって、もう片方の手も開いた。
「いっぱい、ねるね」
「ああ」
「そのあいだもさかなも、とまってるね」
俺は、鞄の紐に手をかけた。
そうだった。
手紙は少しずつ南へ進む。
魚は、俺のボックスの中で、今朝のまま止まっている。
先に着くのは、うまかったと書いた紙だけだった。
*
宿へ戻る坂の途中で、ルーチェが言った。
「レイ。はこは?」
「箱?」
「まえにいってた、ふたつのはこ。なかが、つながってるやつ」
俺は、足を緩めた。
王都で隊商が遅れたときに考えたことだ。
こっちの箱へ入れたものを、アシェンの箱から取り出せたら。
橋が落ちても、道が雪に埋まっても、手紙が届く。
そんな話をした。
「まだ、思いついただけだ」
「それなら、さかなも、おくれる?」
「……できればな」
答えてから、俺は鞄を見た。
最初に考えたとき、送りたかったのは手紙だった。
今朝は、魚だ。
エミが熱を出した夜には、逆に、アシェンから薬が欲しかった。
入れたいものが、そのたびに違っていた。
*
部屋へ戻って、俺は紙を一枚出した。
箱を二つ描いた。
片方の下に、レイ。
もう片方の下に、アリア姉。
ルーチェが、横から覗き込んだ。
「こっちに、おさかな、いれる」
俺の箱を指した。
「ああ」
「こっちで、アリアねえが、とる」
「そうだな」
俺は、二つの箱の間に線を引いた。
紙の上なら、それだけで繋がった。
「……問題は、そこなんだ」
「どこ?」
「俺が向こうにいないのに、どうやって開けてもらうか」
ルーチェは、二つの箱を見比べた。
ルームを開けるときは、いつも俺がいる。
アイテムボックスから物を出すのも、俺の手だ。
アリア姉が手を入れられる口を、どうやってアシェンへ置いてくるのか。
今の俺には、分からなかった。
*
線の下に、短く書いた。
——俺がいない場所で、誰が開ける。
書いてから、その一行を見た。
魚を入れれば届く箱。
そう呼んでいる間は、便利なものが欲しいというだけだった。
今は、分からないところが、一つだけ言葉になった。
「できそう?」
ルーチェが聞いた。
「まだ、全然」
「そっか」
それから、紙の端を指した。
「おさかなも、かいて」
「なんで」
「なにをいれるか、わかるように」
俺は、箱の脇に魚を描いた。
細い胴と、三角の尾。
ルーチェは首を傾げたが、何も言わなかった。
「魚だぞ」
「うん」
返事までに、少し間があった。
*
紙を畳んで、鞄の内側へしまった。
北の谷の絵と、読めない一行の写し。その隣に入れる。
どれも、すぐには答えが出ないものだった。
それでも、魚を届ける話を、また頭の中だけに戻したくはなかった。
「レイ」
「ん」
「おうちのぶん、あした、かう?」
「町を出るまでに買おう。人数を数えてからな」
「いっぱい、いるよ」
「知ってる」
七年、数えた人数だ。
俺は別の紙を出して、家族の名前を書き始めた。
隣でルーチェが、一人書くたびに指を折った。




