第1章の53 志四海
「失礼致します。」
目の前の白い扉の向こう側へ声を掛けると、
「どうぞ。」
という返答が、間を開けることなく返って来る。
許可が下りたのを確認した後、扉を開いて中へ入室する。
部屋の中も、白を基調とした清潔感のある色彩で統一されていた。
室内はそれ程広い訳ではないのだが、極力余計な調度品は排すよう意図された造り故か、実際よりも広く感じられる。
そしてこの部屋の奥。
暖かな日光が射し込む窓際に配されたベッドの上に、その人はいた。
「遠路遥々よく来てくれたね。」
歳の程は40代半ばといった辺り。
やや浮き出た頬骨と目の下にうっすらと浮かぶ隈から、度重なる心労により憔悴しているように見受けられた。
しかし憔悴していて猶、その丸眼鏡の奥に覗かせる双眸には鋭く力強い眼光を宿している。
「本国から足を運んで来てくれた君達に、こんな不躾な姿でしか持て成す事が出来ぬ私をどうか許してほしい。」
そう言って居ずまいを正すと、なんと彼は深々とこちらへ頭を下げた。
「お顔をお上げになって下さい、重光公使。」
思ってもみなかった展開に、永田少将閣下は慌てて彼に頭を上げるように促す。
「私も彼も、そのような事は一切気にしておりません。
何より公使殿がこうして意識を取り戻されただけでも、私共にとっては最高の幸せに御座います。」
重光葵駐華特命全権公使。
上海で行われた天長節祝賀式典の折、突如朝鮮人による襲撃を受けて瀕死の重傷を負った彼は、この病院へ緊急搬送された。
数時間に及ぶ大手術の末に、重光公使は何とか一命を取り留める事に成功した。
それから数日、未だ身体中の至る所が包帯で覆われているが、こうして公使自らで来訪者への応対が出来るまでに回復していた。
「つくづく私と言う人間は悪運が強いらしい。
目の前で爆発が起こったというのに、今もこうして命が繋がっているのだから。」
しかしそれでも、五体満足とまではいかなかった。
「そのような悲し気な目で見てくれるな、若き兵隊よ。」
「しかし・・・。」
患者衣の不自然な凹み。
本当ならば在るべき筈の所に、在るべきものが無い。
重光公使の右大腿部、即ち彼の右脚のほぼ付け根から先が失われていたのだ。
「お陰で身体が軽くなり、動き易くもなった。
これはこれで、存外悪いものでもない。」
冗談めかす様に重光公使は朗らかな笑みを浮かべる。
そんな公使の表情にどれ程救われる思いがしたか。
そしてそんな救われた様に感じてしまう自分自身に、堪らなく嫌気が差した。
私は公使の見舞いへと来た筈にも拘らず。
本来であれば誰よりも安らぎを必要としてるのは公使自身である筈なのに、その彼にこうして気を遣わせてしまっている己が堪らなく情けなかった。
「無礼を承知で、一つご教授戴きたくございます。」
どうして。
「どうして公使殿は、そこまで朗らかに笑えるのでしょうか。」
片脚を失い、今猶傷も痛む筈なのに。
そして何より不安ではないのだろうか。
日支両国の未来が、光重公使の双肩に掛かっている。
その最中に、あの痛ましい事件が起きてしまったのに。
「私が今この地で尽くすべき人事は、総て尽くしたからな。」
だが公使の表情は変わらない。
ある種、涅槃の境地へ至ったかのように晴々と澄み渡っている。
「後は泰然と構えて天命を待つだけだ。
それにあの騒ぎ、悲嘆する事ばかりではなかったのでな。」
「それは・・・?」
「件の騒ぎ、実行犯が朝鮮人だと判明した瞬間、私は心から安堵したよ。」
数日間死の淵を彷徨い、そして目覚めた彼が開口一番、担当医に掴み掛かって問い詰めたのが、停戦交渉の成否だったらしい。
「ああ、良かった。今回の件、中華民国側は関わっていなかった。ならば後は私が調印さえすれば何の問題も無く停戦協定が成立する、と。
これで束の間ではあるが、日中間に平和が訪れる、とな。」
言葉が出なかった。
死の淵から辛くも生還を果たしたこの御仁は、この期に及んで猶、己が命よりも日本の行く末を真っ先に案じていたのだ。
「ならば私の脚の一本程度、安い買い物だ。」
「公は、凄いお方です。」
「君達と何も変わらんよ。
君達は戦場で戦う。私は議場で戦う。愛する国の為、友人の為、家族の為に。
今回は偶々、私も頭では無く身体を張る番だったと言うだけの話だ。
そう考えれば、常に命懸けで戦っている君達の方が、私には何より尊く見えるよ。」
※
「噂に違わぬ、誠に気骨のある御仁であった。
君もそう思うだろう、安藤君。」
「はい。議会政治の腐敗が嘆かれて久しい昨今、あのような素晴らしいお方がまだいらっしゃった事に、驚きと喜びが隠せません。」
病院の廊下を歩く道すがら、光重葵という御仁について語り合う。
あの後、光重公は午後の定期健診があるとの事で、私と永田鉄山少将閣下は病室から退室した。
今では意識を取り戻し、身体も回復へ向かっているとは言え、一時は危篤状態にまで陥った身。
またいつどんな些細な事が切っ掛けとなって、体調を崩してしまうか分からない以上、しばらくの間は油断は出来ない、というのが主治医の談だ。
「さて、と。
私は一度満州へ行ってから日本へ帰国しようと思うが、君はどうする?」
「満州、ですか?」
「ああ。そこで板垣君や石原君との会合があるのでね。」
板垣征四郎陸軍大佐。
石原莞爾陸軍中佐。
昨年の柳條溝での支那軍による、鉄道爆破事件を端に発した満州事変。
両名は自ら前線に立って関東軍を指揮し、寡兵ながらも日本側に勝利をもたらしたこの事変における最大の功労者だった。
「私は、このまま日本へ戻るつもりです。」
正直言えば、かの御仁達のご尊顔を拝したいという思いはあった。
特にも石原大佐の勇猛果敢な戦い振りは、本土の将校達の間では最早生きる伝説と化している程なのだから。
「聯隊の皆の事も気掛かりですので。」
だが所詮それは、俺の個人的の願望だ。
そんな理由でいつまでも聯隊の席を空けたままにしておく訳にはいかない。
「そうか。それでは暫しの別れだな、安藤中尉殿。」
少将閣下殿と共に病院から出ると、入り口の前には既に一台の自動車が停まっている。
「はい。一足先に東京でお待ちしております。
それと、この度は何から何まで有難うございました、永田少将閣下。」
「礼を言うべきは私の方だよ。
君には私の我儘に付き合って貰ったのだから。」
我儘、か。
「閣下も中々に苦労をなされているのですね。」
この御仁が私欲の為に我儘を押し通すような人でない事は知っている。
「まったく汗顔の至りだよ。
本来であれば、陛下の御心の儘にその御手足となって一糸乱れずに動かねばならぬ我ら皇軍は、君も知っている通り真っ二つに割れてしまっている。」
元々陸軍内には幾つかの大きな派閥が存在し、皇道派も荒木貞夫大将と眞崎甚三郎大将のお二方を首魁とするその中の陣営の一つだった。
しかしその勢力図が大きく書き換わったのが今年の2月。
衆議院総選挙において立憲政友会が歴史的大勝利を収めると共に発足した犬養毅内閣の時だった。
その発足した内閣において陸軍省大臣に就任した荒木貞夫大将は、帝国陸軍の要職のほぼ総てを己が派閥、或いは子飼いの人間で固める露骨な人事を断行した。
結果、皇道派は他の派閥を追随を許さぬ程に抜きんでた勢力へと変貌を遂げた。
だが当然そんな専横を敷けば、異を唱え、反発する人間や勢力も出現する。
「つい先日も、森幹事長殿にも叱責を受けた。
皇軍たる貴様らが一本の矢と成れずして、一体どうして敵を穿ち貫くことが出来ようか、とな。」
そんな荒木大将と眞崎大将の横暴に対抗すべく、永田少将閣下を中心として反皇道派の将校が結集した。
「それが政治というものでしょう。
何もかもが真っ白でいられる程、優しくはありません。」
組織が巨大化し、多種多様な思惑が増え絡み合っていくと、どうしても綺麗事を貫くのは難しくなる。
「そういう意味で言えば、外交も政治も、この派閥争いも根本は同じなのだろうな。」
互いの利が釣り合う妥協点を探り、折り合いを付けるべく腐心する必要が生じる。
「だがそういう小難しい話に巻き込まれるのは、私のような歳を喰った人間だけで良い。
安藤君達の様な若い人間が下らない柵に囚われる事の無いよう、心の動く儘に綺麗事を貫き通せるよう場を整えるのが、私達の役目なのだから。」
「だから私を同伴させたのですね。
派閥に囚われぬ繋がりを築く為に。
或いは少し穿った見方をするならば、いざという時に備え、私を永田少将閣下の陣営に引き抜く為、でしょうか。」
「否定はせぬよ。」
皇道派と反皇道派。
私自身はそんな派閥争いには興味も関心も無いが、それでもどうやら私は皇道派側の人間と見られているらしいから。
と言うのも、私の同輩や同じ尉官等級の将校の多くが皇道派を、真崎大将閣下や荒木大将閣下を信奉していた。
清廉潔白。
滅私奉公。
皇道派や両大将閣下に懐く仲間達の憧れは、概してそのような感じだ。
周りの人間が染まれば、中にいる私もその一員であるかのように見られるのも、ごく当たり前の帰結だ。
そしてそれを、敢えて否定する意味も必要もこれまで無かった。
「こんな私を卑怯だと思うか。」
「いいえ。
先にも申し上げた通り、政治は綺麗事だけではありませんから。」
他でも無い、私自身が言った言葉。
それを棚に上げて声高に卑劣だと罵倒出来る程、厚顔でも無恥でもないつもりだ。
とは言え、これから先がどうなるかは分からないのもまた確か。
永田少将閣下が表面化せぬよう抑えていてくれたものが、どう私達に影響を及ぼすのか。
「そろそろ身の振り方を気にしなければならないのかもしれませんね。
永田少将閣下と同様、私にも守るべき部下や家族がおりますから。」
「苦労を掛ける。」
と、そこに。
一台の自動車が正門から入って来くるのが視界に入った。
「どうやら迎えが来たようだ。」
淀みの無い流れるような動きで真っ直ぐこちらへ向かって走って来たそれは、ピタリと。
まさに永田少将閣下の真正面に、後部座席のドアが来る位置で停車した。
その華麗な運転技術に、私も閣下も思わず感心する。
「お迎えに上がりました、少将閣下。」
そう言って運転席から降りてきたのは、若い軍人だった。
歳の程も、私と同じぐらいに見える。
ふと目が合った私と彼は、軽く会釈を交わして互いに挨拶を済ませ、
「どうぞ、こちらへお乗り下さい。
もう間もなく、列車の到着する刻限です。」
そう言って後部座席の回り込んだ彼は、閣下の前のドアを開けた。
「それではな、安藤君。」
「はい。一足先に東京でお待ちしております。」
別れの言葉を告げると、閣下を乗せた車は再び流麗な動き出しで発進し、瞬く間に雑踏の向こう側へと消えていった。




