舟から上がった魚と、誰もしない食べ方
ルームを開けると、ルーチェはもう起きていた。
人の姿で寝床の端に座って、両足を揺らしている。
「おはよう」
「レイおはよう。いちばいく? さかなみる?」
「顔を洗ってからな」
ルーチェはすぐに立ち上がった。
昨夜、起こさなければ先に行くと言ったのを、少しだけ反省した。
*
宿を出たとき、空にはまだ星が残っていた。
港へ下る道を、籠を持った人たちが歩いている。俺たちも、その後ろについた。
昨日見た海は暗くて、どこからが水なのか、まだよく分からなかった。
波の音だけは、同じだった。
「レイ。うみ、あるね」
「ああ」
ルーチェは、俺の手を握り直した。
坂を下りきるころ、前の方から声が聞こえ始めた。
*
舟着き場に、灯りが並んでいた。
舟から箱が下ろされる。受け取った男が肩へ担ぎ、濡れた板の上を歩いてくる。
俺たちは端へ寄った。
足元に置かれた箱の中で、何かが跳ねた。
銀色の腹が見えて、すぐに裏返った。尾が板を叩く。
ルーチェが、俺の手を強く握った。
「すごい! あれ、うごいてる」
「ああ」
手のひらほどの魚が、箱いっぱいに重なっていた。
背中は青黒く、腹は白い。跳ねるたびに鱗が灯りを返して、光る場所が変わった。
ルーチェがしゃがんだ。
指を伸ばしかけて、止めた。
「……なんか、キラキラしてる」
魚の口が、開いて閉じた。
「でも、くるしそう」
「水から上がったからな」
「もどさないの?」
俺は、箱の中を見た。
「売るために獲ってきた魚だから」
ルーチェは、しばらく黙っていた。
「たべるんだね?」
「ああ」
もう一度、尾が板を打った。
俺は、最初に角ウサギを獲った日のことを思い出した。あのときも、目の前のものが飯になるまでには、まだ、やらなければいけないことがあった。
*
市場は、見ている間にも忙しくなった。
戻ってくる舟が増え、空だった場所に箱が並ぶ。買い手が覗き込み、値を聞き、籠へ移していく。
売り場の奥では、魚の腹を開いている人がいた。
その隣には、塩の袋と大きな樽。
さらに向こうには、魚を干す棚があった。
「これも、王都へ行くんですか?」
樽を指して聞くと、魚を並べていた男が顔を上げた。
「行くよ。もっと遠くにもな」
「そのままの魚は?」
「近場だけだな。それにあまり遠いと魚が腐っちまう。そうなると捨てるだけだ」
男は、手を止めずに答えた。
俺は、昨日買った塩の袋を思い出した。
鍋へ入れるだけではなかった。あの白い山の一部は、こうやって魚と一緒に町を出ていく。
「買うなら、こっちだ。今朝のやつ」
男が顎で示した先に、銀色の魚が並んでいた。
*
「なんて魚ですか?」
「銀ハダ。この辺じゃ、よく揚がる」
知らない名前だった。
形には、見覚えがある気がした。でも、前世のどの魚と同じなのかまでは分からない。
「見てもいいですか?」
「ああ。落とすなよ」
受け取ると、思っていたより滑った。
慌てて持ち直す。指先に、ひんやりした硬い鱗が触れた。
目は澄んでいた。えらの中も赤い。
鮮度を見るために、どこを確かめるのか。そのくらいの知識は、記憶に残っていた。
けれど、これは俺の知らない魚だ。
見た目が似ているからといって、同じ食べ方ができるとは限らない。
鑑定を通した。
【銀ハダ/可食。生食可。ただし、水揚げ後一刻以内に内臓を除くこと】
俺は、手の中の魚を見た。
一刻以内なら、今だ。
生で、食べられる。
その文字を読んだ途端、頭の中に皿が浮かんだ。
薄く切った身を並べた、白い皿だった。
*
「どうした、坊主」
「……これ、いくらですか?」
「五匹で銅貨十枚」
串焼き二本より安かった。
さっきまで舟が次々に運んできた魚だ。値段を聞いて、ここが獲れる場所なのだと、ようやく実感した。
「五匹ください」
「宿で焼いてもらえるのか?」
「自分でやります。あと、少しだけ、生で食べてみようと思って」
男の手が止まった。
「生で?」
「はい」
「やめとけ。腹を壊すぞ」
声が、さっきより強くなった。
俺は、魚から顔を上げた。
「……心配してくれて、ありがとうございます」
「礼を言うなら、火を通しな」
男は包みを作りながら、俺を見た。
俺には鑑定の文字が見えている。
この人に見えているのは、知らない町へ来て、変なものを食おうとしている子供だ。
何と言えば伝わるのか考えたが、うまい言い方はなかった。
代金を渡して、包みを受け取った。
男は最後まで、渋い顔をしていた。
*
宿へ戻ると、女将さんが裏口を掃いていた。
「早かったね。買えたかい?」
「はい。魚を捌く場所を借りられますか?」
「裏の水場を使いな。板もある。終わったら、きれいにしとくれよ」
「分かりました」
水を汲み、板と道具を整えた。
小刀を出すと、ルーチェが少し離れたところへ座った。
刃物を使っている間は、手元へ近づかない。孤児院でも、店でも、繰り返し言われてきたことだ。
俺は魚を一匹、板の上に置いた。
ベックさんに仕込まれた手は、刃物の扱いなら覚えている。
ただし、魚の骨がどこを通っているかは、俺の手にはまだ入っていなかった。
鱗を落として腹を開き、真っ先に内臓を抜く。ここまでは、鑑定の文字どおりにやった。
*
一匹目は、骨の方にずいぶん身が残った。
皿へ移した分を見てから、板の上を見直す。
「……もったいない」
「いっぱい、ついてる」
ルーチェが、正直に言った。
「分かってる」
小刀を置いて、切り口を確かめた。
思っていたところより、骨が少し下にあった。知っているつもりで刃を動かした分だけ、身を置いてきてしまった。
二匹目は、急がずにやった。
やっぱり少し残った。
それでも、一匹目よりはましだった。
「こっちは?」
ルーチェが、骨の残った方を指した。
「火を通して食べる。まだ取れるところがあるからな」
「よかった」
俺も、頷いた。
五匹買ったのに、二匹でずいぶん時間を使っていた。
*
薄く切った身を、皿に並べた。
厚さは揃わなかった。
店で出てくるような見た目には、ほど遠い。それでも、透けるような白い身が重なると、俺の中の記憶に少し近づいた。
「それ、できた?」
「できた」
「ひ、つけない?」
「ああ。この分は、そのまま食べる」
ルーチェが、皿と俺を交互に見た。
「あのひと、おなかこわすって、いった」
俺は周りに人がいないのを確かめ、声を落とした。
「鑑定では、この魚の身は生で食べられるって出た」
「たしかめた?」
「確かめた。こっちも、もう一匹も」
ルーチェは皿を覗き込んだ。
手は、まだ出さなかった。
「レイ、たべたことあるの?」
「この魚は、ない」
「じゃあ、はじめて?」
「ああ」
俺は、一切れ取った。
念のため、その一切れにも鑑定を通す。
【銀ハダ(切り身)/可食。生食可】
条件の文は、消えていた。一刻のうちに、内臓を抜いたからだ。
見覚えのある食べ物を前にして、急に、少し緊張した。
*
塩をほんの少しつけて、口へ入れた。
冷たかった。
噛むと、思っていたより弾力があった。もう一度噛んだところで身がほどけ、塩のあとから、かすかな甘みが広がった。
俺は、しばらく黙っていた。
「レイ」
ルーチェが覗き込んだ。
「どう?」
「……うまい」
「ほんと?」
「ああ。うまい」
二度言ってから、俺は皿を見た。
知っている味そのものではなかった。
それなのに、懐かしかった。
何年ぶりだろう、と考えて、この体になってから一度も食べていないことを思い出した。
食べた場所も、同じ卓にいた人も、うまく思い出せない。
ただ、こういうものを食べていた。
そういう暮らしが、自分にあった。
「わたしも」
ルーチェの声で、顔を上げた。
*
小さめの一切れを、ルーチェの皿へ移した。
彼女は指でつまんで、少し眺めた。
「やわらかい」
「食べてみろ」
口に入れて、噛んだ。
一度。二度。
それから、俺を見た。
「あまい」
「甘いな」
「おさとう、つけてないよね?」
「塩だけだ」
ルーチェは、もう一度自分の皿を見た。
「もうひとつ」
俺は、皿を真ん中へ寄せた。
今度は、自分で取った。
次の一切れも、黙って噛んだ。それから、少しだけ肩を揺らした。
気に入ったときにする動きだった。
*
俺も、もう一切れ食べた。
うまい。
今度は、そのあとに別のものが欲しくなった。
塩の袋へ手を伸ばしかけて、止めた。
塩気が足りないのではない。
あれだ。
黒くて、しょっぱくて、少し独特の香りがするもの。
……醤油。そうだ醤油。
名前が出てきた途端、皿の脇に小さな器まで浮かんだ。そこへ端だけつけて食べる。つけすぎると、魚の味が分からなくなる。
そんなことまで覚えているのに、手元には、ない。
「レイ、たべないの?」
ルーチェが、俺の残した一切れを見ていた。
「食べる。今、食べる」
取られる前に、口へ入れた。
塩だけでも、ちゃんとうまかった。
それが分かっていても、欲しいものは消えなかった。
*
残りの魚には火を通した。
骨のまわりに残した身も、二人で取って食べた。焼けた皮は香ばしく、生で食べた身とは歯ごたえが違った。
ルーチェは、指についた脂を見て言った。
「こっちも、おいしい」
「どっちが好きだ」
真剣に考え始めた。
俺は待った。
「……もういっかい、たべないと、わからない」
「そうか」
「うん」
都合のいい答えにも聞こえたが、本気らしかった。
骨は、捨てなかった。
鍋に水を張り、豆をひと握りと、塩をひとつまみ入れて、骨ごと煮る。身はもうほとんど残っていない。それでも、豆がやわらかくなるころには汁が白く濁って、魚の匂いが立った。
椀に分けると、ルーチェは両手で持って、先に匂いを嗅いだ。
「これも、さかな?」
「骨だけな。捨てるところがない」
一口すすって、ルーチェは椀を置かなかった。豆をすくって、もう一口。
「まめ、さかなのあじ、する」
「骨から出た味だ」
焼いて終わりにするには、もったいない魚だった。
*
水場を片づけていると、女将さんが桶を持ってきた。
皿に残っていた切り身へ目を落とし、それから俺を見た。
「あんた、それ、生のまま食べたのかい?」
「はい」
女将さんは、眉を寄せた。
「気持ちの悪い食べ方をするねえ」
俺は、皿を持ったまま止まった。
さっきまで、二人ともあんなにうまいと思っていた。
でも、女将さんにはそう見える。
「……すみません。驚かせて」
「驚くよ。妹にまで食べさせたのかい?」
ルーチェが、俺の横へ来た。
「わたしも、たべたかったの」
女将さんはルーチェを見て、ため息をついた。
「二人して。腹が痛くなったら、黙ってないで言うんだよ」
「はい」
「あと、残りを部屋に置きっぱなしにしないこと。魚の臭いは取れないんだから」
「分かりました」
女将さんは桶を置き、片づけた水場を一度見回した。
「板は、そこへ立てて干しといて」
それだけ言って、宿の中へ戻っていった。
*
板を立てかけていると、ルーチェが聞いた。
「おかみさん、たべないのかな?」
「食べないと思う」
「おいしいのに」
「あの人には、そうは見えないんだろうな」
ルーチェは、空になった皿を見た。
それから、俺へ渡した。
「わたしは、おいしかった」
「俺もだ」
皿を受け取ると、ルーチェは満足したように頷いた。
*
部屋へ戻って、窓を少し開けた。
港の方から、人の声が聞こえた。
朝には暗かった海が、屋根の向こうで光っている。
俺は卓の前に座り、塩の袋を置いた。
醤油は、アシェンでも、王都でも見かけなかった。この町にもあるかどうか、まだ分からない。
豆から作るものだったはずだ。
では、豆をどうすれば、あの液体になるのか。
そこを考えると、途端に何も出てこなくなった。
買って使っていたものの作り方を、俺は知らない。
味は、こんなにはっきり覚えているのに。
塩の袋を片づけていると、ルーチェが隣へ座った。
「レイ、なにか、さがしてた?」
「食べてるときか?」
「うん」
よく見ている。
「魚につけるものを、思い出してた」
「おしお?」
「別のやつ。黒くて、しょっぱくて……魚に合うんだ」
「レイ、すきなの?」
「好きだった」
言ってから、少し考えた。
「今も、好きだと思う」
ルーチェは、俺の顔を見た。
「まえのところの?」
「ああ」
*
「つくれないの?」
「作り方を知らない」
「そっか」
ルーチェは、それ以上、俺に作れとは言わなかった。
窓の外を鳥が横切った。昨日見たのと同じ、白い鳥だった。
「それ、あったら、わたしも、つけたい」
俺は、隣を見た。
「うまいかどうか、まだ分からないぞ」
「レイ、すきなんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、たべてみたい」
どんな味なのか、説明しようと思った。
でも、しょっぱい、の先がうまく続かなかった。香りの話をするにも、比べられるものが思いつかない。
「……見つけたらな」
「うん」
ルーチェは、それで待つことにしたらしかった。
*
「さかなは、あしたも、ある?」
「市場へ行けばな」
「じゃあ、あしたもいこう」
俺は頷いた。
明日は、もう少しうまく捌きたい。骨の方に残す身を減らして、厚さも、少しは揃える。
魚を切る手つきを思い返していると、ルーチェが念を押した。
「おこしてね」
「分かってる」
今日は、起こす前から待っていたくせに。
そう言おうとして、やめた。
俺も、明日の朝を楽しみにしていた。




