潮の匂いと、坂の下の町
王都を出て四日目の朝、ルーチェが道の途中で立ち止まった。
フードの下で、鼻を上に向けている。
「どうした」
「におい、ちがう」
俺も、息を吸ってみた。
湿ったような、少し生臭いような匂いがした。森の落ち葉とも、川辺の泥とも違う。
「海かもしれないな」
ルーチェが、道の先を見た。
二日前に会った御者は、最後の坂を越えれば町が見えると言っていた。
街道は、朝からゆるく登っている。両側の木は背が低くなり、枝の間から見える空が広くなっていた。
「このさか?」
「たぶん」
「さっきも、たぶんっていった」
「俺も初めてなんだよ」
ルーチェは少し考えて、それなら仕方ないという顔をした。
それから、俺の手を取った。
「はやく、みにいこう」
*
坂の上は、風が強かった。
木立を抜けたところで、ルーチェのフードが膨らんだ。手で押さえてやろうとして、俺は止まった。
海があった。
坂の下に町があって、その先が、全部、水だった。
右へ目を向けても、左へ向けても、向こう岸がない。遠くで空と水が一本の線になっている。
思っていたより、広かった。
広いという言葉を用意して来たのに、それでは足りなかった。
手前の水は灰色がかって、その向こうは緑に見えた。さらに遠くは暗い青で、ところどころに白い筋が走っては消える。
海は青いものだと、俺は知っていた。
目の前の水は、一色ではなかった。
「レイ」
ルーチェの声が、小さくなった。
「みずが、いっぱい」
「ああ」
「むこう、どこ?」
指が、水平線を指した。
「ここからじゃ、見えないな」
ルーチェは背伸びをした。
それでも見えなかったらしく、踵を下ろした。
*
しばらく、二人で立っていた。
風に上着を引っ張られる。坂の下から、低い音が繰り返し届いてきた。
波だった。
白く崩れて、また引いていく。その間にも、次の波が来る。
「ずっと、うごいてる」
「そうだな」
「つかれないのかな?」
俺は、少し笑った。
「誰かが動かしてるわけじゃないからな」
「じゃあ、なんで?」
「風とか……いろいろだ」
ルーチェが俺を見た。
俺も見返した。
「詳しくは知らない」
「そっか」
それで納得して、また海へ顔を向けた。
前世の記憶にも、海はある。
でも、上着の隙間へ入り込む風も、隣で手を握っている子の声も、そこにはなかった。
俺は、その場で大きく息を吸った。
さっき道で嗅いだ匂いがした。
*
「レイ。あれ、ぜんぶ、しょっぱいの?」
「海の水だからな」
「……ぜんぶ」
ルーチェは、もう一度、右から左まで見た。
「もったいない」
それから、少し考えて言った。
「でも、おしお、いっぱいできるね」
坂の下へ目を戻すと、町の端に白いものが並んでいた。
低い屋根の向こう。海沿いに浅い池のようなものがいくつもあって、その脇に白い山が積まれている。山の間を、人が歩いていた。
「あそこで、作ってるのかもしれない」
「いってみる?」
「そのつもりで来たんだろ?」
ルーチェが頷いた。
歩き出しても、顔は海の方へ向いたままだった。
「足元、見ろよ」
「みてる」
すぐに小石を踏んで、少しよろけた。
握っていた手に、力が入った。
「……いまは、みてなかった」
「ああ」
*
坂を下りるにつれて、海だけだった景色に、町が混じり始めた。
鳥の声がした。
白い鳥が、屋根より低いところを横切った。口に何かくわえていて、その後ろを別の一羽が追っていた。
次に、荷を運ぶ人の声。
「そこ、空けてくれ!」
俺たちは道の端へ寄った。
二人がかりで樽を転がしていた。樽は石の継ぎ目で一度跳ねて、それでも止まらず、坂の下へ運ばれていった。
王都では、人に押されて道を譲った。
ここでは、先に荷が来る。
ザルツハーフェンは、海に沿って細長く延びる町だった。低い屋根の家が寄り合って、細い道が何本も港へ下っている。家の間から、青灰色の水が見え隠れした。
軒下には縄が巻いてあり、壁には長い棒や網が立てかけてあった。
薬草の束は、どこにも下がっていなかった。
*
塩を扱う場所は、町の東の端にあった。
海辺の浅い区画に水が光り、その脇の作業場で、人が白いものを集めていた。
籠を運ぶ人。袋へ詰める人。口を縛って、荷車へ積む人。
二日前に見た五台の荷馬車は、ここから来たのだ。
俺は、作業の邪魔にならないところで足を止めた。
近くに、白い山が二つあった。
一方は灰色がかって、細かいものが混じっている。もう一方は、布をかけられた下から、粒の揃った白さが覗いていた。
「買いに来たのかい?」
腰の曲がった老人が、こちらを見ていた。
長い柄の木の道具を持っている。手の甲が日に焼けて、指の節に白い粉が残っていた。
「いえ。作っているところを見たくて。……ここにいても、いいですか?」
「そこなら構わんよ。荷車が来たら、よけとくれ」
「はい」
ルーチェも、俺の隣で頷いた。
*
「そっちも、塩ですか?」
灰色がかった山を指すと、老人は頷いた。
「砂やら何やらが混じった分だ。食う方とは分けてある」
「捨てるんですか?」
「いや。皮を扱うところへ売る」
俺は、もう一方を見た。
「こっちが食べる分」
「そう。袋に詰める前にも、確かめる」
老人は作業台から小さな器を取り、白い粒を少しすくった。
「味を見るかい?」
「いいんですか?」
「二人の舌につけるくらいで、山は減らんよ」
指先に、少しだけもらった。
舐めると、しょっぱかった。
そのあとに、わずかな苦みが残った。いつも鍋へ入れている塩とは、少し違う味がした。
ルーチェも指先を舐めた。
目を細めた。
「……おしおだ」
老人が笑った。
「塩を作っとるんだからね」
「うん。でも、いっぱいあるから」
ルーチェは、白い山を見た。
俺には、言いたいことが少し分かった。
袋の底からひとつまみずつ使うものが、ここでは人の膝より高く積まれていた。
*
「この塩は、南の方まで行くんですよね?」
「ああ。王都で積み替えてな」
「俺たち、アシェンから来たんです」
「そりゃ、遠いね」
老人は、縛り終わった袋が運ばれていくのを見た。
「そこまで行くころには、塩より運ぶ賃の方が高くなっとるかもしれん」
俺は、袋を担ぐ人の背中を目で追った。
ここで買って、荷馬車に積む。馬に食わせて、宿に泊まって、王都でまた誰かに渡す。
俺が知っている塩の値段には、その先も入っている。
「少し、買えますか?」
「袋は持っとるかね?」
鞄から塩の袋を出した。
老人は中を覗いて、口の縛り紐を確かめた。
「これなら、まだ使える」
足してもらった塩は、王都で同じ量を買うより安かった。
袋を受け取ると、さっきより重かった。
*
港へ回るころには、昼を過ぎていた。
船が、何隻も並んでいた。
小さなものは、岸と縄一本で繋がっている。大きなものには背の高い柱が立ち、巻かれた帆が横に渡してあった。
船の腹が、波に合わせて上がって、下がる。
ルーチェは桟橋の手前で止まった。
「あれ、のるの?」
「人も荷物もな」
「ゆれてる」
「水の上だから」
船から板が一本、岸へ渡してあった。
男がその上を歩いてきた。肩に大きな袋を担いでいるのに、足元を見もしない。
ルーチェが、じっと見ていた。
「おちないね?」
「あれが仕事なんだろう」
次の男も渡った。
俺なら、荷物がなくても足元を見ると思う。
*
宿は、港から一本内側の道で見つけた。
二階建てで、階段が外についている。
女将に二人で泊まれる部屋を頼むと、一晩、銅貨二十枚だと言われた。食事は別だった。
部屋を見せてもらうと、寝台が二つと、小さな卓が一つあった。
窓が、かたかた鳴っていた。
閉まっているのに、隙間から風が入る。
「夜も、この音はしますか?」
「風が吹けばね。よく眠れる方の部屋は、もう少し高いよ」
値段の違いが、分かりやすかった。
俺は窓の留め具を確かめてから言った。
「この部屋で、四泊お願いします」
女将は頷いた。
「出る日は朝に鍵を返しとくれ。それと、魚を買うなら早起きするんだよ」
「魚ですか?」
「港の市場。昼に行っても、いいものは残ってないからね」
俺は、忘れないように頭の中へ書き留めた。
*
荷を下ろしてから、窓を少し開けた。
潮の匂いが、部屋へ入ってきた。
向かいの屋根と、その向こうに細く見える海。
ルーチェはフードをかぶったまま、俺の隣から覗いた。
「ここからも、ある」
「海の町だからな」
「うん」
留め具が鳴った。
風に窓を持っていかれないよう押さえていると、ルーチェも端へ手を添えた。
二人で、しばらく海を見た。
坂の上より、近かった。
*
夕方、パンと夕飯を買いに出た。
通りの端で、魚を干していた。
開かれたものが何枚も並び、風に揺れている。ルーチェは前を通り過ぎてから、振り返った。
「あれ、さかな?」
「ああ」
「うごかないね?」
「干してあるからな」
ルーチェは、もう一度見た。
「うみには、うごくのがいる?」
「いる。明日の朝、市場へ見に行こう」
「たべるの?」
「うまそうなのがあれば」
言ってから、俺も少し楽しみになった。
この体になってから、海の魚を食べたことはなかった。
前世で食べたものなら、いくつも思い浮かぶ。
でも、この町で何が揚がるのかは、まだ知らない。
「はやくおきなきゃダメ?」
「ああ。女将さんが、朝のうちだって」
「じゃあ、おこしてね」
「起きなかったら、先に行くぞ」
ルーチェの手が、俺の袖を強くつかんだ。
「お・こ・し・て!」
「分かった、分かった。起こすよ」
*
日が落ちると、部屋の中が冷えた。
窓の隙間に畳んだ布を当てると、鳴る音が少し静かになった。それでも、外の低い音は残った。
波の音だった。
灯りを落とす前に、俺はルームを開いた。
ルーチェは戸口に立ったまま、耳を澄ませていた。
「なにを聞いてるんだ」
「なみ」
俺も、黙った。
寄せて、引いて、また寄せる。
昼の通りでは気に留めなかった音が、人の声が減ると、部屋の奥まで届いていた。
「よるも、うごいてる」
「そうだな」
ルーチェは頷いて、ルームへ入った。
食卓の横を通り、寝床の前で一度振り返った。
「レイ。うみは、あしたも、ある?」
「あるよ」
「あさになっても?」
「なくならない」
少し考えてから、ルーチェは言った。
「あさのも、みたい」
「市場へ行くときに見えるよ」
「うん」
それで満足したらしかった。
金色にほどけた体が寝床に収まり、尻尾の先が鼻の近くへ回った。
俺は丸くなるのを見届けて、部屋を閉じた。
*
寝台に横になると、板が小さく軋んだ。
毛布を引き上げる。
波の音は、まだ続いていた。
王都の店では、この時間にも階下で物音がした。帳面を閉じる音。閂を掛ける音。明日の仕込みをする音。
ここでは、知らない足音が廊下を通り、そのあとに、また波が聞こえた。
明日は早く起きる。
ルーチェを起こして、港へ行く。
手紙に書くことも、もう決まっていた。
——海を見ました。
そこまで考えて、俺は、暗い中で少し笑った。
あの広さを、続きをどう書けば伝えられるだろう。
波の音を数えながら考えているうちに、眠っていた。




