四本目の匙と、行ってきます
翌朝、俺とルーチェは、カウンターの前に並んだ。
マルタさんは帳面を開いたまま、俺たちを見た。
「おや、二人で来たんだね?」
「はい」
隣で、ルーチェが俺の袖を引いた。
顔を見ると、口を結んでいる。俺は少し横にずれた。
「マルタさん」
「なんだい」
「わたしたち、きたにいく」
マルタさんはペンを置いた。
「そうかい。いつだい」
ルーチェが、俺を見た。
「五日後に出ようと思っています。店の仕事を、できるだけ片づけてから」
「五日で全部片づくような店じゃないよ」
「……はい」
「冬支度は、こっちでやる。あんたらは旅の支度をしな」
奥で、荷を下ろす音がした。
「薪は割ってけよ」
ハンスだった。麻袋の口をほどきながら、こちらを見ずに言った。
「おまえが積み上げた分、まだ半分も割れてねえんだから」
「分かってる」
ルーチェが、カウンターに両手を載せた。
「おさらは、あらう。いるあいだ、ぜんぶ」
「全部は無理だろう。あたしが夜中に湯を飲んだらどうする」
ルーチェは、しばらく真剣に考えた。
「……それは、マルタさんがあらって」
ハンスが、袋に顔を突っ込んだまま笑った。
*
その日の午後、王宮へ行った。
門で名前を告げ、ヴィオラ様に出立の知らせを届けたいと伝えた。会えるかどうかは分からなかったが、五日後では遅い。
門番が奥へ人をやって、俺は脇で待った。
荷馬車が二台入り、書類を抱えた役人が何人か出ていったころ、ようやく呼ばれた。
通されたのは、入口に近い小さな控えの間だった。
しばらくすると扉が開いて、アーニャが入ってきた。髪が結い上げてあった。歩き方まで、昨日とは少し違った。
「決めたのね?」
「ああ。五日後の朝、北門から出る」
彼女は、扉のそばで足を止めた。
「……五日」
「ルーチェとも話した。本格的に雪が降る前に、行こうって」
「そう」
それから、向かいの椅子に座った。
「レイ、教えに来てくれて、ありがとう」
俺は、頷いた。
それだけのことをするのに、昨日まではずいぶん時間がかかった。
*
「それで、北の森までは、歩いていくの?」
「そのつもりだ。途中の町で、道の様子を聞きながら行く」
「ルーチェも、冒険者の登録をしているの?」
「いや。カードを持ってるのは俺だけだ」
「では、あの子は検問ごとに通行料を払うのね?」
「ああ。町によって違うから、余分には持っておく」
アーニャは、少し考える顔をした。
でも、それについては何も言わなかった。
「分かったわ。出る前に、もう一度お店へ行くわ」
「忙しいんだろ?」
「忙しいから、今から時間を空けるのよ」
昨日、似たようなことで叱られたばかりだった。
「……待ってる」
「ええ」
彼女は立ち上がった。
俺も立って、戸口まで来たところで、彼女が小さな声で呼んだ。
「レイ」
「ん」
「最後の日の賄い、わたしの分も」
「いつも通りに」
その返事に、彼女は一度だけ頷いた。
*
残りの五日にも、荷は来た。
朝、ハンスが袋を開ける。俺が束を受け取ろうとすると、その手が横へ逃げた。
「今日はおれが先」
「分かった」
一束持ち上げて、葉の裏を撫でる。根元を見て、それから縄をほどく。
少し遅い。
口を出しかけて、閉じた。
ハンスは俺の顔を見ずに言った。
「遅いって思ってるだろ?」
「思ってるが、仕方ない」
「今に見てろよ、すぐお前を超えてやるから」
俺は次の袋を引き寄せた。
昼には薪を割った。午後には使いに出て、戻ってから、マルタさんにもらった薬袋を広げた。
入れた薬は、六つ。
熱冷ましのハクハ草。腹の薬。傷に当てるツヅリ草。虫下し。喉の痛みに効く根。それから、月白アズリルの粉を少し。
袋を見せると、マルタさんは一つずつ確かめた。
「詰め直しな」
「多すぎますか?」
「多い少ないの前に、取り出してごらん。ツヅリ草を」
袋へ手を入れた。根の包みをよけて、粉の包みを出して、その下からツヅリ草を引っ張り出す。
マルタさんは黙って見ていた。
「……すぐ取れるところに入れます」
「そうしな。それと、一つ足りないよ」
俺は、並べた包みを見直した。
「薬ですか?」
「何が足りないかは、よく見て考えな」
それだけ言って、マルタさんは客の方へ戻っていった。
*
三日目の夕方、ヤンが来た。
珍しく店の表から入ってきて、薬草の束を眺めるふりをしていた。
「出るんだってな」
「ああ」
ヤンは、懐から何かを出した。
細い革紐に、小さな金属の輪が通してあった。錆びていて、何かの部品らしいが、元が何だったのかは分からない。
「こいつは餞別だ」
俺の手に、押しつけた。
「なんだこれ?」
「知らね。拾い物だ」
軽かった。指で挟んで持ち上げると、革紐がぶら下がった。
「うちらは、みんな一個ずつ持ってる。同じ場所で拾ったやつ」
俺は、輪を見て、それからヤンを見た。
「もらっていいのか?」
「やるって言ってんだろ」
「……ありがとう」
ヤンは、棚の方を向いた。
「あと。マルタさんが、俺らを店に連れて回ってる」
「聞いた。仕事は、どうだ?」
「ルディは荷運び。ミアは使い。エミは、袋を畳むやつ」
「エミも?」
「座ってできるからな。フィンと一緒にやってる」
指先に挟んだ輪が、少し温まっていた。
「トビアスは」
「今、裏で薪運んでる」
「来てたのか?」
「六人ぶんだって、あの人が言ったんだよ」
ヤンは、そこで初めて俺の顔を見た。
「だから、六人でやる」
俺は頷いた。
六人の名前を書いて渡した夜のことを思い出した。分からなくて、空けたところもあった。あの紙に、俺の知らないことが増えている。
「あんたが頼んだんだろ?」
「確かに頼んだ。でも、引き受けてくれたのは、マルタさんだ」
「分かってる」
ヤンは、すぐに答えた。
「マルタさんから、聞いたから」
*
ヤンが帰ったあと、輪を鞄の内側に結んだ。
ニナの石と、孤児院の絵が入っている仕切りの、すぐ脇だ。
革紐を二度結んで、引っ張って確かめた。
通りの向こうで、指笛が二回鳴った。
顔を上げると、もう誰もいなかった。
*
四日目の夕方、アーニャが来た。
台所へ入るなり、薄い箱を卓に置いた。
「これは、受け取る前に見て」
蓋を開けると、封蝋のついた紙が一枚入っていた。
「通行証よ。王家の名で出していただいたの。これがあれば、この国の門で、あなたの連れにも通行料はかからないわ」
俺は、紙に手を伸ばしかけて止めた。
「……あんたが、頼んでくれたのか?」
「ええ。父に」
アーニャは、少し背筋を伸ばした。
「誰が使うのか、どこへ行くのかも、話したわ」
「それで、出してくれたのか?」
「『例の件の少年か?』と、おっしゃった」
紙の端に、俺の名前があった。
王宮の小さな部屋で、頭を下げた日のことを思い出した。あの日、俺が言ったことは、あの部屋の中だけでは終わっていなかったらしい。
「この紙がするのは、二つだけ。門の通行料を免じることと、あなたたちの身分を王家が保証すること。荷を検められないわけではないし、閉じた門を開けさせる紙でもないそうよ」
「それで十分だ。それ以上になったら、持ち歩く方が怖い」
「わたしも、そう言われたわ」
彼女は少し笑った。
*
「でもこれでは、借りを返したことにはならないわ」
アーニャが言った。
「頼まれてないから?」
「ええ。わたしが渡したくて、用意したものだから」
俺は、紙を見た。
検問ごとの通行料。二人ぶんの路銀。途中で足止めになれば、そのぶん減っていく食料。
ありがたい。これはすごく、助かるものだった。
「ありがとう。使わせてもらう」
彼女が、少し目を見開いた。
「……受け取ってくれるのね?」
「ああ」
紙を折り目に沿って畳み、箱へ戻した。
もらう理由を、これ以上探すのはやめた。
「ありがとう、ヴィオ」
彼女は、箱の蓋を閉める俺の手を見ていた。
それから言った。
「それから、手紙を書いてね」
「届くまで、だいぶかかるぞ」
「それは、待つわ」
顔を上げると、彼女はまっすぐこちらを見ていた。
「出したかどうか分からないまま待つのは、嫌だけれど」
「町に着いたら書くよ」
「約束よ」
*
最後の夜、賄いの卓には匙が四本並んだ。
アーニャが三本置いて、ルーチェが最後の一本を置いた。
「こっち、アーニャ」
「ありがとう」
「うん」
ルーチェは、少しだけ柄の向きを直した。
鍋からは、いつもより濃い匂いがしていた。豆のスープに肉が入り、腸詰めは一人二本。それから、パンが白かった。
「白いパンだ!」
ハンスが声を上げた。
「ここで出たの、おれ、初めて見た」
「覚えてないだけかもしれないだろう」
「覚えてるよ。パンのことは」
マルタさんは返事をせず、鍋をかき混ぜた。
俺は白パンをちぎった。
やわらかい。口に入れると、いつもの酸っぱさがなかった。噛むのに、力もいらない。
うまかった。
もう一口食べてから、籠の底を見た。
「黒いのは、ないんですか?」
マルタさんの手が止まった。
ハンスまで、こっちを見た。
「あんた、白いの出して文句言われたのは初めてだよ」
「文句じゃないです。うまいです。ただ、スープにつけるなら、いつもの方が」
「わたしも」
ルーチェが手を上げた。
アーニャが笑い出した。
「最初に食べたとき、あんなに硬いパンがあるなんて知らなかったの」
「アーニャが?」
ハンスが、信じられないという顔をした。
「ええ。酸っぱくて、なかなか飲み込めなくて」
「今は、食ってるじゃん」
「今は、大丈夫なのよ」
マルタさんが、黒パンを持ってきた。
「両方食べな」
籠へ足された黒パンに、ルーチェがすぐ手を伸ばした。
俺も、一つ取った。
*
食べ終わると、ルーチェは皿を重ねて流しへ運んだ。
アーニャが洗った皿を受け取り、布で拭く。ハンスは鍋を運んで、俺は卓を拭いた。
明日からは、この人数ではやらない。
そう思ったところで、俺は布を洗いに行った。
流しの前で、ルーチェが最後の皿を持っていた。
「マルタさん」
「なんだい」
「きょう、おさら、われなかった」
マルタさんは、拭き上がった皿を受け取った。
表を見て、裏を見た。
「きれいになったね」
ルーチェは、濡れた手をエプロンで拭いた。
何度も拭いてから、紐をほどいた。
「これ、かえす」
大きなエプロンだった。最初は二重に巻いていた。今でも裾は長かったが、前ほど持て余してはいない。
マルタさんは受け取って、いつもの釘に掛けた。
「次に来たときも、皿はあるよ」
ルーチェは、掛かったエプロンを見上げた。
「うん」
*
朝は、いつもの時間に起きた。
店先へ出ると、ハンスが先に水を打っていた。
「今日は、おれがやる」
「まだ出る前だぞ」
「知ってる」
ハンスは桶を傾けた。水が石畳を走って、端の溝へ流れていった。
俺は、戸口に立っていた。
手伝おうと思えば手伝える。でも、やることがなかった。
「レイ」
「ん」
「出ていく日に怒るって、言ったよな」
「ああ」
ハンスは空の桶を置いた。
「勝手に来て、勝手に相棒になって、勝手に出ていくな」
「相棒にしたのは、そっちだろ?」
「うるせえ」
肩を、ばしっと叩かれた。
痛かった。
ハンスは笑わなかった。俺も、笑えなかった。
「おかげで、冬大変だぞ」
「……悪い」
「来年は、おれが全部見つけるからな。偽物」
「ああ」
「おまえが戻ってきても、検品、渡さねえから」
「じゃあ、荷を運ぶ」
「おう。そうしろ」
そこで、やっとハンスが笑った。
*
出る前に、薬袋をもう一度見せた。
マルタさんは、口を開いてすぐのところにある、巻いた布を指で押した。
「気づいたね?」
「包帯です。傷口にツヅリ草を当てても、巻くものがないと押さえておけないので」
尾けられた日に、塀をくぐって肘を擦りむいた。あの程度の傷でも、服が触れるたび痛んだ。
昨日、さらしを買い、切って巻いておいた。
「ツヅリ草も、ここならすぐ取れます」
「よし」
マルタさんは袋を返した。
俺は口を縛って、鞄の取り出しやすいところに入れた。
「マルタさん」
「なんだい」
置いてくれたこと。薬草を仕込んでくれたこと。ヤンたちを引き受けてくれたこと。
言おうとしたことが、いくつも重なった。
「……ありがとうございました」
マルタさんは、俺の鞄の肩紐を見た。ねじれていたところを、手で直した。
「向こうでも、最初に全部知ってる顔をするんじゃないよ」
「はい」
「知らないことは、知らないと言いな」
「はい」
それから、俺の顔を見た。
「よく働いてくれた」
俺は、もう一度頭を下げた。
今度は、少し長く下げていた。
*
ルーチェが、隣に来た。
フードをかぶって、袖を詰めた上着を着ている。自分の荷物を、両手でしっかり持っていた。
「マルタさん」
「ああ」
「おさらのあらいかた、おしえてくれて、ありがとう」
「忘れるんじゃないよ」
「わすれない」
ルーチェはハンスを見た。
「ハンスも、ありがとう」
「おれ、なんか教えたっけ」
「いっぱい、しゃべった」
「なんだそりゃ」
「おもしろかった」
ハンスは、鼻の下をこすった。
「また来たら、話してやるよ」
「うん」
最後に、アーニャの前へ行った。
朝早く来た彼女は、供の二人を少し離れたところに待たせていた。
「アーニャ。おさら、よろしくね」
「ええ」
「われても、ちゃんといってね」
「……ええ。そうするわ」
アーニャが腰をかがめた。
ルーチェが荷物を俺に預けて、その首に腕を回した。少しのあいだ、二人とも何も言わなかった。
*
クロイター通りを歩き出した。
薬草の束は、まだ店の中だった。パン屋の窓は明るく、角の石畳だけ、ハンスが打った水で濡れていた。
ルーチェが、いつものように俺の袖をつかんだ。
角まで来て、二人で振り返った。
マルタさんと、ハンスと、アーニャが店の前に立っていた。
俺は息を吸った。
「行ってきます」
言ってから、少し驚いた。
七年間、孤児院の玄関で言っていた言葉だった。
隣で、ルーチェも大きく手を上げた。
「いってきます」
「行っといで」
マルタさんの声が、朝の通りをまっすぐ届いた。
「手紙、よこせよ!」
ハンスが叫んだ。
「そっちも書けよ!」
返すと、ハンスは何か言いながら手を振った。
アーニャは、両手で振っていた。
角を曲がってからも、ルーチェの手は、しばらく上がったままだった。
*
北門では、俺のカードと、アーニャのくれた通行証を出した。
門番は紙を開き、印を確かめて、俺たちの顔を順に見た。
「二人だな」
「はい」
荷を検められ、それから紙を返された。
ルーチェの通行料は、取られなかった。
俺は通行証を丁寧に畳んだ。
*
門の外には、街道が続いていた。
振り返ると、王都クローネが朝の光の中にあった。
幾重にも重なる城壁。屋根の海。丘の上の白い尖塔。
三か月前には、どこを見ても知らない場所だった。
今は、あの屋根の向こうに、薬草の下がる細い通りがあると知っている。
「レイ」
ルーチェが、袖を引いた。
「また、これる?」
「来よう」
「うん」
彼女は頷いた。
「おさらあらい、あるって」
「ああ。俺は荷運びだってさ」
ルーチェが、小さく笑った。
俺は鞄を背負い直した。内側で、ヤンの輪が何かに触れて、かすかに鳴った。
北へ続く道を、二人で歩き出した。




