アシェンからの荷と、読めないままの一行
夏の終わりにオスカルさんへ手紙を出してから、二か月近くが過ぎた。
この二か月、細かい騒ぎはいくつもあったが、心配していた流行り熱が町に来ることはなかった。エミも、あれから一度も熱を出していない。
隊商が着いたのは、朝のうちだった。
クロイター通りの端に荷馬車が停まって、店という店から人が出てくる。マルタさんもエプロンのまま出ていって、荷の番号を読み上げる男と何か言い合っていた。値のことだと、声の調子で分かった。
俺とハンスは、店の分の木箱を三つ運んだ。乾いた根の匂いがする箱だ。
そのうちの一つは、蓋にオスカルさんの字があった。マルタさんが開けると、藁の間に、見覚えのある形の瓶が並んでいた。どの瓶の口にも、オスカルさんの店の封蝋が残っている。今年の特効薬だ。マルタさんは一本ずつ検めて、棚のいちばん取りやすい段に並べた。
「着いたね。……これで、備えができたね」
商会を通らず、封も切られずに、人の手から人の手へ来た薬だ。どこで採れて、誰が作ったのか、全部分かっている。これなら、途中で中身を替えられてはいない。
「レイ」
空いた箱を片付けていたら、マルタさんが呼んだ。手に、紐で束ねた紙の包みを持っている。
「あんた宛だ。ずいぶん厚いね」
受け取ると、確かに厚かった。指の腹に、封の蝋の凹凸が当たる。
包みの表に書かれた、見慣れた字を見て、俺は、荷運びの続きを忘れた。
*
昼の賄いを済ませて、屋根裏に上がった。
ハンスが「読まなくていいのかよ」と何度も言うので、逆に落ち着いて読めなかった。マルタさんが「賄いを食ってからにしな」と止めてくれた。あの人は、こういうところを間違えない。
窓の下に座って、封を切った。
中には、手紙が三通と、折り畳んだ紙の包みが一つ入っていた。
一通目は、几帳面な字だった。読む前から誰か分かる。行の頭が、定規を当てたように揃っている。
——写しは、届きました。
リーナの手紙は、そう始まっていた。
——三日、読もうとしましたが読めませんでした。
俺は、思わず笑った。三日と書くところが、この子らしい。読めなかったと一行で済ませずに、三日かけたことを先に書く。
——文字の形は、母が書いたものと同じように見えます。母が書いたのかは、分かりません。同じ決まりで書かれたものだと思います。ただ、対照表がなければ、意味はわかりません。今のわたしには、どうしてもわかりません。
——だから、そちらの司書の方が教えてくれた、半分だけ残っている対照表を、いつか見てください。半分でも解読して読みます。
半分でも解読して読む。
その一行を、俺は二度読んだ。この子は、七年前からずっとそういう考え方をする。全部が手に入らないなら諦める、という発想が、最初からない。
次の行で、指が止まった。
——「星辰の民」という言葉ですが。
——一度だけ、母がその言葉を使ったことがあります。母のことは、ほとんど覚えていません。これは、覚えている数少ないことの一つです。わたしがまだ小さくて、母が咳をしていた冬です。自分のことを、半分だけ星辰の民だ、と言いました。意味は聞けませんでした。聞いたら、母がその話をやめてしまう気がしたからです。
——ずっと忘れていました。あなたの手紙で、思い出しました。
窓の外で、荷馬車が動き出す音がした。
俺は、紙を持ったまま、しばらく動かなかった。
三百年前の本と、リーナの母の一言が、王都とアシェンで別々に眠っていた。それが、今、この屋根裏で並んだ。俺が手紙を書かなければ、並ばないままだった。
——内容が読めなくてもいいですから、いつか一度、読んでみたいです。いろいろ書いてくれて、ありがとう。また手紙を待っています。
手紙は、そう終わっていた。
*
二通目は、速い字だった。
——無理をしないこと。
書き出しが、それだった。
俺は、苦笑した。予想はしていたけれど、一行目に来るとは思わなかった。
——面倒なことに首を突っ込んでいます、と書いてよこす子が、詳しくは帰ってから話しますと続けるのは、卑怯です。こちらは、その一行を読んでから寝るまでの間、何回も読み返すんですよ。
アリア姉の手紙は、そこから三枚あった。
院長先生の様子や、冬に向けた薪の手配。それと、セルが森の採取で新しい群生地を見つけたことなど、孤児院の日常が書いてあった。
あちらは、問題はないようだった。
俺は、三枚をゆっくり読んだ。読みながら、あの食堂の音が、耳の奥で勝手に鳴った。
最後は、こうだった。
——どうしても無理をするなら、一人で考えてやろうとしないこと。せめて誰かと一緒にしなさい。それだけ守ってくれたら、あとはあなたの好きにしなさい。
俺は、紙を膝に置いた。
この人は、七年、俺のことをよく見ていたんだろうと思う。
*
三通目は、短かった。
院長先生の字は、大きくて、少し震えている。
——ここに帰ってくる日を、決めなくていいから、必ず無事に帰ってきなさい。
それだけだった。
便箋の下三分の二が、白いままだった。書こうとして、やめた跡だと思った。
*
最後は、封も宛名もない紙の包みだった。
開くと、小さな金具が一つ転がり出た。その下に、折り畳まれた図面がある。
線が細くて、寸法が細かく書き込んである。革帯の端を挟んで、片手で外せる留め具らしい。金具の幅は、俺の鞄の肩紐と同じだった。
説明は、一行もない。
図面を裏返した。何もない。もう一度表を見た。隅に、小さく焼き印のような印が押してある。籠の編み目だ。
「……あいつ」
俺は、誰もいない屋根裏で言った。
トーマは、七年前から一度も、俺に説明をしたことがない。籠を渡すときも、鞄を渡すときも、黙って差し出しただけだった。今度は、試作品と図面だけを寄越して、試せということらしい。せめて付け方くらい書け、と思う。思うのに、もう俺は、図面を追いながら金具を肩紐に当てていた。
*
夕方、賄いの片付けのあとで、ルーチェに全部読んで聞かせた。
ルーチェは、俺の膝に頭を載せて、目を閉じて聞いていた。眠っているのかと思ったら、アリア姉の手紙のところで、耳のあたりがぴくりと動いた。
「アリアねえ、おこってる」
「怒ってはいない、ただ心配している」
「でも、すきっておもった」
「……そうだな」
ルーチェは、少し考えてから、言った。
「わたしのこと、かいてない」
俺は、三通の手紙を並べ直して、探した。あった。アリア姉の三枚目の、隅の方に。
——ルーチェが人の姿でいる時間が延びていること、皆で喜びました。セルが「わたしの方が姉さんだからね」と言ってます。
「書いてある。セルが、自分の方が姉だって言ってるって」
ルーチェは、しばらく黙って、それから、ふん、と鼻から息を出した。
「わたしのほうが、うえ」
「竜の歳の数え方だと、そうかもな」
「そう」
ルーチェは、そういうところだけは、絶対に譲らない。
*
夜、灯りを消してから、天井を見ていた。
対照表は、王立大書庫の奥にある。半分だけ残っている。閲覧には、王の許可が要る。
その王は、今、眠っている。
目が覚めれば、許可を願い出る道はある。ヴィオラに頼めば、たぶん、通る。あの子は「なんでも言って」と言った。あれは本気だった。
——そこまで考えて、俺は、毛布を引き上げた。
王が目を覚ましたら、俺の用が済む。
そういう順番で考えた自分が、嫌だった。
王が目を覚ますのは、まず、ヴィオラの父親が帰ってくるということだ。そうすれば、アーニャもまた、この食卓に来られるはず。
自分の用を数えるのは、そのあとでいい。
目を閉じた。
リーナの字が、まぶたの裏に残っていた。
半分でも解読して読む。
今は、急がなくていいと思った。あれを読める日は、たぶん来る。今日だけでも、いろいろ進んだのだから。




