言い出せない話と、先に気づく人
その紙を、俺は十日、鞄に入れたままにしていた。
大書庫で写した物を思い出しながら描いたものだ。絵はあまり上手ではないが、なんとなくは分かる。
夜になると、それを広げる。しばらく見て、また畳んで鞄に戻す。
それを十日、繰り返していた。
*
朝、荷を検めていると、ハンスが横から覗き込んできた。
「なあ、レイ。冬はここで過ごすだろ?」
「え」
「だから、冬だよ冬。うちの店は、冬の時期は忙しいんだぞ。咳の薬が飛ぶように出る。おまえいないと回らないからな」
ハンスは、そう言って、麻袋の口を開けた。
「去年はおれ一人だったから、大変だったんだ。今年は二人だから、半分で済む」
俺は、束を受け取りながら、返事をしなかった。
ハンスは、それに気づかなかった。気づかないまま、去年の冬にどれだけ忙しかったかを、いつもの調子で話し続けた。
*
昼の休みに、俺は店の裏で薪を割っていた。
冬支度の一つだ。斧の使い方は、アシェンで覚えた。孤児院で使う薪を作るのは、俺とセルの仕事だった。
振り下ろすたびに、頭の中で数が動いた。
王都を出るとしたら、いつがいいか。
冬になれば、街道は雪で埋まる。北へ行くなら、雪が解けてからだ。つまり、春まで待つか、雪が来る前に出るか。
雪が来る前なら、あとひと月もない。
斧を振り下ろした。木が割れて、片方が転がった。
春まで待てば、この店にもう半年いられる。ハンスと冬を越せる。アーニャは十日に一度来る。ルーチェはルームで眠って、朝には賄いを食べる。
悪い暮らしじゃない。だから、迷っている。
*
その夜、マルタさんに呼ばれた。
店を閉めたあと、カウンターの向こうに座って、帳面を開いていた。俺が近づくと、ペンを置いた。
「さて、坊や。いつ出るんだい」
俺は、その場に立ったまま、何も言えなかった。
「顔に出てるよ」
マルタさんは、いつもの調子で言った。
「三日前からね。荷を検める手は動いてるけど、心ここに在らずだ。あんた、ここのところ毎晩、屋根裏で紙を広げてるだろう」
「……見えないでしょう?」
「油の減りが早いんだよ。ランプの」
俺は、返す言葉がなかった。この人の前で隠しごとをするのは、まだ十年早いらしい。ヴェルナーさんに言われたのと、同じことだ。
*
「北へ行くのかい?」
「……はい」
「いつだい」
「まだ、決めてません」
「決めてないんじゃなくて、決められないんだろ?」
マルタさんは、そう言って、帳面を閉じた。
「言っとくがね。あたしは引き止めないよ」
その声は、突き放す言い方ではなかった。
「あんたは旅の途中で、うちに寄っただけだ。最初からそう言って入ってきた。あたしはそれを承知で置いた。……三か月も経つと、ついそれを忘れそうになるけどね」
「そうですね。三か月いました」
「そうさ。よく働いてくれた」
マルタさんは、カウンターの下から、小さな包みを出した。
包みを開けると、革の小袋が入っていた。手のひらに載るくらいの、丈夫そうな袋だった。
「薬袋だ。旅のあいだ、必要なものを詰めて持ちな」
「……ありがとうございます」
「礼はいい。中身は自分で詰めるんだよ。何を入れるかで、あんたがこの三か月で何をしたか分かる」
試験だった。この人は、最後まで、そういう人だ。
*
「マルタさん。一つ聞いていいですか?」
「なんだい」
「この店、なんで施療院に安く卸してるんですか?」
マルタさんの手が、止まった。
しばらく、答えなかった。俺も、待った。
「ヒルデさん——あたしの前の女主人さ。あの人が始めたんだよ」
その声は、静かだった。
「子供が死んだ話は、したね。あの母親は、金がなくて、薬を薄めて飲ませてたんだ。偽物だったのに加えて、薄めてた。……あの人は、それを後から知った」
「金があれば助かったのか。それは分からない。分からないけどね、あの人は、それから施療院に卸すようになった。薬が買えない人間のところに、薬が回る道を、一本だけ作った」
マルタさんは、帳面の背を指で撫でた。
「儲からないよ。五十年、一度も儲かってない。でも、やめたら、あの人が作った道が消える」
俺は、そのとき初めて、この店の決まりごとの意味が分かった。
*
「レイ」
マルタさんが、俺の名前を呼んだ。坊や、ではなかった。
「あんたはね、たぶん、あちこちに道を作る子だよ」
「……道」
「橋の下にパンを配った。町中の薬屋に紙を配った。あんたは、自分の手が届く範囲が狭いと思ってるだろう。思ってるからこそ、届く道を作る」
マルタさんは、そこで少し笑った。
「あたしは、道を一本しか作れなかった。五十年で一本さ。あんたは三か月で二本作った。……悔しいね」
悔しい、と言ったこの人の顔は、悔しそうではなかった。
*
屋根裏に上がって、寝床に入ってから、俺は数え忘れていたことに気づいた。
俺が出ていけば、銅貨二枚も消える。
橋の下の六人が食えているのは、店の使いがあるからだ。頼んでいるのは俺で、その俺がいなくなる。道を作った、と言われたばかりの道が、俺が歩かなくなった日に草に埋まる。
俺は起き上がって、階段を下りた。
カウンターの灯りは、まだ消えていなかった。
「マルタさん。お願いがあります」
「言ってみな」
「橋の下の子たちに、仕事を続けさせてもらえませんか?」
マルタさんは、帳面から目を上げなかった。
「使いはうちの仕事だよ。あんたがいなくなっても、使いは要る」
「一人か二人じゃなくて、六人です」
そこで、顔が上がった。
「うちの使いは、六人ぶんもないよ」
「はい」
「……ほかの店に、って言いたいのかい?」
俺は頷いた。人に伝えるのが、思ったより難しかった。それに人に頼むというのは、自分だけでは、できないことだから。
「俺の手だけでは、六人ぶんには足りません。マルタさんなら、届きます」
マルタさんは、ペンを置いた。それから、鼻から長い息を吐いた。
「あんた、自分が何を頼んでるか分かってるね?」
「……はい」
「あたしが名前を出す以上、しくじられちゃ困るよ。寄合で顔を合わせる連中だ。使えない子を回したと分かったら、あたしの沽券に関わる」
「しくじりません」
「それは、あんたが言うことじゃない」
その通りだった。俺は黙って、言い直した。
「……あの子たちは、しくじりません」
マルタさんは、しばらく俺を見ていた。
それから帳面を開いて、新しい頁の上に、線を一本引いた。
「名前を書きな。歳は分かる範囲でいい。できることも」
俺はペンを借りた。
ヤン、十三。足が速い。数が分かる。
ミア、六つか七つ。路地を全部知っている。人の顔を覚える。
エミ、ミアより少し小さい。まだ本調子じゃない。座ってできる仕事なら。
トビアス。歳も、得意なことも、まだ知らない。
ルディ。背が高い。高いところに手が届く。
フィン。いちばん小さい。手が丁寧。
分かるところまで書いて、渡した。
マルタさんは、上から下まで読んで、ふん、と鼻を鳴らした。
「あんた、よく見てるじゃないか」
「見てただけです」
「見てるやつが少ないんだよ、この町は」
マルタさんは、その紙を帳面に挟んだ。挟んだところで、話は俺の手を離れた。
*
翌朝、ハンスに言った。
薪を割る前に、裏庭で、二人だけのときに言った。
「ハンス。俺、たぶん、そのうちここを出る」
ハンスは、しばらく黙っていた。
それから、斧を薪に立てかけて、俺の方を見た。
「知ってた」
「……知ってたのか?」
「おまえ、探し物してるって言ったろ。階段で」
あの日のことだ。パンを食べながら、なんで王都に来たのかと聞かれて、探し物だと答えた。何のかは、まだ分からないと言った。
ハンスは「ふうん。おれもだ」と言って、それ以上聞かなかった。
「探し物してる奴は、見つかるまで動くだろ。ここで見つかるとは限らないし」
ハンスは、薪を一つ蹴った。
「でもさ、冬は越せよ」
「……冬」
「咳の薬が飛ぶように出るんだって。去年、おれ一人で回して死にそうだった」
その言い方が、あんまりいつも通りだったので、俺は少しだけ笑ってしまった。
「怒らないのか?」
「怒るかよ。……いや、怒るな。うん、怒る」
ハンスは、そう言い直して、それから斧を持ち上げた。
「でも今じゃない。出ていく日に怒る。今から怒ってたら、それまでずっと機嫌が悪いだろ」
こいつは、たまに、いいことを言う。
*
その日、俺は薪を多めに割った。
いつもの倍だ。腕が上がらなくなるまで割って、井戸の水で顔を洗った。冷たかった。
冬が近い。
春まで待つか、雪の前に出るか。まだ決めていない。王都を出る日が近づいていることは、もう店の全員が知っている。
知らないのは、たぶん、あと二人だ。
一人は、十日に一度しか来ない。
もう一人は、毎晩、ルームで丸くなって寝ている。
——ルーチェには、まだ言っていない。
言えば、あの子は「うん」と言うだろう。行くと決めたなら、ついてくる。それが分かっているから、言い出せなかった。
この町で、あの子は初めて、給金をもらった。皿を洗って、褒められて、叱られて、ルームで脚を伸ばして眠っている。
それを、俺の都合で終わらせる。
井戸の水が、指の先を刺すみたいに冷たかった。
※2026/9/18 台詞を少し修正しました(内容の変更はありません)。




