第十七話 革靴 ―泥の呼吸―
十一月の雨は、静かに地面を叩いていた。
夜のうちに降った雨が止み、朝の空気にはまだ濡れた匂いが残っている。
空気の底で、まだ見えない水の粒が、かすかに音を立てている気がした。
格子窓を開けると、道の端に溜まった水が、薄い光を反射していた。
遠くで車輪が水を跳ねる音がする。
けれどその店の中には、いつものように静けさしかなかった。
棚の下を掃いていると、先に何か硬いものに当たった。
引き出してみると、黒い革靴が一足、並んでいた。
片方の踵は擦り減り、つま先には小さな傷がいくつもついている。
それでも形は崩れていない。
長い間、丁寧に磨かれていたことが分かる艶だった。
手に取ると、思いのほか重かった。
中から湿った空気がゆっくりと漏れ、かすかな泥の匂いが立ちのぼる。
革の表面は冷たく、指先が触れるたび、雨上がりの地面に手を置いたような感覚がした。
帳簿を開き、筆を取る。
――十一月十四日 靴。
文字を記した瞬間、革がわずかに鳴った。
小さな軋みの音。
それは、歩き出す前の息遣いのように聞こえた。
夜。雨がまた降り出した。
屋根を打つ音が、ろうそくの炎に合わせて、一定のリズムを刻む。
机の上には、昼間の靴が置かれている。
濡れてもいないのに、黒が深くなっているように見えた。
手を伸ばすと、革がかすかに呼吸する。
吸って、吐いて。
そのたびに、靴底からかすかな軋みが響く。
耳を澄ますと、その音が次第に声へと変わっていった。
《……この靴は、よう歩いたもんや》
低く、あたたかい声。壮年の男性の声だった。
どこか懐かしい、関西の訛りがある。
《毎朝、駅まで歩いた。雨の日も風の日も。
あの頃は、革が鳴る音が一日の始まりやった。
靴が重いほど、稼いで帰れる気がしたんや》
声と一緒に、革の匂いが濃くなる。
土と汗の混じった匂い。
男性の生活の温度がそのまま立ちのぼってくるようだった。
《家を出るとき、いつも子どもが泣いてた。
『行かんといて』て言われても、行くしかなかった。
働かんと、明日の飯がない。
歩くのをやめたら、それで終いやった》
ろうそくの火が強くなり、靴の表面で光が跳ねた。
その光が、街灯のように床に丸い輪を描く。
私は知らぬ間に、自分の足をその輪の中に入れていた。
《歩くというのは、息をしてるのと同じや。
一歩ごとに、生きてるって音が鳴る。
止まったら、ほんまに終わる》
男の言葉に合わせて、店の奥でコツン、と音がした。
床板の下から、小さな足音が響く。
最初は一つだったが、すぐに二つ、三つと重なる。
まるで、誰かが通り過ぎていくように。
私は立ち上がった。膝が重い。
身体が自分のものではないような感覚。それでも歩き出した。
靴の音に合わせるように、床が低く鳴る。
歩幅が合わない。音がずれている。
誰かと並んで歩いているような錯覚。
《……歩け。止まるな。止まれば、思いも止まる》
男性の声が耳元で囁いた。
振り向いても、誰もいない。
ただ、床の上に濡れた足跡が一つ、のびている。
それが私のものなのか、誰かのものなのか、分からない。
呼吸が速くなる。膝が痛む。
だが、立ち止まれなかった。
《最後の日も、雨やった。
足が重くて、もう靴も限界やった。
それでも、歩いた。
『帰る』言葉を残すために》
声が次第に遠のく。
同時に、ろうそくの火が小さく揺れた。
靴の内側に小さな光が生まれ、それが波のように広がる。
それは焚き火のようでもあり、心臓の鼓動のようでもあった。
《生きるというのは、泥を踏むことや。
泥は重いけど、温かい。それが、歩いた証や》
その言葉のあと、音が途絶えた。
靴の中で光が消え、ただ深い黒だけが残る。
気づくと、床に座り込んでいた。
膝がじんと痛む。手をつくと、手のひらに湿りがある。
泥の跡。それはまだ、乾いていなかった。
帳簿を開く。
筆を取り、震える手で書く。
――今夜の声、低く温し。歩み、呼吸に似る。
書いた瞬間、紙がわずかに湿った。
墨が滲み、泥のような色に変わる。
そのまま火を消すと、闇の中で靴の革がひときわ黒く光った。
◇◇◇
朝。格子窓の外では、雨がすっかり上がっていた。
通りの石畳が乾きかけ、ところどころに薄い水の線が残っている。
風が冷たい。膝の痛みはまだ取れていなかった。
歩こうとすると、足首のあたりに鈍い重みが残っている。
机の上の靴は、昨夜と同じ位置にある。
だが、表面の艶はすっかり消え、ただの古びた革に戻っていた。
近づくと、かすかに土の匂いがした。
そして、その匂いの奥に、まだ『息』のようなものが混じっていた。
床には靴跡が二つ。
片方は私の足の形、もう片方は少し大きい。
乾きかけた泥の線が、ゆっくりと薄れていく。
帳簿を開く。
昨夜の文字は、紙の奥に沈んでいた。
乾いた土の下で、まだ熱を持つように。
私は静かに書き加える。
――静けさとは、歩みを終えた呼吸の名。
筆を置くと、風が店の奥まで流れ込んだ。
紙が一枚、ひらりと揺れ、机の下に落ちる。
その音が、靴の軋みと重なった。
顔を上げると、窓の外で光が差し込んでいた。
乾いた石畳の上で、さっきと同じ足音がゆっくりと続いていく。
その足音が、確かに続いている。
私は膝の痛みを抱えたまま、その音を聞いていた。
――歩き続けること。
それが、生きるということなのだと思いながら。




