消えた貼り紙と、祈りの値段
施療院へ薬を届けるのは、月に二度の使いだった。
マルタさんの店は、施療院に薬草を安く卸している。儲けはほとんど出ない。それでも続けているのは、この店の決まりごとらしい。
その日は、俺とハンスの二人で荷を運んだ。
*
施療院は、下町の外れにあった。
石造りの建物で、扉の上に、古い木彫りの印が下がっている。薬草を束ねた形だ。中に入ると、薬草の匂いが鼻に来た。
待合には、二十人ほどが座っていた。
床に直接座っている人もいる。順番を待つというより、そこにいるしかないという座り方だった。膝を抱えた老人。咳をしている女の人。腕に布を巻いた男。
奥から、白いエプロンの女の人が出てきて、荷を受け取った。
「助かるよ。今、ハクハ草は切れてたんだ」
「これで、足りますか?」
「足りないね。でも、あるだけましさ」
その人は、そう言って笑った。笑い方が、マルタさんに少し似ていた。
*
帰り際、待合の隅から声が聞こえた。
「教会には、行かないのかい?」
老人が、隣に座った若い男に話しかけていた。
「あそこは、手をかざしてもらえば治るって言うじゃないか」
「行ったよ」
男は、腕の布を見ながら言った。
「並んだけどね。祈りをいただけるのは、まず、お布施を納めた人からだって」
「いくらだい」
「聞いたら、金貨だとさ」
老人は、それきり黙った。
俺は、空になった荷袋を抱えたまま、その場に立っていた。ハンスが俺の袖を引くまで、動けなかった。
*
帰り道、教会堂の前を通った。
白い石の、立派な建物だった。下町のどの建物より新しくて、どの建物より高い。尖った屋根の上に、丸い印が乗っている。太陽を模した印だ。
階段の下に、大鍋が出ていた。
白い修道服の人たちが、湯気の立つものを配っている。並んでいるのは、老人と子供。前に俺が貧民街で見たのと、同じ光景だった。
鍋の中身は、たぶん粥だ。
「ハンス。あそこ、飯もらえるのか?」
「もらえるよ。誰でも」
ハンスは、あっさり言った。
「うちの母ちゃんが、あそこの粥は薄いけど、腹には入るって言ってた」
並べば誰でも、粥はもらえるが、お布施をしなければ、祈りはしてもらえない。
同じ建物の、同じ人たちが、両方をやっている。仕組みは、分かる。粥で人を集めて、祈りで金を取る。商売なら、よくある形だ。ただ、並んでいるのは病人だ。病人だから、取れる。健康な者は、祈りに金を出さない。分かるのだが、少し納得がいかなかった。
*
店に戻って、マルタさんに聞いた。
「教会の治癒って、本当に効くんですか?」
マルタさんは、帳面から顔も上げずに答えた。
「効くよ」
あっさりしていた。
「あたしが若いころ、一度だけ見た。骨が折れた男の腕が、その場でくっついた。手品じゃない。ありゃ本物だ」
「じゃあ——」
「じゃあ、なんで金貨がいるのか、だろ」
マルタさんは、ペンを置いた。
「できる人間が、少ないからさ」
それだけ言って、しばらく黙った。
「この国で、治癒の祈りを使える人間は、たぶん十人いない。教会が南から連れてきた人と、こっちで見つけて教会に入った人。それだけだ。……一日に、何人助けられると思う」
「……十人とかですか?」
「そんなに保たないね。祈りを使う側が倒れる」
マルタさんは、指を一本立てた。
「一日に五人助けられる力があって、助けてほしい人間が千人いる。あんたなら、どうやって五人を選ぶ」
俺は、答えられなかった。
「教会は、金で選ぶことにした。あたしは、それを卑怯だとは思わない。だけどね、坊や」
ペンを持ち直した。
「くじ引きにしたら、正しいと思うかい?」
*
その夜、俺は寝つけなかった。
選び方の話だ。
薬草なら、増やせる。畑で育てて、干して、束にすれば、明日は今日より多くの人に届く。値段が下がれば、買える人が増える。時間はかかるが、道はある。
でも、祈りは、薬草のように畑では増やせない。
今日一日に助けられる人数には、限りがある。誰かが受け取れば、誰かが受け取れない。
あの施療院の待合に、二十人が座っていた。あの人たちは、薬草を待っていた。祈りを待つ列には、そもそも並べない。
俺の手の届く範囲は、どこまでだろう。
橋の下の六人にはパンを渡せた。王都の薬屋には紙を配れた。でも、あの待合の二十人に、俺は何もやれない。
目を閉じても、答えは出なかった。
*
翌日、使いに出たついでに、掲示板を見た。
商業区の外れの、いつもの掲示板だ。人探しの紙と、売り家の紙と、荷役の求人が重なって貼ってある。
あの紙は、なかった。
——金色ノ飛行体ヲ見タ者ハ。確カナ情報ニハ銀貨一枚。
ミューレを出た先の宿場で見て、王都の南門でも見て、この掲示板でも見た紙だ。四隅の鋲の跡だけが、板に残っていた。
剥がされたのではない。上から新しい紙が貼られて、その紙も剥がれて、跡だけになっている。
しばらく見ていたら、後ろで指笛が鳴った。一回だけ。
*
「探してんの、あれだろ?」
ヤンが、板の反対側から顔を出した。
「気づいてたのか?」
「あんた、この板の前で毎回止まるからな」
毎回止まっていた自覚は、あった。
ヤンは、板の鋲の跡を指でなぞった。
「あれ、貼ってた奴、来なくなった」
「いつから」
「集積所が押さえられた次の日くらいから」
俺は、板の跡を見た。
「役人が北門でうろうろしてるからな。荷を止められると、後ろ暗いのは全員動けなくなる。……別に、あんたの探してる奴が捕まったわけじゃないぞ。ただ、静かにしてるだけだ」
「戻ってくるかな?」
「戻るだろ」
ヤンは、あっさり言った。
「銀貨一枚出すって書ける奴が、諦めると思うか?」
*
思わない、と俺は答えた。
偽薬の摘発は、俺たちの町の話だった。集積所を押さえて、荷を止めて、混ぜていた人間を捕まえた。それは終わった。
でも、その騒ぎのついでに、別の誰かが息を潜めた。
そいつが損や得をしたわけじゃない。たまたま、間が悪かっただけ。それだけの理由で、あの紙は町から消えた。
「ヤン」
「なんだよ」
「もし、また貼られたら、教えてくれ」
「駄賃は」
「銅貨二枚」
「三枚」
「二枚だ」
「……二枚でいい」
ヤンは、ふん、と鼻を鳴らして、路地の方へ消えた。
*
店に戻ると、ルーチェが表を掃いていた。
人の姿で、大きな箒を持って、店先の埃を通りへ押し出している。近所の店の子と同じ格好で、同じことをしている。
誰も、この子を見ない。
金色の髪はフードの下だし、目の色は、伏せていれば分からない。この町で、この子はただの見習いの子だ。
教会の屋根の上には、太陽の印が乗っている。あの人たちは、竜をどう呼ぶのだろう。
マルタさんに、それとなく聞いたことがある。南の教えでは、空を飛ぶ大きな獣は、災いを運ぶものとされているらしい。昔、竜に村を焼かれた土地の教えだから、と。
その話を聞いたとき、俺は、ふうん、とだけ言った。
言って、それきり考えないようにしていた。
「レイ」
ルーチェが、箒を止めて振り返った。
「なにかあった」
この子は、こういうときだけ、こちらの都合を無視して鋭い。
「……疲れてるだけだ」
「そう」
ルーチェは、それ以上聞かずに、また箒を動かした。
埃が、夕方の光の中で舞い上がって、通りの方へ流れていった。
*
アーニャは、十日ぶりに来た。父親の話を少しして、城の庭に新しい花が咲いた話をして、ハンスの絵が侍医の部屋にまだ貼ってあると言って笑った。
俺は、教会の話も、掲示板の話も、しなかった。
この卓では、しなくていい話だと思った。
片づけのあと、屋根裏に上がって、窓から通りを見下ろした。
教会の屋根は、下町のどこからでも見える。夜でも、白い石が月を跳ね返して、少し光っている。
あの建物は、人々に粥を配り、祈りを売る。
そして、あそこの教えでは、うちの姫様は、災いの獣だ。
どれも同じ建物の話で、どれも本当のことらしい。
窓を閉めて、ルームを開いた。ルーチェが竜の姿で寝床に上がるのを見届けて、部屋を閉じる。
今夜も、この子は誰にも見られずに眠る。
それが当たり前でいられるようにしていきたい。俺はそう思った。
※2026/9/17 台詞を少し修正しました(内容の変更はありません)。




