呼び出しの使いと、借りの返し方
使いが来たのは、鐘から十日あとの朝だった。
馬に乗った男が、クロイター通りに入ってきた。荷馬車なら通るが、人が乗る馬が通るのを見たことはない。それだけで、通りにあるほとんどの店から人が顔を出していた。
馬から降りた男の身なりは、兵士のようだった。
男は、馬を引いて、うちの店の前で止まった。
「ここは、薬師ギルド所属のマルタの店で合っているか?」
俺が「はい、そうですが」と答えると、男は続けた。
「ならば、この中にレイという者はいるか?」
俺は、束を抱えたまま固まった。
横で、ハンスが小声で「おまえ、なんかやったのか」と言った。俺にも心当たりがありすぎて、返事ができなかった。
使いの男は、奥から出てきたマルタさんに書状を渡すと、それ以上は何も言わず、馬に乗って帰っていった。
*
書状は、監察庁からだった。
三日後の昼、王宮の一室に来られたし。付き添いは大人一名まで。そう書いてあった。
「ヴェルナーさんの字じゃない」
俺が言うと、マルタさんは書状の端の印を見て、鼻を鳴らした。
「そりゃそうさ。役所ってのは、色々な部署があるからね。それぞれやることは別なんだよ」
それから、書状を卓に置いて、俺の頭のてっぺんから足元までを、ゆっくり見た。
「……その格好で行く気かい?」
「これしか持ってません」
「だろうね」
マルタさんは、大きくため息をついた。
「明日、仕立て屋に行くよ。出来合いを一着、急ぎであんたの体に合わせてもらう。あたしの店の子が、そんな身なりで王宮に上がったなんてことになったら、あたしの沽券に関わる」
*
当日の朝、ルーチェは店に残った。
連れて行きたくなかった。人が多いのもあるし、王宮というのは、この子にとっていちばん近づけたくない場所だ。
「わたしはるすばん、する」
ルーチェは、そう言って自分から台所に入っていった。ここのところ、この子は聞き分けがよすぎる。ルームで脚を伸ばして眠れるようになってから、少しだけ、大人になった気がした。
「早く帰ってくる」
「うん。……レイ」
「ん」
「むり、しないでね」
返事をする前に、ルーチェは台所の戸を閉めた。
*
貴族街の門を抜けると、音が減った。
二度目でも、同じだった。呼び込みも、屋台の匂いもない。石造りの建物が並んで、行き交うのは馬車と、書類を抱えた人ばかり。
隣を歩くマルタさんは、平然としていた。
「マルタさん、緊張しないんですか?」
「するに決まってるだろ。顔に出さないだけさ」
その顔は、いつもの顔だった。この人の平気は、たぶん、五十年かけて作ったものだ。
王宮は、官庁通りをさらに上った先にあった。門で名前を告げると、書状を検められて、それから中庭を通って、建物の脇の入口へ回された。
正面の階段は、上らせてもらえなかった。それでいいと思った。
*
通されたのは、思ったより小さな部屋だった。
卓がひとつ。椅子が何脚か。壁に、地図が一枚かかっている。豪華なものは何もない。仕事をするための部屋だった。
ヴェルナーさんが、先に来ていた。
「早いな」
「何かあるかもしれないので、早めに来ました」
「悪いことじゃない」
ヴェルナーさんは、いつもの顔で、いつもの声だった。この人はどこにいても同じらしい。それが少しだけ、心強かった。
やがて、扉が開いた。
入ってきたのは、白髪の年配の男の人と、その斜め後ろに立つ女の子だった。戸口には、もう一人、書類を抱えた官吏が残った。
白髪の男の人が、監察庁の長官だと名乗った。
そして、長官の斜め後ろに立つ、上品なドレスを着た女の子。
髪の結い方が違う。背筋の伸び方が、店に来るときとは別人だった。
目が合った。ほんの一瞬だった。
*
「まずは礼を言う」
長官は、そう切り出した。
「市中の薬草に混ぜ物があるという届け出は、以前から上がっていた。だが、我々はそれを、個々の商いの不始末として処理していた」
俺は、椅子に浅く腰かけたまま、膝の上で手を組んでいた。
「六十一件の届け出が四日で上がり、初めて荷の流れが見えた。結果として、王家御用達の集積所に手が届いた」
長官は、そこで一度、言葉を切った。
「陛下の御命に関わる件だ。監察庁として、また王家として、何らかの形で報いたい」
部屋が、静かになった。
俺は、膝の上の手を、少しだけ握った。
この十日、そういう話になるかもしれないとは思っていた。思っていたけれど、いざ言われると、喉の奥が詰まったみたいになった。
「——僕は、辞退します」
自分の声が、思ったより低く出た。
*
「理由を聞こうか?」
長官の声は、責める調子ではなかった。試す調子でもない。ただ、聞いていた。
「僕がやったのは、荷を検めて、混ぜ物を見つけたことだけです。それも、六度目は見逃しました」
言いながら、あの日のことを思い出した。異常なし、と言った二日後に、客が戻ってきた。
「六十一件を見つけたのは、僕じゃありません。王都中の薬屋の人たちです。紙を配ろうと言ったのは僕ですが、紙の書き方を教わったのは、この人からです」
俺は、隣のマルタさんを見た。
マルタさんは、まっすぐ前を向いたまま、何も言わなかった。
「五十年、記録を取ってきた人がいます。荷を追った人がいます。走った子がいます。路地を見ていた子たちがいます」
喉が渇いた。それでも、最後まで言うことにした。
「僕一人が何かをもらったら、その人たちがやったことが、なかったことになる気がします」
*
長官は、しばらく黙っていた。
それから、ヴェルナーさんの方を見た。ヴェルナーさんは、何も言わずに、少しだけ顎を引いた。
「そうか……よろしい」
長官は、そう言った。
「褒賞は、監察庁からギルドへ、届け出を出した店すべてに配分する形にしよう。その方が筋が通る」
俺は、頭を下げた。畳んだ膝が、少し震えていた。
「だが、それとは別だ」
長官は、続けた。
「王家が受けた恩を返さないというのは、王家の名に関わる。何か、望みはあるか。可能な限り叶えよう」
——来た。
この十日、考えないようにしていたことが、目の前に置かれた。
考えないようにしていた、というのは嘘だ。本当は、毎晩考えていた。考えるたびに、それは数えるべきじゃない、と自分に言い聞かせていた。
友達に頼めば、たぶん通る。あの子は、なんでも言って、と言った。
でも、それをやったら、俺はあの子の顔をまっすぐ見られなくなる。
だから、この場でなら、言っていいはずだった。
「……王立大書庫の、閲覧の許可を」
*
「大書庫?」
長官の眉が、わずかに動いた。
「奥の棚に、エルフ語の対照表があると聞きました。閲覧には王の許可がいると」
「よく知っているな」
「書庫の人に、断られたので」
部屋の隅で、小さく息を吸う音がした。
女の子の方は、見なかった。
「読みたいものがあります。僕の家族が持っていた紙で、一行だけ、どうしても読めない行があるんです」
長官は、ヴェルナーさんを見た。ヴェルナーさんは、また顎を引いた。
「……確かに、それなら可能だ」
長官は、そう言って、初めて少しだけ表情を崩した。
「陛下にお伝えする。おそらく通る。日取りは追って知らせよう」
*
部屋を出るとき、後ろから声がかかった。
「レイ」
振り向いた。
女の子が、長官の後ろから一歩だけ出て、こちらを見ていた。背筋が伸びていた。髪も、服も、店で見るのとは全部違った。
俺は、床に膝をつきかけて、やめた。作法を知らないから、下手にやると失礼になる。だから、深く頭を下げた。
「ヴィオラ様」
アーニャではなく、その名で呼ぶのは、正体を明かされた日以来だった。まして、様をつけて人前で呼ぶのは、これが初めてだった。
自分の声が、部屋の中で、やけに他人行儀に響いた。
顔を上げると、彼女は、ほんの少しだけ困ったような顔をしていた。それから、しっかりした声で言った。
「父に代わって、礼を言います」
「……もったいないお言葉です」
それだけだった。
俺は、もう一度頭を下げて、部屋を出た。
*
帰り道、マルタさんは何も聞かなかった。
貴族街の門を抜けて、音が戻ってきたところで、ようやく口を開いた。
「よく言ったね」
「……喉が渇きました」
「だろうね。あんた、途中で二回、唾を飲んでたよ」
見られていた。
通りの屋台で、マルタさんが果実の水を二つ買った。
「マルタさん。さっき、なんで何も言わなかったんですか?」
五十年の話をされたのに、この人は一言も口を挟まなかった。
「あたしが何か言ったら、あんたの言葉が薄くなるだろ」
マルタさんは、水を一口飲んだ。
「あそこは、あんたの場所だった。あたしが出ていく場所じゃない」
*
店に戻ると、ルーチェが飛び出してきた。
俺の顔を下から覗き込んで、それから、ふん、と息を吐いた。
「むり、してない」
「してないだろ?」
「うん。……よかった」
この子は、朝から、それを心配していたらしい。
ハンスが奥から出てきて、王宮どうだったと三回聞いた。三回目に、正面の階段は上らせてもらえなかったと答えたら、ものすごく残念そうな顔をした。
その夜、卓には匙が四本並んだ。
動いたのは、三本だった。
でも今日、俺はあの子に会った。そして、様をつけて呼んで、頭を下げた。公の場でそれが正しいことだというのは、分かっている。
分かっているけれど、あの部屋で、あの子は「ヴィオラ」だった。「アーニャ」ではなかった。
鞄の中の写しは、まだ読めないままだ。
読める日が、少し近づいた。近づいたぶんだけ、別のものが遠くなった気がした。
※2026/9/16 台詞を少し修正しました(内容の変更はありません)。




