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静けさを聞く骨董店  作者: 秋乃 よなが


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第十六話 金の指輪 ―円の冷たさ―

 

 十一月の風は、肌を刺すように澄んでいた。

 朝の空気は白く、吐く息が細く伸びる。

 格子窓の外では、屋根瓦の上にかすかな霜が積りはじめていた。


 棚の奥を拭いていると、指先に固いものが触れた。

 カラン、と小さく転がる音。

 床に落ちたそれを拾い上げると、金の指輪だった。


 細く繊細な輪。

 ところどころ擦れて艶を失っているが、どこか気品があった。

 内側には、小さな文字が刻まれている。

 しかし、すり減っていてはっきり読めない。


 光にかざす。

 金属の表面に光が走り、店の奥がわずかに金色に染まる。

 その瞬間、左手の薬指にひやりとした感触が走った。

 まるで、冷たい空気が指先の奥まで流れ込んでいくようだった。


 帳簿を開き、筆を取る。


 ――十一月五日 金の指輪。


 書き終えたとき、指輪がまたカランと鳴った。

 ただの金属音なのに、不思議と『返事』のように思えた。


 夜。ろうそくの火を灯すと、影が静かに壁に伸びた。

 窓の外では風が低く鳴り、軒の竹がかすかに揺れている。


 机の上に指輪を置く。

 冷たい光が、まるで呼吸をしているように明滅する。

 炎が揺れるたび、指輪の内側に淡い影が宿る。

 覗き込むと、そこに『もう一つの世界』が映っていた。


 《……必ず、帰るよ》


 声がした。

 若い男性の声。優しく、それでいて確信を帯びた調子だった。


 《待っています。指輪が冷えないうちは》


 今度は女性の声。

 囁くように、どこか震えている。

 その声に重なるように、指輪の内側の影が少し揺れた。

 まるで、二つの指が触れ合おうとして離れた瞬間のように。


 炎が強くなり、光が円を描く。

 その円の中で、二人の影が並んで立っている。

 軍服の裾と、白いワンピースの裾。

 風が吹き、裾が交差する。

 手が伸びる。

 でも、触れる前に光が滲んだ。


 《あの朝、約束したんだ。

 帰ったら、もう一度この指輪をはめるって》


 男性の声が、少しだけ遠くなった。

 光の奥で、波の音のようなざわめきが聞こえた。


 《でも、あの海は帰り道を飲み込んだ。

 残ったのは、この指輪だけだった》


 女性の声が続く。

 それは悲しみというよりも、静かな祈りのようだった。


 《この冷たさが消えるとき、きっと、あなたの手が戻ってくると思ってた》


 私は思わず、左手の薬指に触れた。

 皮膚が冷たく、痺れるように痛い。

 まるで、そこに見えない輪がはまっているようだった。


 指輪の中で、光がまた円を描いた。

 今度はそれが、ゆっくりと脈打つように明滅している。


 《愛は、終わったんじゃない。

 形を残すために、冷たくなったんだ》


 男性の声が、炎の奥で静かに響いた。

 言葉とともに、ろうそくの火が一度だけ強く揺れる。


 その光に照らされて、金の指輪が淡く輝いた。

 冷たいのに、どこか温かく見えた。


 《君が待っている限り、僕は、どこまでも帰り続ける》


 光が消え、音が止んだ。

 残ったのは、机の上に置かれた指輪と、指先に沈む冷たさだけだった。


 帳簿を開く。筆先が震えている。

 インクではなく、冷気が紙の上を走ったように感じた。


 ――今夜の声、静か。環、冷光に似る。


 書いた瞬間、紙が冷たくなった。

 筆を置くと、息が白くなった。

 その白さが、炎に溶けるまで、私は動けなかった。


 ◇◇◇


 夜が明けた。

 格子窓を開けると、光が淡く差し込んだ。

 外は静かで、空気は張りつめている。

 屋根の端に、霜が薄く光っていた。


 机の上に、昨日の指輪がある。

 光を受けて、ほんのりと輝いている。

 しかし、触れるとまだ冷たい。

 指先から手のひらまで、その冷えがゆっくりと広がる。


 左手を見る。

 薬指の根元に、薄い跡があった。

 輪郭のように、皮膚の色がわずかに違って見える。

 まるで、夜の間だけ『指輪をしていた』かのように。


 帳簿を開くと、昨夜書いた文字の上に、薄い円形の痕が残っていた。

 墨でも汚れでもない。

 紙の繊維が、光を受けて輪を描いている。


 私は筆を取り、静かに書く。


 ――静けさとは、形を失った約束の残響。


 書き終えた瞬間、外の風が格子を通り抜けた。

 紙の端がふわりと揺れ、指輪が小さく鳴る。


 チン、と。


 短い金属音。

 それがまるで、遠くで誰かが笑ったように聞こえた。


 私は顔を上げる。

 光が差し込み、部屋の中の空気が淡く金色に染まる。

 その色は冷たいのに、どこか懐かしかった。


 左手の指先に、まだ冷えが残っている。

 けれどその冷たさが、不思議と心地良かった。


 私は指輪を見つめながら、そっと息を吐いた。


 ――この冷たさが、完全に消える日は来るのだろうか。


 そう思いながら、帳簿を閉じた。

 静けさの中で、金の輪がかすかに光った。

 それは果たされなかった約束のように、形だけを残して、静かにそこにあった。


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