三か月ぶりの野営と、北から来る塩
王都の北門を出て半日で、街道から人が減った。
畑の間に林が増え、道端の家が途切れた。すれ違う荷馬車も、昼を過ぎてからは二台だけだった。
俺は、ときどき後ろを見た。
城の尖塔は、もう木に隠れていた。少し開けたところへ出れば見えるかもしれないと思ったが、そのために足を止めるのも変な気がした。
「レイ」
ルーチェが袖を引いた。
「ここ、だれもいない」
「ああ」
「……もどっても、いい?」
俺は、街道の前と後ろを確かめた。
轍はある。人が来ない場所ではない。
「もう少し、道から離れよう」
ルーチェは頷いた。
林の向こうに低い尾根があった。あの陰なら、街道からは見えない。
*
荷を下ろすと、ルーチェはすぐにフードを取った。
風が、金色の髪を持ち上げた。
上着を脱いで、畳む。いつもより少し急いでいた。受け取った服をしまう間に、背後で枯れ葉が鳴った。
振り向くと、大きな犬ほどの竜が、前脚をいっぱいに伸ばしていた。
尻が上がって、尻尾がまっすぐになる。
それから片方の翼を開き、閉じて、もう片方を開いた。
——つばさ、かたい。
「ゆっくり動かせよ」
——うん。
ルームでも、脚は伸ばせた。
でも、翼を開いた先に枝があって、鼻先を風が通っていくのは、久しぶりだった。
ルーチェは落ち葉に鼻を寄せ、何かの匂いを嗅いだ。それから頭を上げ、空を見た。
まだ、明るい。
俺が言う前に、翼を畳んだ。
——もうすこし、あと。
「ああ。日が傾いてからな」
金色の竜が、俺の横に伏せた。
前脚は伸ばしたままだった。
*
待つ間に、今夜寝る場所を決めた。
尾根の陰の、風が弱いところ。枯れ枝を集め、地面の落ち葉を払っておく。
ルーチェは、俺が拾った枝の山をしばらく見ていた。
それから立ち上がり、落ちていた太い枝を口にくわえて運んできた。
「それは太すぎる」
——おおきいほうが、ながくもえる。
「火がつけばな」
ルーチェは枝を見下ろした。
鼻先で、細い煙が一筋上がった。
「ここでは火を吐くなよ」
煙が止まった。
——まだ、なにもしてない。
「しようとしただろ?」
返事はなかった。
代わりに、枝が俺の足元へ押しやられた。
*
木々の上だけに日が残るころ、俺たちは尾根の先へ出た。
下には林が続いていた。街道は木の向こうで、家の煙も見えない。
ルーチェが、こちらを見た。
——いってくる。
「高いところまで上がったら、遠くへ行きすぎるなよ」
頷く代わりに、鼻先が一度、俺の肩に触れた。
俺が下がると、金色の体が膨らんだ。犬ほどだった背が、馬を越える。大きく開いた翼に、残っていた夕日が透けた。
風が来た。
顔をかばって、もう一度見上げたときには、ルーチェは木々の上にいた。
そのまま、高く昇っていく。
下からでは鳥ほどにしか見えなくなった影が、ゆっくり輪を描いた。一周して、もう一周。行き先を探すような飛び方ではなかった。
俺は、集めた枝を抱えたまま見ていた。
三か月前、あの翼には、橋の落ちた川を渡してもらった。
今日は、どこへも運ばなくていい。
*
戻ってきたルーチェは、着地するとすぐ俺に鼻を寄せた。
冷たい風の匂いがした。
——レイも、のる?
空は、まだ少し明るかった。
「一周だけな」
首の付け根にまたがって、鱗に手を置いた。
地面が離れる。
腹の底が一瞬軽くなって、それから、風が頬を押した。
高く上がったところで、南を見た。
王都があった。
地平の近くに城壁の影が横たわって、その真ん中に、白い尖塔が細く立っていた。朝までいた場所なのに、もうあんなに小さい。
クロイター通りは、見えなかった。
今ごろ、ハンスが店先の束を取り込んでいる。マルタさんは鍋を見ながら、帳面をつけているかもしれない。
——レイ。
「ん」
——さむい?
「少しな」
ルーチェが翼を傾けた。
王都が背中の方へ回って、今夜眠る林が近づいてきた。
*
火を熾したころには、日が落ちていた。
乾かした苔に火花を移して、息を吹く。細枝から順にくべると、ようやく炎が立った。
ルーチェが持ってきた太い枝は、脇に置いた。
人の姿に戻ったルーチェが、それを指さした。
「それ、まだ?」
「あとでな」
「うん」
使われるのを待つつもりらしかった。
俺は鍋と水、それから豆の袋を出した。
「レイ。まめ、わたしがやる」
ルーチェが、先に器を引き寄せた。
豆を少しずつ出して、一粒ずつ指で転がす。色の悪いものを脇へよけ、小さな石を一つつまみ上げた。
「はいってた」
「よく見つけたな」
「かむと、いたいよ」
石を俺の手に載せて、また豆へ戻る。
マルタさんの横で、毎日やっていた手つきだった。
俺は干し肉を切った。少し考えて、一切れだけ細かくし直す。二人ぶんなのに、鍋の底には思ったより隙間があった。
豆を洗って、水と一緒に火にかける。
煮えるまでには、まだ時間がかかる。
ルーチェは両手を火にかざして、足を伸ばした。
*
「おなかすいた」
しばらくして、ルーチェが言った。
「俺もだ」
「まだ?」
豆を一粒すくって、匙の背で押した。
真ん中が、まだ硬い。
「もう少し」
ルーチェは鍋を覗き込んで、腰を下ろした。
店にいたときは、このくらいの時間になると、誰かが皿を出した。鍋はもう煮えていて、座れば飯になった。
今日は、待っていても誰も呼ばない。
「パン、半分食うか?」
「たべる」
黒パンをちぎって渡すと、ルーチェは端から齧った。
俺も齧った。スープにつけない黒パンは、やっぱり硬い。
向かいで、ルーチェが口を動かしながら言った。
「マルタさん、あさから、おなべでつくってたね?」
「ああ」
「だから、すぐ、たべられたんだね」
俺は鍋をかき混ぜた。
「明日は、もう少し早く始めよう」
「うん」
火が落ち着いてきたので、太い枝を一本くべた。
ルーチェが、その先に火が移るまでじっと見ていた。
*
豆がやわらかくなってから、塩で味を調えた。
一口飲む。少し薄い。
袋を傾けかけたところで、ルーチェが言った。
「ちょっとずつだよ」
「分かってる」
「さっきも、いれた」
「分かってるって」
少しだけ足して、もう一度飲んだ。
今度は、よかった。
椀によそって、二人で「いただきます」と言った。
干し肉は煮ても歯ごたえがあったが、豆には味が染みていた。黒パンを浸すと、硬い端までやわらかくなった。
ルーチェは熱い椀を両手で持って、続けて三口食べた。
「どうだ」
「おいしい」
即答だった。
俺は、自分の分をもう一口食べた。
旅に出た最初の夜、この子は「シチューのほうが、おいしい」と言った。あのとき並べたのは、干し肉と、湯に浸したパンだけだった。
今日は、豆を選り分ける手があって、塩を入れすぎる前に止める声がある。
「レイ、おかわり」
「まだあるぞ」
ルーチェは、自分で鍋に手を伸ばした。
*
最後のスープまで飲むと、ルーチェは椀を膝に置いた。
「おなか、いっぱい」
「俺もだ」
火の中で、太い枝が小さく鳴った。
ルーチェは、それを見ていた。
「でも、マルタさんのが、たべたい」
俺は空の椀を見た。
「……そうだな」
「これも、おいしかったよ」
「分かってる」
「おなかも、いっぱいなのに」
ルーチェは、少し困った顔をした。
「たべたいんだよね?」
俺も、食べたかった。
豆だけじゃない。鍋の前から飛んでくる小言も、ハンスが同じ話を何度もする声も、たぶん一緒に欲しがっていた。
でも、今食べた飯もうまかった。
俺は鍋に残った豆を一粒すくって、口に入れた。
「次に行ったら、お代わりしよう」
「うん。いっぱい」
「怒られるぞ」
ルーチェは、少し笑った。
*
椀を洗うと、ルーチェは水滴が残っていないか確かめてから、俺に渡した。
ルームへしまう。
中には、昨日と同じ食卓と、積み木があった。
「今夜は、中で寝るか?」
ルーチェは戸口から覗いて、それから外を見た。
「そとがいい」
「冷えるぞ」
「もどるからいい」
「雨が来たら、中な」
「うん」
部屋を閉じて、毛布を出した。
丸くなった金色の腹に背を預けると、昼のあいだ服越しに受けていた風が、ようやく遠くなった。
頭の上には、屋根裏の梁の代わりに枝があった。
その隙間から、星が見えた。
*
翌日の昼過ぎ、北から五台の荷馬車が来た。
俺たちは道の端へ寄った。
どの馬車も荷を高く積み、厚い布をかけていた。車輪が轍に落ちるたび、軸が重い音を立てた。
最後の一台の御者が、こちらを見た。
「坊主。北へ行くのか?」
「はい。森の方へ」
「なら、この先の水場で汲んどけ。次の宿までは、少しあるぞ」
「ありがとうございます」
御者は前の馬車との間を見て、手綱を緩めた。先頭が道脇の水場へ入ろうとしていて、列が詰まっていた。
止まった荷台の端に、麻袋が見えた。
袋の縫い目に、白い粒が付いている。
「荷は、塩ですか?」
「そうだよ」
「ずいぶん運ぶんですね」
「これでも、向こうじゃ積み残しがある」
御者は座り直して、北を親指で指した。
「ザルツハーフェンだ。海沿いの町でな。そこから王都へ入れて、今度は南へ運ぶ連中が買っていく」
「海……」
隣で、ルーチェが顔を上げた。
*
「ここから、どれくらいですか?」
「子供の足なら、あと二日くらいかね。街道を行って、最後の坂を越えれば見える。迷いようがないよ」
御者は、ルーチェの方も見た。
「海、見たことないか?」
ルーチェが俺を見たので、頷いた。
「ない」
「そりゃ、驚くぞ」
「おおきい?」
「でかい。向こう岸が見えねえくらいだ」
ルーチェは、少し考えた。
「かわより?」
「川より」
「おうとより?」
御者は笑った。
「行って、自分で確かめな。坂の上に立てば分かる」
前の荷馬車が動き出した。
御者は手綱を引き、俺たちに顎をしゃくった。
「水、忘れんなよ」
「はい。気をつけて」
馬車はゆっくり進み、深くついた轍の上に、また新しい車輪の跡を重ねていった。
*
水場へ向かいながら、俺は塩の袋を取り出した。
昨夜、鍋に振った分だけ、軽くなっている。
塩ひと袋なら、片手で持てる。
あの五台には、それがいくつ積まれていたんだろう。
橋の落ちた村を思い出した。村長は、塩と薬が買えないと言った。俺は、道で行商人と換えた塩を渡して、野菜をもらった。
あの塩も、こんな荷馬車に揺られてきたのかもしれない。
それより前には、どこかの海辺で、袋に詰めた人がいたはずだ。
薬草なら、畑から店の棚まで、いくつもの手を知っている。
塩は、店で売っているところしか知らなかった。
「レイ」
ルーチェが袋を覗き込んだ。
「なくなった?」
「まだある」
「じゃあ、きょうも、まめ?」
「肉を焼いてもいいぞ」
「やく」
早かった。
俺は袋の口を縛って、鞄へ戻した。
*
水を補充して、北へ歩き出した。
ルーチェは、さっきから道の先を見ている。
「海が気になるか?」
「うん」
「寄ってみようか。ザルツハーフェン」
ルーチェが、俺を見上げた。
「いいの?」
「塩を作ってるところも見たい。森へ行く道のことも、町で聞けるだろう」
言ってから、付け足した。
「それに、俺も見たい」
「レイも、はじめて?」
前世の記憶には、海がある。
青い水と、白い波。その景色は思い浮かぶのに、いつ、誰と見たのかは出てこなかった。
俺は、目の前の街道へ視線を戻した。
「この世界の海は、初めてだ」
「じゃあ、いっしょだね」
「ああ」
ルーチェが、俺の手を握った。
袖を引くのではなく、手のひらを合わせて、指を握る。
それから少しだけ、歩くのが速くなった。
道はまだ林の間を続いていた。
二日先の坂の向こうに、海がある。




