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静けさを聞く骨董店  作者: 秋乃 よなが


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第十五話 錫のカップ ―映る影―

 

 十月の風はすっかり冷たくなった。

 格子窓の外では、通りの向こうで誰かの話し声がする。

 しかし店の中は、静まり返っていた。


 棚の整理をしていると、指先に冷たいものが触れた。

 小さな金属音が鳴る。

 取り出してみると、それは錫製のカップだった。

 口縁が少し歪み、側面に小さな凹みがある。

 長く使われた形跡があり、光を受けても鈍くしか光らない。


 持ち上げると、想像よりも軽い。

 しかし、手のひらに冷たさがすぐ染みた。

 その冷えはまるで、手の内側に眠っていた熱を吸い取るようだった。


 カップの底に、うっすらと影が揺れていた。

 自分の顔が映っているのかと思ったが、それはどこか違う。

 輪郭の内側がわずかに曇り、知らない誰かの頬の線に見えた。


 私は帳簿を開き、日付を記す。


 ――十月二十六日 錫のカップ。


 その瞬間、金属が小さく鳴った。

 コトン、と。

 まるで、誰かが向かいで同じ音を鳴らしたように。


 夜。灯りを落とし、ろうそくの火を一本だけ残す。

 窓の外から、虫の声がわずかに混じる。

 手の指先には、まだ先日の墨の匂いが残っていた。

 洗っても落ちない。

 今夜は、その匂いが金属の冷気に混じり合い、かすかな違和を生んでいた。


 机の上にカップを置く。

 すると、何も注いでいないのに、内側が曇った。

 それはまるで、息を吹きかけた直後のようだった。


 曇りの中で、橙色の光がふっと揺れた。

 火の反射ではない。

 光が、金属の内側で灯った。


 《おい、飲めよ。まだ温かいぞ》


 声がした。

 低く、陽気な響き。男性の声。

 次いで、別の声がかぶさる。


 《お前が先に行けよ。どうせ、また俺の分まで飲むんだろ》


 笑い声。

 それが幾人もの声に広がり、やがて一つの熱に変わっていく。


 私は息を呑んだ。

 カップの中に、橙の焚き火の光が見えた。

 輪のように集まる男たちの影。

 誰かがカップを掲げ、火の方へ差し出す。


 《ほら、乾杯だ。今夜くらいは飲もうぜ》


 金属の音が、乾いた夜気に響く。

 チン、と短い音。

 焚き火の火の粉が空に舞い、影がゆらめく。


 《……いい夜だったよな》


 一人の声が静かに言う。

 他の声が笑いで返す。

 だが、その笑いの奥には、どこか『明日を知っている』ような影があった。


 《あのあと、風が変わった。空が白くなって……気づいたら、俺しか残ってなかった》


 男の声が少し震えた。

 焚き火の光が、カップの内側で波打つ。

 その揺れは炎ではなく、記憶そのもののようだった。


 《生き残るってのは、あったかいことじゃない。

 熱は残るけど、それを分ける相手がいない。

 だから、今もこうして乾杯してるんだ》


 その瞬間、カップが低く鳴った。カチリ、と。

 まるで、誰かがこちら側から音を返したかのように。


 私は無意識にカップを持ち上げていた。

 唇を近づけると、何も入っていないはずなのに、わずかな温かさがあった。


 頬が、熱くなる。

 火にあたったような熱ではない。

 内側から滲み出るような熱。

 それは、誰かの呼吸が皮膚に触れて残ったような感覚だった。


 帳簿を開く。

 余白に、一滴のしみが落ちている。

 水ではない。

 触れると、指先が温かい。

 紙の上で、熱がゆっくり広がっていく。


 まるで、影の形をした温度だった。


 《あいつらの笑い声は、まだ風の中にある。

 耳を澄ませば、夜が鳴ってる。

 それだけで、まだ生きてる気がするんだ》


 声が遠のく。

 同時に、カップの内側の光が淡く消えていった。

 白い曇りだけが残る。

 そこに薄く『輪』が浮かんでいる。


 ――乾杯の跡のような円。


 《……ありがとう》


 その声が、最後に響いた。

 そのあと、音も光も消えた。

 けれど、頬の熱だけが残った。

 洗っても落ちない墨の匂いと同じように。


 私は筆を取り、静かに書く。


 ――今夜の声、温か。熱、影に似る。


 ◇◇◇


 朝。窓の外の空は、薄い灰色をしていた。

 遠くで鳥が鳴き、また少し冷えた風が渡る。


 机の上には、錫のカップが置かれている。

 金属は冷たい。

 けれど、内側にはうっすらと曇りが残っていた。

 誰かの吐息が閉じ込められたように、消えないままだった。


 私は手を洗った。

 しかし、頬の熱はまだ残っていた。

 鏡を覗くと、右の頬が少し赤い。

 酒を飲んでもいないのに、血の色が滲んでいる。


 帳簿を開く。

 先日のしみは、紙の奥に沈み、円形の跡を残していた。

 それは乾いても、消えなかった。

 黒でも灰でもない、透明な影。


 私は筆を取り、余白に小さく記した。


 ――静けさとは、熱の残りが形を求める場所。


 書き終えると、風が店の奥を通り抜けた。

 紙の端がふわりと揺れ、カップがかすかに鳴った。

 チン、と短い音。

 それが誰かの笑い声に似て聞こえた。


 音はすぐに鎮まり、ただ朝の光だけが残った。

 カップの曇りは、もう薄れつつある。

 けれど、その輪郭の中で、何かがまだ呼吸している気がした。


 私は息を整え、静かに目を閉じる。


 ――その熱が、冷めてほしくなかった。


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