裏階段で聞いた話と、月に一度の手紙
尾けられた日から四日後、灰色の外套の男は姿を見せなくなった。
代わりに、店の前の通りを、監察庁の巡邏が一日に二度、通るようになった。偶然のはずがない。立っているだけの男は、捕まえられない。だからヴェルナーさんは、こちらも見ていると相手に分からせたのだ。
マルタさんは、それについて何も言わなかった。ただ、閂を掛ける時間が、少しだけ遅くなった。
王宮の話は、アーニャが来るたびに、少しずつ届いた。
侍医が替わって、薬の調合を監察庁の薬師が検めるようになった。それでも王は目を覚まさない。眠らされていたのなら、薬を止めれば覚めるはずだ、と俺は思っていた。でも、そう簡単ではないらしい。
「体が、薬を覚えてしまっているそうよ」
アーニャは、そう言った。
「一度きりじゃなかったの。……去年の暮れから、少しずつ混ぜられていたって。だから去年は、飲んでも起きられたのよ。眠りが深いだけだと、みんな思っていたの」
少しずつ盛って、体を慣らして、最後に量を増やす。
そういうやり方があると聞いて、俺は、三十束の中に四束ずつ混ぜられていた偽物を思い出した。丁寧な仕事だ。丁寧なぶんだけ、たちが悪い。
「今は、新しい薬師が別の薬で体を支えながら、混ぜられていた草の量を少しずつ減らしているの。長く飲まされたものは、急に断つと、それはそれで体に障るそうよ」
「時間がかかるのか?」
「ええ。……でも、飲ませる量は、確かに減っているの」
その言い方が、この子の強がりなのか、本当の希望なのか、俺には分からなかった。
ただ、こけていた頬には、少しだけ丸みが戻っていた。それは、本当だった。
*
その日の昼、賄いのあとで、俺は裏階段に座っていた。
台所の窓越しに、ルーチェとアーニャが並んで皿を洗っているのが見える。ルーチェが泡を飛ばして、アーニャが小さく笑って、マルタさんが「水をこぼすんじゃないよ」と怒鳴った。
王女が皿を洗っている。誰も、そのことを不思議に思っていない。
「なあ」
隣に、ハンスが座った。手にパンの残りを持っている。俺たちがこの階段で並んで食ったのは、王都に来て三日目のことだった。
「なんだ」
「聞いていいか?」
珍しく、前置きがあった。
「聞いてから、聞いていいかって聞くやつが多いけどな」
「うるせえな」
ハンスは、パンを一口かじって、それから言った。
「おまえ、親、いんの?」
窓の向こうで、水の音がしている。
「いない」
俺は、そのまま答えた。
「二人とも?」
「二人とも。顔も知らない」
「……そっか」
ハンスは、それ以上何も聞かなかった。
しばらく、パンを食う音だけがした。
「じゃあ、誰に育てられたんだよ」
「孤児院の院長先生。あと、アリア姉。……アリア姉は姉さんっていうか、みんなの母親みたいなもんだ」
「へえ」
「あと、十四人」
「多いな」
「多い」
俺は、思い出して、少し笑った。
「食卓が、うるさかった。誰かが必ずこぼして、必ずアリア姉が怒る。毎日だ。それが十六人分、七年続いた」
ハンスは、パンの最後の一口を飲み込んで、膝を抱えた。
「うちは、二人だ」
「え」
「おれと、母ちゃん」
そう言ってから、ハンスは、階段の下の砂利を、爪先で転がした。
「父ちゃんは、三年前に死んだ」
俺は、息を止めた。
「熱の出る流行り病でさ。あの年、下町で人がだいぶ死んだんだ。……薬はあったんだよ。薬屋の棚にはあった。でも、値が上がってて、うちには手が届かなかった」
砂利が、かちんと鳴った。
「二日、母ちゃんが金を借りに走り回った。三日目に金ができて、薬屋に行ったら、もう売り切れてた。買えた家と、買えなかった家があった。それだけの違いだった」
俺は、何も言えなかった。
言えることは、たぶんなかった。
「マルタさんが、そのあと来てさ」
ハンスは、少し顔を上げた。
「うちに来て、母ちゃんに『倅を寄越しな』って言ったんだ。おれ、まだ九つだったのに。……で、そのまま店で働いてる」
「マルタさんは、なんて」
「『薬屋の店先で育った子供は、薬の値段を覚える。覚えた子は、大人になったときに、値を吊り上げない』」
ハンスは、鼻を鳴らして笑った。ヤンとは違う笑い方だった。
「意味わかんねえだろ。九つのおれには、全然わかんなかった」
「……今は」
「今は、ちょっとだけわかる」
ハンスは、立ち上がって、ズボンの尻を払った。
「だからさ。おれ、偽物が入ってきたとき、めちゃくちゃ腹が立ったんだ。あんとき、おまえが見つけたやつ」
最初に見つけたのは俺だった。でも、いちばん怒っていたのはハンスだった。あのとき、俺はそれを、負けん気の強さだと思っていた。
違った。
「あれ飲むのはさ、うちの母ちゃんみたいな人なんだよ。なんとか金を集めて、やっと買う人なんだ」
ハンスは、それだけ言って、店の中に戻っていった。
俺は、階段に座ったまま、しばらく動けなかった。
マルタさんが「怖いから、記録を取るんだ」と言った意味が、いま、もう一段深いところで分かった。
この店では、薬が棚にあるだけでは人を救えないことを、誰も忘れていない。
*
その夜、屋根裏で、俺は紙を広げた。
月に一度の手紙。アリア姉との約束だ。書かないのは許さない、と念を押されている。
王都に来て、これで二通目になる。
書くことは、いくらでもあった。マルタさんの店のこと。ハンスのこと。ルーチェが皿洗いを覚えたこと。路地の子たちのこと。大書庫で見つけた一行のこと。
詳しく書けないことも、あった。
偽物の薬草のこと。監察庁に証拠を渡したこと。灰色の外套の男のこと。四本目の椅子に座っている子が誰なのか。
筆を持ったまま、俺は長いこと考えた。
嘘は書きたくない。でも、書けば心配する。王都からアシェンまで、手紙でも早くて三週間。心配したところで、あの人たちには何もできない。できないのに、心配だけさせるのは、卑怯な気がした。
結局、俺はこう書いた。
——王都は、思ったより人が多くて、思ったより飯がうまいです。
——店の人はいい人で、同い年の相棒ができました。ルーチェは皿洗いが上手になりました。
——少し、面倒なことに首を突っ込んでいます。でも、一人じゃないし、危険はないようにします。詳しくは帰ってから話します。
三行目を書いたところで、手が止まった。
これは、心配させる書き方だ。
でも、消さなかった。
アリア姉は、たぶんこの三行目を読んで、しばらく紙を睨むと思う。それから、たぶん怒る。「無理をするな」と書いた返事が来る。
それでいい、と思った。
全部隠すのは、あの食卓で育った子供のやり方じゃない。
七年前の夜のことを思い出した。竜のことも、前世のことも、みんなの前で全部話した夜だ。あの日から、話せることまで黙っておくのはやめた。
だから、三行目は残す。
最後に、もう一行だけ足した。
——十二歳になりました。
誰にも言わないまま過ぎた日のことだった。祝ってほしかったわけじゃない。ただ、報告する相手がいるということを、書きながら思い出しただけだ。
「レイ」
毛布の中から、ルーチェが言った。
「てがみ、なんてかいた?」
「王都の飯はうまいって」
「ほんとう?」
「ほんとうだ」
「じゃあ、わたしのぶんも、かいて」
ルーチェは、毛布から顔を出した。
「おさらを、いちどもわらないひが、あったって」
「二枚割ったろ」
「きのうは、わってない」
ルーチェは、報告の仕方を心得ている。
俺は、さらに一行足した。
——ルーチェが、昨日は皿を一枚も割りませんでした。本人からの伝言です。
*
翌朝、手紙を出しに行った。
王都の郵便は、南門近くの宿場から出る。アシェンまで、早くて三週間。返事が戻るのは、二か月近く先になる。
窓口で銀貨を払いながら、俺は、ふと思った。
三週間。
この紙が、三週間かけて、あの食卓に届く。
もし、ここから、アシェンの箱へ直接入れられたら。
箱の中と、箱の中が、繋がっていたら。
——馬鹿な考えだ、と思った。荷を運ぶには馬がいる。手紙を運ぶには人がいる。それがこの世界の決まりだ。
でも、俺のスキルは、地面ごと物を収納できる。
入れる場所と、出す場所が、もし別々にできたら。
窓口の役人が「次の方」と言った。
俺は、まだそこに立っていた。
「……にいちゃん、どいて」
後ろに並んでいたのは、ミアだった。代筆屋の使いで、誰かの手紙を出しに来たらしい。紙を一枚、大事そうに抱えている。
「悪い」
俺は、場所を空けた。
その考えは、頭の隅に置いておくことにした。今は、目の前に片付けることがある。
でも、今考えたことは、覚えておいた。
※2026/9/14 台詞を少し修正しました(内容の変更はありません)。




