十日に一度の客と、返せない借り
その日、アーニャは十日を待たずに来た。
夕方、店じまいの前だった。表の薬草を取り込んでいると、通りの端に亜麻色の髪が見えた。後ろには、いつもの二人。
「今日は、早いな」
「出られることになったの。……賄いは、まだある?」
「これからだ」
彼女は頷いて、俺の抱えていた束に手を伸ばした。
「どこへ運ぶの?」
「裏の棚。空いてるところに寝かせてくれ」
束を半分渡すと、彼女は両手で抱え直した。乾いた葉が上着にひとつ付いたが、気づかずに店へ入っていった。
*
賄いの席で、アーニャは父親の話をした。
起き上がれるようになったこと。まだ長くは政務に出られないこと。昨日は、庭を少し歩いたこと。
「途中で座ったけれど、自分で戻るとおっしゃって。侍医が困っていたわ」
「元気になったんだな」
「ええ。叱られる方は大変だけれど」
そう言って笑ったあとで、彼女はもうひとつ付け足した。
「兄さまたちも、前よりよく父の部屋に来るの」
匙が、皿の中で止まった。
俺は、続きを聞かなかった。ハンスもパンをちぎったまま黙っていた。
ルーチェが顔を上げた。
「アーニャ、こんど、いつくる?」
「……十日か、もう少し先になると思うわ」
「とおいね」
「そうね」
俺は、湯を飲んだ。
十日後、この卓に俺がいるかどうかも、まだ決めていない。
向かいで、アーニャがこちらを見ていた。
*
片づけのあと、台所に二人で残った。
俺が湯を沸かすあいだ、彼女は卓に残った水滴を布で拭いていた。もう乾いているところまで、何度か。
「レイ」
「ん」
「次に来たときも、あなた、いる?」
火の中で、細い薪が折れた。
俺は湯呑みを二つ並べて、それから答えた。
「……まだ、決めてない」
布を動かしていた手が止まった。
「出るつもりなのね?」
「ああ。北へ行こうと思ってる」
顔を上げると、彼女は俺を見ていた。
驚いては、いなかった。
「いつから考えていたの?」
「大書庫に行ったあとから」
「そう」
短い返事だった。
俺は湯を注いで、彼女の前に置いた。
「そのことは、言うつもりだった」
「もし、わたしが聞かなかったら」
湯呑みを持ったまま、答えられなかった。
アーニャは布を畳んだ。端と端を、きちんと合わせた。
「……聞いてよかったわ」
*
大書庫で三つだけ読めた言葉のことを話した。
残りを読むには、やはり北の森へ行くしかなさそうなこと。その先にも、確かめたい場所ができたこと。
彼女は、口を挟まずに聞いていた。
「雪の前に出るか、春まで待つか。そこで迷ってる」
「そのまま春までいたら、困るの?」
「困らない。店の仕事もあるし、暮らしていける」
「なら」
彼女は、そこで言葉を切った。
俺も、続きを待った。
「……ごめんなさい。わたしが決めることじゃないわね」
「ここが、居心地いいんだ」
言ってから、湯呑みを見た。
「だから、決められない」
彼女は、両手で湯呑みを包んだ。
「わたしもよ」
その声は、小さかった。
*
「わたし、あなたに何も返せていないわ」
しばらくして、彼女が言った。
「父の薬のことか?」
「それも。市場のことも」
「市場は、ヤンたちに助けてもらった」
「知っているわ。あなた、いつもそう言うもの」
少しだけ、声が強くなった。
「誰かに教わった。誰かに助けてもらった。自分は渡しただけ。……それは、そうなのでしょうね。でも、あの日、わたしの話を聞いたのは、あなたよ」
俺は、黙った。
「誰を信じていいか分からなくて、薬のかすを持ってきたの。あなたは、受け取ってくれた」
「薬屋だからな」
「薬屋なら、誰でも受け取ってくれたと思う?」
答えられなかった。
彼女は、一度だけ息を吐いた。
「大書庫のことだって、わたしに言ってくれればよかったのに」
「……考えたよ」
アーニャが顔を上げた。
「頼もうか、考えた。王様が目を覚ませば、許可をもらえるかもしれないって」
あの夜、屋根裏で考えたことだった。考えて、毛布を引き上げた。
「でも、あんたのお父さんが助かるのを、自分の用が済むことと一緒に数えたくなかった」
「それで、わたしには言わなかったの?」
「ああ」
彼女は、しばらく湯呑みを見ていた。
「……わたしは、あなたに頼んだわ」
「それは」
「父を助けてほしくて、頼んだのよ。友達になったばかりのあなたに、危ない話を持ち込んだ」
言いかけた言葉が、喉に残った。
「頼まれたかったのよ」
彼女は、俺を見た。
「わたしも、あなたに」
*
俺は、湯呑みを置いた。
「……ヴィオ」
「なに」
「俺が許可を頼んだら、それは友達に頼んだことになるのか。それとも、王女様に頼んだことになるのか?」
彼女は、少し考えた。
「両方でしょうね」
思っていたより、はっきりした答えだった。
「王女でなければ、許可の話はできないもの。でも、あなたが困っていると知ったら、力になりたいわ」
「俺には、その二つをうまく分けられない」
「わたしだって、分けられないわ」
彼女の指が、湯呑みの縁から離れた。
「でも、引き受けるかどうかは、わたしに決めさせて」
俺は、卓の木目を見た。
あの子の顔をまっすぐ見られなくなると思った。
だから頼まなかった。
そのあいだ、向かいでこの子がどう思っていたかは、聞いていなかった。
「……悪かった」
「謝ってほしかったわけではないのだけれど」
「うん」
顔を上げた。
「今、頼みたいことは思いつかない。返してもらうために、何か探すのも違うと思う」
「ええ」
「だから、その借りは、残しておいてくれないか?」
「残すの?」
「いつか、本当に困ったときに頼む。そのときは、ちゃんと自分で言う」
彼女は、すぐには頷かなかった。
「また、頼む前に一人で決めない?」
「……気をつける」
「そこは、約束するところでしょう」
「約束する」
アーニャは俺の顔を見て、それから、卓の上に指を一本立てた。
「まず、一回ね」
「一回だ」
「何でもできるわけじゃないわよ」
「分かってる」
「でも、聞くわ。あなたが聞いてくれたように」
俺は、頷いた。
彼女はようやく湯呑みを持ち上げて、一口飲んだ。
「……冷めたわね」
「淹れ直すか?」
「お願い」
今度は、俺もすぐに立てた。
*
帰り際、戸口で彼女は言った。
「町を出る日は、必ず教えて」
「決めたら、言う」
「十日後に来て、ハンスから聞くのは嫌よ」
「分かった」
「本当よ。……わたし、追いかけるのは得意じゃないの」
あの日、市場で、ほとんど引きずるようにして走ったことを思い出した。
「走らなくていいように、先に知らせる」
彼女は頷いた。
供の二人が、通りの先で待っている。そちらへ歩き出して、二歩目で振り返った。
「またね、レイ」
「またな、アーニャ」
今度は、それだけで歩いていった。
角を曲がるまで見送ってから、俺は戸を閉めた。
*
屋根裏に上がると、ルーチェが窓辺に座っていた。
人の姿のまま膝を抱えて、丘の方を見ている。
「待ってたのか?」
「うん」
俺は、隣に座った。
「ルーチェ。話がある」
「ここ、でていくはなし?」
俺は、その顔を見た。
「……気づいてたのか?」
「レイ、まいばん、かみ、みてるから」
鞄は、寝床の脇にあった。北の谷を描いた紙も、その中だ。
マルタさんにも、ハンスにも、アーニャにも話した。
隣で毎晩あの紙を見ていた子には、まだ、何も話していなかった。
「遅くなって、ごめん」
ルーチェは、膝を抱え直した。
「おこってないよ」
俺は、頷きかけて、やめた。
怒っていない。それで済ませて、次の話へ進むところだった。
「ルーチェは、どうしたい」
「レイと、いく」
「……うん」
「でもね」
ルーチェは、窓の外へ目を戻した。
「ここ、すき」
*
「おさらあらうの、じょうずになったし。まかない、おいしいし。ハンスは、うるさいけど、おもしろいし」
通りの下で、どこかの店が戸を閉めた。
「マルタさん、わたしのこと、ちゃんとおこるの」
俺は、その横顔を見ていた。
「よそみすると、おこる。おみず、こぼしても、おこる」
「俺も怒られる」
「うん」
ルーチェは、少し笑った。
「だから、すき」
俺は窓の縁に手を置いた。
踏み台に乗って、皿を洗っていた小さな背中を思い出した。俺に手を振ろうとして、よそ見するなと叱られた。あの日は、俺も笑って店へ戻った。
あれから三か月だ。
ルームを広げて、脚を伸ばせる寝床を作った。今なら、どこへ行っても、あの子を暖かい場所で眠らせられる。
でも、朝起きて皿を洗いに行く台所までは、持っていけない。
「寂しくなるな」
「うん」
「俺も、なる」
ルーチェが、こちらを見た。
その顔を見て、俺はやっと言った。
「ここを出たいのに、出たくないんだ」
*
鞄から、紙を出した。
北の谷の絵。その下から、端の毛羽立った、もう一枚を抜く。
旅の最初の夜に、焚き火のそばで広げた紙だ。
ルーチェの指が、二行目に触れた。
「わたしのぶん」
「ああ」
「まだ、わからないね?」
「分からない。北へ行けば分かるかもしれないけど、何も見つからないかもしれない」
ルーチェは、谷の絵を覗き込んだ。
下手な絵だった。崖と、霧と、その向こうに山を描いたつもりなのに、折り重なった布みたいに見える。
「わたしも、しりたい」
俺は、紙から目を上げた。
「ここ、すき。でも、これも、しりたい」
小さな指は、まだ二行目に載っていた。
俺が行くからついてくる。
それだけだと、勝手に思っていた。
「……雪が来る前に、北へ向かおうと思う」
ルーチェは、俺を見た。
「春まで待ったら、出るのは半年先になる。俺は、その前に、もう少し探したい」
「うん」
「ルーチェは」
少し考えてから、彼女は頷いた。
「ゆきふるまえに、いく」
それから、紙の端をつまんだまま聞いた。
「あした?」
「いや。明日じゃない」
「よかった」
肩から、少し力が抜けた。
「ちゃんと、ばいばい、したい。マルタさんや、アーニャや、ハンスにも」
「うん。そうしよう」
*
ルームを開くと、ルーチェは寝床へ行く前に、食卓の積み木をひとつ動かした。
二つ重ねて、その横に三つ並べる。
「なにを作ってるんだ」
「まだ、とちゅう」
それだけ言って、寝床へ上がった。金色にほどけた体が、ゆっくり丸くなる。尻尾は、きちんと収まっていた。
——レイ。
「ん」
——あした、マルタさんに、わたしもいう。
「一緒に言おう」
尻尾の先が、一度だけ動いた。
俺は灯りを落として、部屋を閉じた。
*
屋根裏に戻って、二枚の紙を畳んだ。
この店がもっと好きになる前に出た方がいい。
一度、そんなことも考えた。
でも、もう遅い。ルーチェは明日も皿を洗うつもりで、ハンスは冬の荷を俺と運ぶつもりでいる。俺だって、明日の賄いを楽しみにしている。
寂しくならないうちに出る日は、とっくに過ぎていた。
毛布に潜って、明日やることを数えた。
ルーチェと、マルタさんに話す。出る日を決める。アーニャに知らせる。
それから、残りの日も、いつも通り働く。
階下では、まだ帳面をめくる音がしていた。
※2026/9/18 台詞を少し修正しました(内容の変更はありません)。




