半分の対照表と、待っているという言葉
あの会談から一週間ほどで店に書状が届いた。
監察庁の印が押してあって、中身は、王立大書庫の禁書庫の閲覧を許可する。期限は一日のみ。同伴者は認めない。と書状には書いてあった。
「たった、一日かい?」
マルタさんが、書状を覗き込んで言った。
「まあ、役所にしちゃ、話が早いじゃないか」
「一日で足りるでしょうか?」
「足りないだろうね」
あっさり言われた。
「だから、朝から行きな。明日は店を休んでいいよ。……ハンス、その顔をやめな。あんたは働くんだよ」
*
大書庫は、前に来たときと一緒だった。
古い紙と、埃と、乾いた木の匂い。天井まで届く棚が並んで、窓から入る光の中に、細かいものが浮いている。
受付には、あの司書がいた。眼鏡を上げて、俺の顔をしばらく見て、それから書状を受け取った。
二度読んで、印を確かめて、もう一度俺の顔を見た。
「……おぬし。何をした」
「いつもどおりに薬草を見てました」
「それで王の許可が下りるなら、この国の薬師は全員ここに来ているぞ」
司書は、書状を卓に置いて、立ち上がった。
思ったより、背が高かった。
「まあいい、探しているものは奥にある。ついてきなさい」
*
奥の棚は、鍵のかかった部屋の中にあった。
部屋というより、大きな戸棚を歩けるようにした感じの場所だった。窓がない。灯りは、司書が持ってきた覆いつきのランプひとつ。火の粉が飛ばないように、硝子で囲ってある。
「まず本を触る前に手を拭きなさい」
言われたとおりにした。
司書は、いちばん下の段から、平たい箱を引き出した。蓋を開ける。
中の紙は、上半分ほどが、茶色く波打っていた。
波打った部分は、文字が滲んで、ところどころ紙同士がくっついている。無理に剥がせば破れる。剥がさなくても、読めない。
「まず、本の上半分が水に浸かって駄目になった。その部分が表になっていて、この国で使う文字を、わかるように並べたものだ」
つまり、失われたのは前半の文字だ。
「残っているのは、残り半分だ。それすらも、端は滲んでいる。……この書を書いた学士は、これを完成させるのに二十年かけたそうだ」
*
俺は、鞄から写しを出した。
リーナの母親が遺した紙の、一行だけを書き写したもの。もう見飽きるほど見た並びだ。目を閉じても書ける。
卓に、対照表と写しを並べた。
一文字目。
残っている側を上から順に追う。似た形は、ない。次の段もない。三段目……。
——ない。
どうやら、最初の文字は、駄目になった方にあるみたいだ。
二文字目、三文字目も見たがなかった。そして、五文字目で、初めて止まった。
形が、合った。表の脇には、この国の言葉で、読みと短い意味が書き添えてある。学士の字だ。
俺は、その読みと意味を、紙の端に書き留めた。
*
昼を過ぎても、俺はまだ同じ卓にいた。
一つずつ、間違いや見落としがないように、表を上から下まで三回見るようにした。
司書が、途中で一度、水を持ってきてくれた。
「坊主、進んどるか?」
「少しですが、三つ、読めました」
「三つ分かるなら、上等だ」
司書は、それだけ言って戻っていった。
それから、夕方までに、分かった文字は、五つになった。
ところどころだけ言葉の分かった、歯抜けの一行が、写しの上に、点々と乗っていた。
その中で、意味のつながる形になったのは、三つだった。
*
一つ目は、「星」だった。
これは、すぐに分かった。あの三百年前の本の題にあった言葉と同じだ。星辰の民。エルフが、自分たちをそう呼ぶ。
二つ目は、「還る」。
元いた場所へ戻る、という意味の言葉だと、学士の書き込みにあった。
三つ目で、俺は手を止めた。
「待っている」。
三つを、順に並べてみた。星。還る。待っている。
しかし、残りは読めなかった。中身が全部抜けていて分からなかった。
それでも、俺はしばらく、その三つを見ていた。
リーナの母親は、この一行に「待っている」と書いた。
誰かが、待っている。
あるいは、待っていた。
*
俺は、写しの余白に、三つの言葉を書き足した。
それから、司書に断って、対照表の残っている側の全体を、別の紙に写し始めた。
今、全部写すのは無理だ。じきに日が暮れる。それでも、次に俺がここに来られる保証はない。
書いても書いても、終わらなかった。
手が痛くなって、指を握り直したとき、司書が横に立っていた。
「時間だ」
「……あと少しだけ」
「そう言って居座った学者を、わしは三人知っている。三人とも、次の日には来なかった」
俺は、ペンを置いた。
写せたのは、残っている半分の、そのまた半分ほどだった。
*
部屋を出るとき、司書が言った。
「坊主。あの一行は、誰の紙だ」
「友達の、母親の紙です」
「その母親は」
「もう、いません」
司書は、鍵を掛ける手を止めなかった。
「……そうか」
それだけだった。
鍵が回る音がして、それから、老人はゆっくり振り返った。
「三つ読めた、と言ったな」
「はい」
「ならば、その三つは意味がわかるということだ」
俺は、そのとき、うまく返事ができなかった。
半分でも、半分は読める。
アシェンから来た手紙に、同じことが書いてあった。あの子は、対照表も学士も知らないまま、同じ結論に先に着いていた。
*
帰る前に、俺はもう一つの棚に寄った。
入口に近い方の棚だ。木札に『竜と獣の記録』とある。前に来たとき、目の前を素通りした場所だった。
背表紙を、端から追う。竜の生態。竜の伝承。竜との盟約。
三冊目で、手が止まった。
『北方獣類見聞』。旅の記録らしかった。頁をめくると、絵が多い。黒くて大きな角の鹿、白い狼、それから——
谷の絵があった。
両側が切り立った崖で、底に霧がかかっている。絵の脇に、短い文が添えてあった。
——北の森よりさらに北、山脈の麓に、人の入らぬ谷あり。老いたる者、ここを竜の谷と呼ぶ。近づきたる者、還らず。
俺は、その頁を、しばらく見ていた。
北の森。そのさらに北、山脈の麓の谷。
ルーチェの卵が流れてきた場所を、俺はまだ知らない。この本が本当のことを書いている保証もない。旅の記録なんて、半分は聞いた話の写しだ。
それでも、行き先が、初めて紙の上に現れた。
もう写す時間はなかったので、頭の中に覚えるようにした。
*
外に出ると、日が傾いていた。
貴族街の門を抜けて、商業区に降りる。屋台の煙が、いつもの匂いをさせていた。串焼きが銅貨六枚なのは、前と変わっていなかった。
今日は、二本買った。
店に戻って、一本をルーチェに渡した。ルーチェは、両手で持って、それから俺の顔を見た。
「レイ、なんか、あった?」
「少しだけ、読めた」
「よめた?」
「三つだけな」
ルーチェは、三つがどれくらいなのか分からないという顔をして、それでも、うれしそうに串を齧った。
その夜、俺はリーナへの手紙を書いた。
三つの言葉のこと。対照表が半分だったこと。写せたのは四分の一だったこと。それから、写した分を全部、同封した。
最後に、一行だけ書き足した。
——星。還る。待っている。この三つだけ、先に届けます。
書いてから、しばらく考えて、もう一行足した。
——残りは、たぶん、まだ先です。それでも、三つは読める紙になりました。
*
窓の外で、城の灯りが光っていた。
鞄の底の写しは、今日から、少しだけ軽くなった気がした。読めるようになったからではない。読める日が来るのだと、分かる文字が三つできたからだ。
北の森のさらに北、山脈の麓に、谷がある。
そこに行くのは、今日ではない。冬が来る前に、この町を出るかどうかも、まだ決めていない。
ただ、行き先が一つ増えた。
増えたぶんだけ、この町を出る日が、近づいた気がした。
※2026/9/17 台詞を少し修正しました(内容の変更はありません)。




