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静けさを聞く骨董店  作者: 秋乃 よなが


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第十四話 硯 ―墨の匂いを覚えた硯―

 

 十月の風は乾いていた。

 格子窓を開けると、冷たい空気が流れていく。

 店の中は静かだった。

 朝の掃除を終え、棚の奥を拭いていると、指先に固い感触があった。


 木箱だ。

 角が欠け、桐の蓋には墨のような影の筋が走っている。

 箱を開けると、中に硯が一つ入っていた。


 黒い石のような重み。

 表面は乾いているのに、指先でなぞるとひんやりと湿った感触が返ってくる。


 光を受けた硯の窪みが、わずかに艶を放った。

 水を入れた覚えはない。

 それでも、そこに『濡れた黒』があった。


 ――十月十六日 硯。


 帳簿に書きつけ、筆を置く。

 そのとき、木箱の蓋の裏に、かすれた文字が見えた。

 読めるようで読めない。筆の払い跡のように、一つの言葉だけが浮かんでいる。


 ――影ヲ継ゲ。


 光の加減で見えたのか、もとから刻まれていたのか分からない。

 墨の匂いがふっと立ちのぼった。


 陽が傾くと、店の中はすぐに薄暗くなった。


 硯の上には、黒い艶が再び戻っていた。

 誰も触れていないのに、うっすらと水気が光を跳ね返す。

 近づくと、墨をすったあとのような香りがした。


 ろうそくを灯す。

 炎の揺らぎが硯の窪みで反射し、光の輪がゆらりと広がった。

 その瞬間、低い声が空気の中から浮かび上がる。


 《……まだ浅いな。墨はもっと沈黙で磨け》


 声は老いた男性のものだった。

 叱るような響きなのに、どこか愛情が滲んでいる。


 《師匠、どうしてそんなに厳しいんですか》


 続いたのは若い男性の声。

 どこか投げやりで、しかし必死に何かを掴もうとしている調子。

 声は硯の中から聞こえるのではなく、空間全体に滲んでいた。


 《叱るのは、継いでほしいからだ。

 墨をする手は、心を擦る手と同じだ。浅ければ線も浅い》


 硯の表面に波紋のような揺らぎが走る。

 黒が動く。

 私の指先が、わずかに震えた。


 《お前の黒は、まだ浅い。

 深く磨け。言葉の底まで下りて、影を連れて戻れ》


 声が消えると、炎の輪だけが残った。

 その光を見ているうちに、私はいつの間にか筆を手に取っていた。

 硯とともに収められていた古い筆。いつのまにか先端が湿っている。


 墨も水もないのに、筆先が紙に触れた瞬間、微かな黒が滲んだ。


 ――書いた覚えのない線が、浮かび上がる。


 筆は私の手の動きに従っていない。

 細い曲線がいくつも重なり、知らない文字の形になっていく。

 草書とも行書ともつかない、くずれた筆致。

 その連なりの中に、どこか『名』の字に似た抉れがあった。


 黒の流れは途中で途切れ、紙の上に点が残る。

 それは、涙のように滲んで広がった。


 《継ぐことは、似せることではない。

 線が生まれる前に、影が走る。

 形になるのは、最後でいい》


 再び、師の声。

 それは怒りではなく、静かな祈りのようだった。


 私は息を止めたまま、筆を持つ手を見つめる。

 墨をつけていないはずの筆が、黒く濡れていた。

 指先にも、墨の香りが移っている。


 匂いは濃く、甘い。

 嗅ぐたびに胸の奥がざわついた。


 帳簿を閉じようとした瞬間、紙の端がかすかに湿った。

 触れると、指に黒が移る。

 乾かない。

 それなのに、紙は破れず、静かに息をしているようだった。


 ◇◇◇


 夜が更けても、硯は乾かなかった。

 店の外は静まり返り、虫の声もない。

 ろうそくの炎が細まると、硯の黒がゆっくりと明滅した。


 まるで呼吸のように。


 師の声が最後に囁く。


 《叱るのは、渡したいからだ》


 その言葉のあと、音が途切れる。

 店の空気が、いっそう静かになった。


 私は筆を置いた。

 帳簿の端には、黒い擦れのような跡が残っている。

 洗面で手を洗っても、墨の香りが落ちなかった。

 皮膚の奥に染みついているようだった。


 ◇◇◇


 朝。曇り空の下で、格子窓の向こうを風が渡る。

 光は柔らかく、しかしどこか灰を含んでいる。


 机の上の硯は乾いていた。

 けれど、手を近づけると、また湿りが残っている気がした。


 帳簿を開く。

 昨日書かれたはずの文字は、黒い染みに変わっていた。

 けれど、その染みの輪郭が、ゆっくりと広がっているように見える。


 錯覚かもしれない。

 それでも、紙の奥で黒が脈打っているように感じた。


 ふと桐箱の蓋を見る。

 昨日は読めなかった刻みが、朝の光に照らされて浮かび上がっていた。


 ――影を継げ。


 確かに、そう読めた。


 私は筆を取り、帳簿の余白に小さく記した。


 ――静けさとは、形になる前の黒の呼吸。


 書き終えると、店の奥を風が通り抜けた。

 紙の端がふわりと揺れ、指先の匂いがまた立ちのぼる。

 それは、昨日よりも濃く、しかし嫌ではなかった。


 墨の匂いは、沈黙の中でゆっくりと広がり、まるで見えない声のように、私の中に染みていった。


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