第十章:余呉の鏡、古戦場に吹く「七本槍」の風
「ねえゴンちゃん、たまには私がお金出すから、パーッと旅行行かない? 予約困難な店、奇跡的に取れちゃったのよ」
壱伽がいたずらっぽく微笑みながら差し出したのは、滋賀の秘境、余呉湖の畔に佇む名店『徳山鮓』の予約メモでした。
インフルエンサーとして活躍し、自ら稼いだ金で自由を謳歌する壱伽にとって、不器用な苦学生の勝利を連れ出すのは、もはや日常の「愉しみ」となっておりました。
「よ、余呉湖……。近江でございますか、壱伽さん……」
勝利はその地名を聞いた瞬間、背筋に走る言いようのない寒気を感じました。
けれど、大好きな彼女の誘いを断れるはずもなく、二人は新幹線を乗り継ぎ、静まり返った湖のほとりへと辿り着いたのでございます。
夕暮れの余呉湖は、まるで鏡のように静かで、恐ろしいほどの青さを湛えておりました。
余呉湖の景色とともに供される、熟成された鮒寿しや、滋味深い土地の恵み。
壱伽は上機嫌で、地元が誇る地酒『七本槍』を勝利のグラスに注ぎます。
「ほら、ゴンちゃんも飲んで! このお酒の名前、かっこいいでしょ? 『七本槍』だって」
勝利は、その名前を聞いた刹那、持っていたグラスを床に落としそうになりました。
七本槍。……加藤清正、福島正則……。
かつて、賤ヶ岳の戦場で、己の軍勢を蹂躙し、鬼柴田の夢を粉々に砕いた若き将たちの二つ名。
口に含んだ酒は、熟成した深い味わいのはずなのに、勝利の舌には、なぜか「血と鉄の匂い」が混ざり合って感じられるのでございました。
「……壱伽さん、俺……この場所を知っている気がするんだ」
勝利の視線は、湖の向こうに聳える「賤ヶ岳」の稜線に釘付けになっておりました。
「何言ってんの、初めて来たんでしょ? 酔っ払った?」
壱伽は笑いながら、勝利の赤い顔を覗き込みました。けれど、その瞳に映る景色もまた、不意に歪み始めます。
翌朝。二人は引き寄せられるように、山頂へと向かいました。
賤ヶ岳の頂から見下ろす余呉湖と琵琶湖。
そこは、四百年前、勝家様が己の限界を悟り、市の待つ北ノ庄へと、敗走の途についた「絶望の始まり」の場所。
「……勝家様、お逃げなさい。わたくしなら、大丈夫ですから」
不意に、風に乗って、聞き慣れた、けれど今の壱伽ではない「誰か」の声が耳元を掠めました。
壱伽は、立っていられなくなり、その場に膝をつきました。
「痛っ……頭が、割れそう……。ねえ、ゴンちゃん……なんで私、ここに来ると、涙が止まらないの?」
勝利は、震える手で壱伽の肩を抱き寄せました。
その手の温もり、その背中の大きさ。
「市……。俺は、もう逃げない。今度は、逃げないから……!」
勝利の喉の奥から絞り出されたのは、現代の大学生の声ではなく、四百年の悔恨を背負った、一人の武将の咆哮でございました。
「行こう、壱伽。……俺たちの、本当の終着駅へ」
二人は、取り憑かれたようにレンタカーを走らせました。
滋賀から福井へ。
かつて、馬を飛ばし、泥にまみれて辿り着いたあの道。
「北ノ庄」——。
二人の魂が、一度死に、そして再び出会うために約束した、あの約束の城跡へと、物語は猛スピードで加速してゆくのでございます。




