熱の下がった朝と、届かない薬
朝日が出る前に、店の裏口を開けた。
ハンスは、もう路地で待っていた。水筒を三本、紐で束ねて肩から下げている。余分に持ってこいと言ったら、本当に余分に持ってきていた。
「早いな」
「寝れなかった」
それだけ言って、ハンスは歩き出した。俺も並んだ。
まだ薄暗い通りは、昼とは別の町みたいに静かで、パン屋の窓だけが明るかった。生地をこねる音がしていた。この時間から仕込みをしないと、朝の客に間に合わないのだ。
橋が見えてきたところで、ハンスの足が少しだけ速くなった。俺も、同じだけ速くなった。
*
橋の下に降りると、最初に見えたのは、ヤンの背中だった。
エミの横に座って、丸くなっている。眠っているのかと思ったが、俺たちの足音で顔を上げた。目が赤かった。
「よお」
「起きてたのか?」
「布、替えてた」
水を張った桶の横に、固くねじれた布が積んであった。何度も絞り直した跡が、深い皺になって残っている。一晩中、この暗さの中で、この子は同じことを繰り返していたのだ。
俺は膝をついて、エミの額に手の甲を当てた。
まだ温かい。でも、昨日の昼の、触れた瞬間に手を離したくなる熱さじゃない。
「下がってる」
ヤンが、瞬きをした。
「ほんとか?」
「昨日よりは、下がってる。……エミ」
名前を呼ぶと、まぶたが動いた。薄く目が開いて、俺とヤンを順番に見て、それから小さく口を動かした。
「……のど、かわいた」
ハンスが、水筒を落としそうになりながら差し出した。
*
筒から水を少し飲んで、エミはまた眠った。今度は、息の音が穏やかだった。
少なくとも、ゆうべより悪くはなっていない。流行り熱ではないと決まったわけじゃないが、水が飲めて、息も穏やかになった。今は、それで十分だ。
そう言うと、ヤンは何も言わずに、川の方を向いた。肩が一度だけ大きく上下して、それきり動かなかったので、俺は見ないふりをした。
ハンスは、ミアたち四人に水筒を配っていた。トビアスとルディが取り合いになりかけて、ヤンが二人の頭を軽く叩いた。いちばん小さいフィンが、ハンスの持ってきたパンを両手で受け取って、匂いを嗅いでから、少しずつかじり始めた。
橋の下に、噛む音がした。
六人ぶんの、生きている音だった。
*
帰る前に、ヤンが立ち上がって、俺の前に来た。
布の袋を握っている。中で、硬い音がした。
「これ」
「なんだ」
「薬代」
袋の口が開いていて、銀貨の縁が見えた。銀貨一枚と、銅貨が十枚くらい。この子が、道案内と使い走りを何十回も重ねて貯めた、全部だ。
俺は、袋を押し返さなかった。押し返すのは簡単だが、それは施しになる。
「熱冷ましが、銅貨四枚」
俺は、指を四本立てた。
「布と水筒は貸しただけだから、返してくれればいい。パンはハンスの持ち出しだから、あいつに言え」
「……四枚?」
「四枚だ。うちの店で売ってる値段だよ。ヤンだから安くしたわけでも、高くしたわけでもない」
ヤンは、袋の中を覗き込んで、銅貨を四枚、慎重に数えた。数え終わってから、もう一度数えた。
二回数えるのは、金を持ち慣れていないからじゃない。たぶん、金の重さを知っているからだ。
「ほらよ」
「毎度」
俺が受け取ると、ヤンは変な顔をした。
「あんた、変わってんな」
「よく言われる」
「銀貨、全部持ってくと思ってた」
「そんな店から薬を買うな」
ヤンは、鼻を鳴らした。この子の笑い方だ。昨日から、初めて聞いた。
*
帰り道、ハンスはずっと黙っていた。
通りに人が出はじめていて、朝の匂いと音がしていた。焼けたパンと、井戸の水と、荷車の車輪。橋の下とは、たった十分歩いただけの場所だ。
「レイ」
「ん」
「今回は、下がったな」
「下がった」
「……次は、どうなんだろうな」
俺は、答えられなかった。
答えは、分かっていたからだ。次が流行り熱だったら、熱冷ましでは足りない。特効薬が要る。その薬は、今この町では値が上がっていて、下町の店には回ってこない。
今回は、たまたま、その薬が要らない病だった。それだけのことだった。
「ハンス」
「ん」
「銅貨四枚で足りる病でよかった、って思ってる俺は、たぶんずるいな」
ハンスは、少し歩いてから言った。
「おれもだよ」
それから、二人とも黙って歩いた。悪い黙り方じゃなかった。
*
昼過ぎ、店の仕事が一段落したところで、マルタさんに切り出した。
「オスカルさんに、手紙を出したいんです」
マルタさんは、帳面をつける手を止めなかった。
「あの堅物にかい?」
「はい。アシェンなら、月白アズリルが採れます。今年の分の特効薬を作って、この店に送ってもらえないか、聞いてみたいんです」
帳面の手が、止まった。
「商会を通さない仕入れか?」
マルタさんは、少しのあいだ何かを数えるように黙って、それから頷いた。
「いいだろう。手紙は店の名前で出しな。金も店が払う。届いたら棚に並べて、値はあたしが決める。……吊り上げない値でね」
「はい」
「言っとくけど、これは商売だよ」
マルタさんは、分銅を箱に戻しながら付け足した。
「あんたの伝手に、借りが一つできた。そういう勘定だ」
損得の言葉で喋って、動くのは情。この人の読み方は、もう覚えた。
*
その夜、屋根裏で、俺はアイテムボックスを開いた。
中には、旅の道具と、作り置きの残りと、アシェンから持ってきた乾いた薬草が少し入っている。七年かけて広げた、俺の容れ物だ。荷車ごと呑み込める。時間も止まる。
便利なはずだった。
なのに昨夜、この中には、エミに要るかもしれなかった薬が、一本もなかった。
必要な薬があるのは、アシェンの棚だ。オスカルさんの店の、上から二段目。去年の特効薬が、たぶんまだ何本か残っている。目を閉じれば、棚の木目まで思い出せる。
思い出せるのに、届かない。
馬で四日。隊商の荷なら三週間。人目を避ける決めごとを破り、昼も飛び続ければ、一日もかからない。けれど、そうすれば金色が空に出る。
手紙は、夕方の便に載せた。オスカルさんがそれを読んで、今年の分を作り、次の隊商に載せて、この店の棚に並ぶまで——早くても、ひと月半。たぶん、二か月はかかる。
次が、その前に来たら。
俺は、開いたままの箱の口を、しばらく見ていた。
前にも、同じことを考えた。手紙を出した日、ここからアシェンの箱へ直接入れられたら、と。
あのとき届かなかったのは、紙だった。今日は、薬だ。
開いた口を見つめても、向こうの棚までの距離は縮まらなかった。
毛布の中から、ルーチェが顔を出した。
「レイ、ねないの?」
「寝る。……なあ、ルーチェ」
「ん」
「ゆうべ、飛ばなくてよかったな」
ルーチェは、少し考えてから頷いた。
「うん。あのこ、おきたもん」
「おきたな」
「でも」
ルーチェは、毛布を顎まで引き上げて、金色の目だけをこっちに向けた。
「つぎ、おきなかったら、レイはとぶよ」
俺は、返事をしなかった。
ルーチェは、俺が言わずに済ませようとしたことを、平気で先に言う。
箱を閉じて、灯りを消した。目を閉じる前に、明日やることを数えた。エミの様子を見に行く。布と水筒を返してもらう。マルタさんに報告する。それから、朝の荷を検める。
数えているうちに、眠っていた。
※2026/9/15 台詞を少し修正しました(内容の変更はありません)。




