埋まった椅子と、二人のときの呼び方
王宮でヴィオラに会った日から、しばらく彼女が店に来ることはなかった。
毎晩、卓に四本並べる。三本が使われて、一本が残る。片づけのとき、マルタさんがそれを布で拭いて、引き出しに戻す。
誰も何も言わない。ハンスでさえ、そのことは話題にしなかった。あの子がしばらく来ないことは、あたりまえになっていた。
それから何日か経った夕方、店の前に、彼女が立っていた。
*
いつも通りの、城下町に来るときの格好だった。
髪形も、町の子のようになっている。そして、後ろに立っているお供二人もすぐ近くに控えていた。
「……いらっしゃい、よく来たな」
思わず、知り合いに言う癖が出た。
彼女は、少しむっとした顔をした。
「その言い方は、やめて」
「じゃあ、なんて言えばいい」
「いつもの」
俺は、束を抱え直した。
「おかえり、アーニャ」
彼女の肩から、力が抜けるのが分かった。
*
台所に通すと、ルーチェが飛びついた。
アーニャは一瞬たじろいで、それから、笑って背中に手を回した。
「ルーチェ、しばらく見ない間に、少し大きくなった」
「ううん。おなじ」
「そう。……ごめんなさいね、来られなくて」
「うん。しってる。おうちが、いそがしいんでしょ?」
ルーチェは、そう言って、また台所に戻っていった。皿を出す音がした。
アーニャは、しばらくその後ろ姿を見ていた。
「レイ、ルーチェは、今回のことを知っているの?」
「ルーチェには言ってない。でも、たぶん、分かってる」
「……そう」
ハンスが奥から出てきて、アーニャを見て、「おっ」とだけ言った。それから、何事もなかったみたいに卓を拭き始めた。ハンスのこういうところは、上手いと思う。
*
その夜の賄いは、いつもの豆と腸詰めの煮込みと、黒パンだった。
アーニャが来たことで、久しぶりに匙が四本使われた。
特別なことは、何も起きなかった。ハンスが今日の客の話をして、ルーチェが腸詰めを二本食べて、マルタさんが黙って鍋のお代わりをよそった。アーニャは、パンをスープに浸して食べた。もう手つきに迷いがない。
「そういえばお城にも、あの紙が来たわ」
アーニャが、ふいに言った。
「侍医の部屋に、貼ってあったの。指で葉の裏を撫でて、束を一つずつ持ち上げる。……あの絵、あなたが描いたのでしょう」
「いや、絵はハンスが描いた」
「こう見えて、おれ、絵描くのうまいんだぜ」
ハンスが胸を張った。実際、あの絵は分かりやすかった。字が読めない弟子でも真似できるように、と言ったのはマルタさんだ。
「王宮の壁に、ハンスの絵が貼ってあるのか?」
「へえ」
ハンスは、それから少し黙ってから急に立ち上がって、意味もなく台所を一周した。理解が追いつくのに時間がかかるやつだ。
アーニャが、口元を隠して笑っていた。
その笑い方は、王宮の部屋では見なかったものだった。
*
片づけのあと、彼女は帰らなかった。
供の二人は、店の外で待っている。マルタさんは奥へ引っ込んだ。ルーチェは眠そうな目をこすりながら、ハンスに引っ張られて先に上がっていった。あの二人は、こういうとき、なぜか息が合う。
台所には、俺と彼女だけが残った。
彼女は、卓の木目を指でなぞりながら、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「この前は、驚いた」
「……王宮の」
「ええ」
指が、止まった。
「あなたが、頭を下げるとは思わなかったの」
俺は、湯を注ぐ手を止めた。
「あれは、下げないとまずいだろ?」
「分かってる。分かっているけれど」
彼女は、顔を上げた。
「それと、様付けで呼んだでしょう?」
その声は、責めている声ではなかった。ただ、事実を確かめるみたいな言い方だった。
「言った」
「今まで通りで、いいと言ったのに」
「言われた」
俺は、湯呑みを彼女の前に置いた。
「でも、あの部屋で今まで通りにやったら、俺が困るんじゃなくて、あんたが困る」
彼女の目が、少し大きくなった。
「監察庁の長官の前で、下町の薬屋の小僧が王女に馴れ馴れしくしてたら、あとから何か言われるのは、あんたの方だ。あの部屋には、俺の知らない決まりが山ほどあって、俺はそれを一つも知らない。知らないなら、いちばん丁寧な方をやるしかない」
彼女は、湯呑みに手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「……確かにそうね。ところでそのことはあなたが考えて言ったの?」
「考えてない。行く前にマルタさんに言われた」
彼女が、吹き出した。
台所の中で、その音は思ったより大きく響いた。彼女は自分でも驚いたみたいに口を押さえて、それから、肩を揺らして笑った。
*
「わたし、勝手だわ」
笑いが収まってから、彼女は言った。
「外では今まで通りにしてほしくて、でも、あなたに迷惑はかけたくない。両方は、無理なのに」
「無理じゃないだろ?」
「どうして」
「場所で分ければいい」
俺は、卓の向かいに座った。
「王宮では、ヴィオラ様。この店では、アーニャ。それでいいだろ?」
彼女は、少し考えていた。
「二つも、いるのね。わたしの名前」
「三つある」
「三つ?」
俺は、湯呑みを持ち上げて、一口飲んだ。熱かった。
あの日、この子は自分の長い名前を全部言ったあと、いちばん最後に、小さな声でもう一つ教えてくれた。親しい人が使う呼び方だと言って。
それを口に出すのは、今日が初めてになる。
「——ヴィオ」
湯呑みの向こうで、彼女が固まった。
「親しい人は、そう呼ぶんだろ。……二人しかいないときは、これでいい」
彼女は、何も言わなかった。
しばらくして、両手で湯呑みを包んで、顔を半分隠すみたいにして、うつむいた。耳が赤かった。
「……レイ」
「ん」
「わたし、その呼び方、しばらく誰にも呼ばれていなかったの」
声が、少し掠れていた。
「乳母が呼んでいたわ。あとは、母が」
母、という言葉が出たのは、初めてだった。
俺は、聞かなかった。聞くべきじゃない気がした。オスカルさんが手紙に書いていたことを、こういうときに思い出す。この子が何者かは、聞かんことにした。あんたも聞くな。
彼女は、それ以上何も言わなかった。俺も言わなかった。
台所の湯が、静かに冷めていった。
*
帰り際、戸口で彼女は振り返った。
「レイ」
「ん」
「わたし、前ほどここに来られないの」
分かっていた。マルタさんに言われていたし、後ろの二人の距離を見れば、それくらいは想像がつく。
「父が起きてから、城の執務が忙しいの。……それに、わたしのしたことが、少しだけ父に知られてしまって」
「怒られたか?」
「怒られたわ。すごく」
彼女は、そう言って笑った。困った顔ではなかった。
「でも、父が、後で二人のときに言ったの。よくやった、と」
俺は、なんと返せばいいのか分からなくて、結局、こう言った。
「よかったな」
「ええ」
彼女は、頷いた。
「週に一度は、無理かもしれない。十日に一度くらいになるかもしれない。それでも、行くわ」
「いつも通りにしておくから」
「……ええ、お願い」
供の二人が、通りの先で待っていた。彼女は歩き出して、二歩進んで、また振り返った。
「アーニャで、いいから」
「分かってる」
*
屋根裏に上がると、ルーチェは人の姿のまま、毛布にくるまって待っていた。
「レイ、おそい」
「悪かった」
ルームを開くと、ルーチェは眠そうな足取りで中へ入って、寝床の上で竜の姿に戻った。丸くなるのを見届けて、部屋を閉じる。
それから、俺は窓を開けた。
丘の上の城には、今夜も灯りがついている。あの灯りのどこかに、さっきまでここにいた子がいる。
十日に一度。
少ないと思うか、多いと思うかは、たぶん、比べる相手による。
俺は、アシェンの家族に、月に一度しか手紙を出せない。届くのに何週間もかかる。返事が来るのは、その次の隊商だ。
それに比べたら、十日に一度、同じ卓で飯を食える相手が、この町にいる。
窓を閉めて、毛布に潜った。
明日やることを数える。荷を検める。使いに出る。ルーチェの顔を見る。
それから、いつも通りにやっていく。
※2026/9/17 台詞を少し修正しました(内容の変更はありません)。




