橋の下の六人と、足りない薬
ミアが店に来たのは、昼の賄いの片付けをしている最中だった。
息を切らして、戸口に立っていた。走ってきたのが、一目で分かった。
「にいちゃん」
「どうした」
「エミが、あつい」
俺は、布巾を置いた。
「熱か?」
「うん。きのうから。……きょう、おきあがれない」
ミアの声は落ち着いていたが、指先が服の裾を握りしめていた。この子は、慌てているときほど淡々と喋る。
「マルタさん」
言いかけたら、もうカウンターから出てきていた。
「行きな」
「はい」
「熱冷ましと、汗を拭く布。あと、水を飲ませる筒。……ハンス、荷を作りな」
ハンスは、返事もせずに奥へ走った。
*
橋の下は、前に来たときより、寒かった。
夏は終わりかけていて、川からの風が石畳を撫でていく。ここは日が入らない。昼でも、壁の下の影が濃い。
五人が、奥にかたまっていた。
「連れてきた」
ミアが言うと、ヤンが立ち上がった。
「早えな」
「走ったからな」
寝かされていたのは、小さい女の子だった。ミアより、もう少し小さい。麻袋を重ねた上に、ぼろの毛布をかけられて、荒い息をしている。
「エミ」
ヤンが呼ぶと、エミのまぶたがわずかに動いた。返事をする力はないらしい。
俺は膝をついて、額に手を当てた。
熱い。ニナのときと同じくらい熱い。
鑑定もかけた。——※鑑定Lv不足のため詳細不明。人の体の中は、俺のレベルではまだ読めない。だから、手で測る。
「いつからだ」
「一昨日の夜、寒いって言い出した。昨日は起きてた。今朝から、これだ」
「水は」
「飲ませてる。でも、半分は吐く」
俺は、荷から布を出して、川の水で絞った。冷たい布を額に載せると、エミの眉が少しだけ動いた。
「他の子は」
ヤンが、後ろの三人を顎で示した。
「今んとこ、平気だ。……こいつがトビアス、あそこの背の高いのがルディ。ちっこいのがフィン」
名前を、初めて聞いた。
これで、橋の下の六人全員の名前を知った。
「覚えた」
俺がそう言うと、ヤンは少し変な顔をした。
「別に覚えなくていい」
「覚える」
俺は、繰り返した。
名前を覚えるのに、理由はいらない。うちの家では、そういうものだった。
*
熱冷ましを飲ませた。
オスカルさんの店で何度も見た薬だ。うちの工房で乾かした草も入っている。効く薬だ。ただし、これは熱を下げるだけで、病そのものを治すわけじゃない。
効くのを待つあいだ、俺は考えていた。
もし、これが去年の流行り熱と同じものだったら。
あの病は、前世の記憶にある病とよく似ていた。急に高い熱が出て、寒気がきて、子供と年寄りに重い。冬が来るたび、毎年流行った——インフルエンザ。薬も医者も揃っていたあの世界でさえ、毎年、人が死んでいた。
ニナのときは、月白アズリルの特効薬が要った。あれがなければ、ニナは死んでいた。俺は森の最奥まで採りに行って、ルーチェに乗って帰ってきた。
ここは王都だ。あの草の生える森は、近くにない。
アイテムボックスの中にも、ない。旅に出る前、オスカルさんの店の棚には去年の特効薬が三本だけ残っていた。持っていくかと聞かれて、俺は置いてきた。孤児院にはまだ小さい子たちがいる。あの三本は、孤児院の分だ。
正しい判断だったと思う。今も、そう思う。思うのに、胸がざわついた。
薬屋はある。でも今、王都の薬は値が上がって、質が落ちている。偽物が混ざっている。よりによって、今なのだ。
「なあ」
ヤンが、隣に座った。
「これ、治るのか?」
「分からない」
俺は、正直に言った。
「ただの風邪なら、熱冷ましが効いて、水も少しずつ飲めるようになる。流行り熱かどうかは、明日まで分からない。……熱冷ましと布は置いていく。水はひと口ずつだ。呼んでも目を開けなくなったら、夜でも店に来い」
「待つしかないのか?」
「ああ、待つしかない」
それから、俺は付け足した。
「エミに触ったら、手を洗え。飯の前もだ。……うつる病なら、手と咳からうつる。前に、そういう病を見たことがある」
ヤンは、少し変な顔をしたが、頷いた。
そのまま、膝を抱えて、川を見た。
「あのさ。おれ、金はあるんだ」
「え」
「あんたが払った銅貨二枚と、この前の駄賃。あと、貯めてるやつ。全部で銀貨一枚と、銅貨が十枚くらいある」
路地の子が、銀貨一枚。それがどれだけの労働なのか、俺は知っている。
「これで、足りるか?」
「……薬の値による」
俺は、そう答えるしかなかった。
三年前の流行り熱のとき、ハンスの家は薬に手が届かなかった。母親が二日間、金を借りて走り回った。三日目に金ができたときには、薬はもう売り切れていた。
値が上がるというのは、そういうことだ。
*
夕方、店に戻った。
マルタさんに、見てきたことを全部話した。熱の高さ、息の速さ、水を吐くこと、他の五人は無事なこと。
マルタさんは、聞きながら帳面を開いて、何かを書いていた。
「流行り熱の初期に似てるね」
「はい」
「ただ、今年はまだ町で流行ってない。一人だけなら、ただの風邪の重いやつかもしれない」
マルタさんは、帳面を閉じた。
「明日の朝、熱が下がってたら風邪だ。下がってなけりゃ、流行り熱を疑って、そのときに考えな。……夜に来たら、あたしが起きるよ」
「特効薬は」
「うちには、ない」
あっさりした答えだった。
「去年の分は、春に全部出た。今年の分は、まだ王都に入ってきてない。……入ってきても、たぶん、うちには回ってこないよ」
「なぜですか?」
「値が上がってるからさ」
マルタさんは、カウンターの椅子に座り直した。
「高い薬は、高く買える店に流れる。貴族街の薬屋か、施療院の上のほうか。……うちみたいな下町の店は、後回しだ」
「材料から、作れませんか?」
「月白アズリルが要る。あれは、王都の近くの森にゃ生えない。市場にも出ないよ。……出るくらいなら、特効薬が一本銀貨三十枚なんて値になってないさ。去年までは、十枚で買えたんだ」
銀貨三十枚。ヤンの貯めた銀貨一枚が、頭をよぎった。
俺は、拳を握った。
「それは、おかしいです」
「おかしいさ」
マルタさんは、即座に言った。
「おかしいけど、それが値ってもんだ。欲しがる奴が増えて、品が減れば、値は上がる。あたし一人が怒鳴っても、下がりゃしない」
それから、少しだけ声を落とした。
「だから、あんたが監察庁に持っていったんだろう」
俺は、顔を上げた。
「偽物を作るために、本物を抜いてる。偽物の流れを止めれば、抜かれていた本物が、本来の荷に残る。本物が店に回れば、値も下がる。……時間はかかるよ。でも、あれは、そういう仕事だ」
その言い方が、あんまり静かだったので、俺はしばらく何も言えなかった。
三十束を一つずつ持つこと。日付と荷札を書き留めること。それが、橋の下の子の熱と繋がっている。
繋がるまでに、どれだけ時間がかかるのかは、分からないけれど。
時間なら、エミにはない。俺は、聞いてみた。
「特効薬なら、アシェンにはあります。オスカルさんの店に、去年の分が。……群生地も、俺は知っています」
「アシェンかい。馬で四日だ。隊商の荷なら三週間。……薬が着くより先に、明日の朝が来るよ」
*
その夜、ハンスが屋根裏に上がってきた。
珍しいことだった。この階段は、俺とルーチェの部屋に続いている。足音がした時点で、毛布の膨らみは奥の暗がりに寄って、小さくなっていた。ルーチェは、こういうときの隠れ方を心得ている。
「レイ」
「ん」
「明日、おれも行く」
ハンスは、階段の途中に立ったまま言った。
「橋の下」
「……いいのか?」
「よくねえけど、行く」
ハンスは、袖で鼻をこすった。
「おれ、三年前のこと、何もできなかったんだ。母ちゃんが走り回ってるの、見てただけでさ。九つだったし、何もできなかったんだけど、……何もできなかった」
二回言った。
二回言わなきゃいけないことだったんだと思う。
「じゃあ、水筒を余分に持ってこい」
「わかった」
ハンスは、それだけ言って、階段を降りていった。
*
毛布の中で、ルーチェが小さく言った。
「レイ。あのこ、しぬ?」
「分からない」
「……ニナのときも、そうだった」
ルーチェは、覚えていた。あの雨の夜のことを。
「あのときは、レイが、とんだ」
「うん」
「きょうは、とばないの?」
俺は、天井を見た。
人目を避ける決めごとを破って、昼のあいだ飛び続ければ、アシェンまで一日もかからない。オスカルさんの店には、たぶん去年の特効薬がまだ残っている。月白アズリルの群生地も、俺は知っている。
でも。
「飛んだら、王都中に金色の竜が見える」
貼り紙を思い出した。金色の飛行体を見た者は。確かな情報には銀貨一枚。
「見えたら、ルーチェが狙われる」
「わたしは、へいきだよ」
「俺が平気じゃない」
ルーチェは、しばらく黙った。
それから、毛布の中で、俺の袖をつかんだ。
「……レイは、だれかがこまってると、ぜんぶ、じぶんでなんとかしようとする」
「そうか」
「そう」
うちの姫様は、時々、大人より正確に人を見る。
俺は、袖をつかまれたまま、考えていた。
できないことは、はっきりしている。今すぐ飛ぶことはできない。特効薬は手元にない。
できることは、明日の朝、熱を測りに行くこと。水を飲ませること。ハンスと二人で、布を替え続けること。
それだけだ。
七年前も、それだけだった。角ウサギを一羽ずつ運んで、薬草を一束ずつ売って、そうやって食卓を温かくした。急に全部を変える方法は、あのときも知らなかった。
目を閉じる。
明日の朝、熱が下がっていますように。
誰に祈っているのかは、自分でも分からなかった。竈の神様でも、癒しの神様でも、誰でもいい。
この世界の神様に、俺は今日まで一度も祈ったことがなかった。
※2026/9/15 台詞を少し修正しました(内容の変更はありません)。




