狭い屋根裏と、あたたかい部屋
最初に気づいたのは、匙の音だった。
昼の賄いの席で、ルーチェが匙を落とした。
拾って、また落とした。
「ルーチェ」
「……おちた」
笑って言ったけれど、指先が、細かく震えていた。俺は自分の匙を置いて、その手を取った。
冷たい。
人の姿のときのルーチェは、いつも俺より少しだけ体温が高い。竜だからだと思っていた。その手が、今日は冷えている。
「手が震えるようになったのは、いつからだ」
「んと……」
「ルーチェ」
ルーチェは、口をもごもごさせて、それから、小さく言った。
「……にしゅうかん、まえくらい」
二日か三日、ではなくて、二週間だった。
*
その夜、屋根裏に上がってから、俺はもう一度聞いた。
「なんで言わなかった」
「レイ、いそがしいから」
即答だった。
言い訳でも、拗ねているのでもない。この子は本当に、そう判断して、黙っていたのだ。
「偽物のこと、あるでしょ。ヤンたちのことも、エミのことも。あと、ギルドのあつまりも」
「それは」
「わたし、しんでないから。あとでいいとおもった」
死んでないから、あとでいい。
その物差しをどこで覚えたのか、俺は知っている。橋の下だ。あそこの子たちは、そうやって順番を決めている。エミが熱を出すまで、誰も自分の腹の痛みを言わない。
いつのまにか、ルーチェまで、その数え方を覚えていた。
決めごとの二番目——疲れたら、我慢しないですぐ言う。あれを、この子は破ったつもりがないのだ。人混みの話だと思っていたらしい。決めごとの穴は、作った俺の穴だった。
「ルーチェ。戻ってみろ」
「……ここで?」
「ここで」
ルーチェは、少し困った顔をしてから、目を閉じた。
輪郭が、金色にほどける。
大きな犬ほどの竜が、床に現れた。現れて、すぐに困った。屋根裏は天井が斜めで、立てるのは部屋の真ん中だけだ。竜の背中は、あっさり梁につかえた。
丸くなろうとして、尻尾が壁に当たる。位置を変えて、また当たる。三度目でようやく収まって、それでも、前脚を伸ばしきれていなかった。
——せまい。
頭の中に、声が届いた。
——まいばん、ちょっとだけ、おもってた。
俺は、その丸まった金色を、しばらく見ていた。
王都に来て、三か月近い。人が多くて、外では戻れない。店でも宿でも、起きている間は人の姿を保ち続けた。竜に戻れるのは、この狭い屋根裏だけ。その屋根裏で、この子は毎晩、何も言わずに、体を折り曲げて眠っていた。
俺の目の前で。
二週間、気づかなかった。
*
「レイ、おこってる?」
人の姿に戻ったルーチェが、下から俺の顔を覗き込んだ。
「怒ってない」
「うそ。まゆ、ここ、なってる」
指で、俺の眉間をつつく。
「……自分にな」
俺は、床に座り込んだ。
昨日、ギルドの寄合で偉そうなことを言った。一人が見抜くだけじゃ足りない、王都中で同じ日に見抜けばいい、と。十二人の大人が指で葉を撫でるのを見て、少しいい気分になって帰ってきた。
その隣で、妹が二週間も、平気な顔をしていた。
人に見方を配る話をしながら、俺は自分の家の中を、ちゃんと見ていなかった。
「ルーチェ」
「ん」
「ちょっと、試したいことがある」
*
ディメンションルームを開いた。
中は、ミューレの門の前で作ったままだ。木の床、木の壁、低い梁、柔らかい灯り。真ん中に、小さな食卓と、椅子がふたつ。
壁に手を当てて、部屋をひと回り広くした。天井も、梁ごと高くする。
「ここで、戻ってみろ」
「……いいの?」
「広さは、この部屋より大きくした。ここなら、体を伸ばして寝られるはずだ。……それでも狭いなら、もっと大きくする」
ルーチェは、そっと中に入って、部屋の真ん中に立った。
目を閉じる。
金色にほどけて、竜が現れた。今度は、まっすぐ立てた。前脚も伸ばせた。尻尾の先までゆっくり伸ばして、それから、ぐるりと一周回って、床に長々と伏せた。
伏せたまま、動かなくなった。
「ルーチェ?」
——きもちいい。
声が、頭に届いた。
——ここ、あったかい。
ミューレの門の前で、同じことを言った。あのとき俺は、木の内装にしたからだと思っていた。石の部屋より、木の部屋の方が暖かく見える。それだけの話だと。
金色の竜は、床に伏せたまま、深く息を吸って、吐いた。
——からだが、いっぱいになる。
俺は、その言葉のところで、動きを止めた。
「……いっぱいに?」
——うん。まりょくが、たくさん、ながれこんでくるかんじ。
この部屋は、俺の魔力でできている。壁も、床も、梁も、灯りも、全部、俺が魔力を注いで形にしたものだ。作ったときに膝が笑うほど持っていかれた。作ったあとも、開いている間はずっと、少しずつ流れ続けている。
つまり、この部屋の中は。
俺の魔力で、満ちている。
そして、この子は。
「ルーチェ。お前、いつも俺から魔力をもらってるよな」
——うん。ずっと。
「……ずっと? 手を繋いでなくても?」
——うん。はなれてても、すこしずつくる。
「じゃあ、眠ると竜に戻るのは」
——ねると、へんかがほどけるから。まだ、うまくできない。
金色の目が、こっちを見た。当たり前でしょ、という顔だった。
俺は、天井を仰いだ。
外では、細い糸みたいに流れているだけらしい。この部屋では、糸をたどるまでもなく、体のどこからでも取り込める。「いっぱいになる」は、そういうことか。
毎晩、手を繋いで寝ていた。ミューレの宿で、ルーチェが「まりょくが、ながれてくるから」と言ったから。あのときは、ルーチェ自身も、人の姿に戻る理由をよく分かっていなかったらしい。
「……あの、手を繋ぐやつは」
——あれは、うれしいから。
あっさりしていた。
俺は、しばらく何も言えなかった。それから、笑ってしまった。腹の底から、久しぶりに。
*
その夜、俺はルームの中に、もうひとつ作った。
壁に手を当てて、思い描く。食卓の隣の床を低く盛り上げて、藁を厚く敷いたような、柔らかい寝床にする。人の姿でも竜の姿でも、どっちでも丸くなれる広さ。
魔力が、ごっそり持っていかれた。膝が笑って、壁に手をついた。ミューレのときと同じだ。俺は壁に背を預けて、息が整うのを待った。
「できた」
ルーチェが、竜の姿のまま、のそのそと寝床に上がった。藁に鼻先を突っ込んで、二度、三度と場所を確かめて、それから、ぐるりと丸くなった。
尻尾が、ちゃんと収まっていた。
——レイも、はいる?
「俺は外で寝る。二人とも中に入ったら、屋根裏に誰か来ても分からないからな。俺が外にいる」
——そっか。
少し寂しそうな声だったので、俺は付け足した。
「明日から、夜はここで竜に戻って寝ろ。毎晩だ。……これは、頼みじゃなくて、決めごとだ」
——きめごと?
「五つ目だ」
ルーチェは、丸まったまま、尻尾の先だけを、ぱたん、と一度振った。
*
部屋を閉じて、屋根裏の毛布に潜り込んだ。
天井が、いつもより低く見えた。三か月近く、この低さの下で、あの子は体を折っていたのだ。
目を閉じて、明日やることを数えた。
朝の荷を検める。エミの様子を聞く。ギルドに配る紙の写しを手伝う。
それから、と考えて、ひとつ足した。
——ルーチェの顔を、毎日ちゃんと見る。
当たり前のことだった。当たり前のことを決めごとにしないと忘れる程度には、俺はここのところ、外ばかり見ていたらしい。
窓の外で、城の灯りが光っていた。あの下では、まだ王が眠っている。偽物はまだ出回っていて、灰色の外套の男は、たぶんどこかにいる。
全部、まだ終わっていない。
それでも今夜、俺の妹は、脚を伸ばして眠っている。




