隊商の遅れと、箱の中と箱の中
朝、井戸の水が冷たくなっていた。
手を入れた瞬間に、指の先が痛くなる。夏の終わりの水とは、明らかに違う温度だった。
「そろそろだね」
マルタさんが、店の奥から言った。
「冬支度、始めるよ」
*
薬屋の冬支度は、思っていたより仕事が多かった。
まず、乾かす場所を変える。夏は風通しのいい表側だが、冬は火の近くに移す。次に、根と葉を分けて仕舞い直す。冬に出る病は、夏とは違うからだ。咳、喉、腹。よく出る薬から手前に並べ替えていく。
それから、樽をひとつ買い足した。
「なんの樽ですか?」
「油だよ。冬は灯りをつける時間が長くなる。買い置きしないと、真冬に値が跳ね上がる」
マルタさんは、そう言って帳面に書きつけた。
俺は、その手元を見ていた。
冬に何が値上がりするか、この人は全部知っている。知っているから、秋のうちに買う。三十年、そうやって店を回してきたのだと思う。
「坊や。あんたも自分の冬支度をしな」
「僕のですか?」
「その靴で冬を越す気かい?」
見下ろすと、旅のあいだに底が薄くなった靴が、俺の足にくっついていた。
*
その日の午後、ルーチェを連れて古着屋に行った。
王都の冬は、アシェンより寒いらしい。マルタさんに言われて、厚手の上着を二着買った。ルーチェの分は、袖が長すぎたので、折って縫うことにした。
「あったかい」
ルーチェは、上着に埋もれて言った。
「まだ着なくていいぞ」
「うん。……でも、きてる」
この子は気に入ると、しばらく脱がない。孤児院にいたころ、アリア姉が編んだマフラーを、夏まで巻いていたことがある。
そのマフラーは、今もアシェンの家にある。
持ってこようかと言ったら、ルーチェが「あれは、おうちにおいとくの」と言った。理由は聞かなかった。たぶん、帰る場所に何かを置いておきたいのだと思う。
*
夜、俺は手紙を書いた。
月に一度と決めている。今月の分は、まだ出していなかった。
書くことは、山ほどあった。王が目を覚ましたこと。王宮に呼ばれたこと。褒賞を断ったこと。北の森のさらに北に、谷があるらしいこと。大書庫のことは、リーナへの手紙に書いてある。それも、同じ包みに入れる。
書いているうちに、紙が四枚になった。
最後に、冬支度の話を書いた。靴を買い替えたこと。ルーチェが上着を脱がないこと。それと、前に作ってもらったマフラーは家に置いてあると、あの子が言ったこと。
それから、一つだけ、まだ決めていないことを書いた。雪が来る前に王都を出て北へ向かうか、春まで待つか。決めたら、次の手紙で知らせる、と。
書き終えて、封をして、俺はしばらく机の前に座っていた。
この手紙が家に着くのは、早くて三週間後だ。
隊商が王都を出て、街道を南へ下って、途中の町で荷を積み替えて、アシェンに着く。返事が来るのは、その次の隊商になる。往復で二か月。
つまり、この手紙にアリア姉が返事を書くころ、こっちはもう真冬だ。
俺が今日書いた「そろそろ寒くなってきました」は、雪の中で読まれる。
*
その隊商が、遅れた。
次の便が来るはずの日に、来なかった。二日待っても来なかった。四日目に、街道筋の話が届いた。
橋が流された、という話だった。
「またかい?」
マルタさんが、帳面から顔を上げずに言った。
「秋の長雨のあとは、毎年どこかが落ちるよ」
俺は、その言葉を聞きながら、別のことを考えていた。
橋が落ちて、荷が止まる。
この夏、ミューレの先の村で、俺は同じことを見た。橋がひとつ落ちて、あの村から塩が消えた。今度は、王都とアシェンの間で同じことが起きている。
落ちたのは、どこの橋だろう。
あの村の橋なら、もう直っている。俺が直した。直したというより、元に戻した。あれは俺の手が届いた、数少ないものの一つだ。
でも、今回の橋には手が届かない。どこにあるのかも分からない。
俺の手紙は、その橋の手前で止まっている。
*
十日遅れて、隊商が着いた。
クロイター通りに荷馬車が並んで、店から人が出てくる。マルタさんは番号を読み上げる男と値の話をして、ハンスは荷を運んで、俺は荷札を検めた。
俺宛ての荷は、なかった。
当たり前だ。俺が出した手紙は、まだアシェンにも着いていない。返事が来るのは、次の次の便になる。
夜、屋根裏で、俺は空の鞄を眺めていた。
「レイ、てがみ、こなかった?」
「まだ来ない。橋が落ちたから」
「はし」
ルーチェは、上着に埋もれたまま、少し考える顔をした。
「……はしって、ごはんの、みちなんだよね?」
この子は、あの村で聞いたことを、まだ覚えている。
「そうだな。手紙の道でもある」
「なおせないの?」
「遠すぎて、どこにあるかも分からない」
「そう」
ルーチェは、それきり黙った。
*
寝る前に、ルームを開いた。
部屋は、もう石ではない。木の部屋に変わり、ちょうどいい暖かさで、真ん中に食卓がひとつ。椅子が二つ。隅には、ルーチェの寝床と近くに積み木が十個ある。俺が思い描いたとおりに、部屋は変えられるみたいだ。
あの門の行列の日に作ってから、少しずつ増えた。ランプを一つ足して、棚を一つ足して、床に布を敷いた。
この部屋は、俺が出せばそこに現れる。
王都にいるときも、街道を歩いているときも、この戸口を開ければ、同じ部屋がある。中の物は、どこへ行っても同じ場所に置いてある。
——どこへ行っても、同じ場所に。
俺は、戸口に手をかけたまま、動きを止めた。
この部屋は、俺が持ち歩いている。俺が王都で開けても、アシェンで開けても、同じ部屋が出てくる。中に置いた積み木は、俺が動いても、置いた場所から動かない。
じゃあ。
この部屋の中に、手紙を置いたとする。
それを、アシェンの誰かが取り出せたら。
前の世に、そういう仕組みがあった気がする。決まった箱に入れておけば、自分で運ばなくても、決まった場所へ届く。名前は、思い出せない。仕組みだけが、残っている。
俺はそう考えて——いや、馬鹿な話だ。
ルームは俺の空間で、俺しか開けられない。ルーチェを入れるのだって、俺が戸口を開けているからできる。誰かが向こう側から開けるなんて、聞いたこともない。
部屋を閉じて、毛布に潜った。
目を閉じても、その考えは消えなかった。
*
箱が、二つあるとする。
こっちの箱と、向こうの箱。中身が、同じ場所に繋がっている。俺がこっちの箱に手紙を入れたら、向こうの箱から手紙が出てくる。
そんなものがあれば、橋が落ちても関係ない。
街道が塞がっても、雪が降っても、隊商が遅れても、手紙は今日のうちに着く。今日書いた「寒くなってきました」を、今日のうちに読んでもらえる。
二か月が、一日になる。
できるのか。
分からない。俺の時空間は、俺の内側にしか届かない。アイテムボックスも、ルームも、俺の中だ。俺の外にある箱と繋ぐなんて、やり方の見当もつかない。
ただ、思いついてしまった。
思いついたからといって、できるとは限らない。ルームの内装とは違って、今度は、どこから手をつければいいのかさえ分からない。
毛布の中で、俺は指を一度、握って開いた。
いつかできる、という保証はない。
でも、いつか、と思っておく分には、誰にも迷惑はかからない。
*
次の朝、俺はマルタさんに聞いた。
「マルタさん。手紙って、どうやったら早く着きますか?」
マルタさんは、湯を沸かしながら答えた。
「金を出しな」
「金を出したら、早くなるんですか?」
「早馬を雇えば、隊商の三分の一の日数で着く。銀貨が飛ぶけどね」
「三分の一」
三週間が、七日。それでも、まだ遠い。
「もっと早いのは」
「ないよ」
マルタさんは、こっちを見た。
「あんた、何を考えてるんだい」
俺は、湯呑みを並べながら答えた。
「箱が二つあって、中が繋がってたらいいのにって、思っただけです」
マルタさんは、しばらく黙って、それから鼻を鳴らした。
「面白いね。それがどんなもんかわからないが、そんなもんがあったら、隊商の商売があがったりだね」
それきり、この話は終わった。
終わったけれど、俺は、その日の荷を検めながら、ずっと箱のことを考えていた。
※2026/9/18 台詞を少し修正しました(内容の変更はありません)。




