第1章の54 回合
大分時間を空けてしまい、申し訳もございません。
スローペースではありますが、またぼちぼちと書き続けていく所存でございます。
「遠征お疲れ様でした、安藤さん。」
「お勤めお様でした、安藤さん。」
大きく溌溂とした声が響き渡る。
「ありがとう、由利本君。
それに皆も、態々俺を出迎えてくれてありがとう。」
日本へと戻り、歩三聯隊へ帰った私に待ち受けていたのは、庁舎の門の前で待ち構えていた部下達の出迎えだった。
「お前達も変わらず息災のようでなによりだよ。それに・・・、」
部下達の顔や声が随分と懐かしく感じる。
一週間にも満たない。せいぜい5日程の渡海だった筈なのだが。
「ほんの数日見なかっただけの筈だが、それでも幾分か逞しくなったようにも見える。」
「中尉殿に言いつけられた通り、日々の鍛錬に励んでおりましたから。」
「成る程、それは重畳なことだ。
積み重ねてきた努力は己を裏切らぬからな。」
「だがそして積み重ねた努力以上の業は為せない、ですよね。」
ニヤリと、不敵に。
出迎えてくれた部下達の名から、一歩前に出た由利本がそう言って笑う。
「フッ・・・、これは一本取られてしまったな。」
「いつも中尉殿が僕達に向けて仰って下さいましたから。我々はただ中尉殿の教えを守ってきただけのことですよ。」
だけ、ときたか。
それが私にとってどれだけ嬉しく、そしてありがたいことか。
「それもそうだったな。ならば早速始めるとしようか。
各員、速やかに準備を整え、第四道場に集合するように。」
「はいッ!」
歯切れの良い返事が青天に木霊する。
「今日は剣術の稽古をしようじゃないか。」
※
道場に入ってから果たしてどれぐらいの時間が経ったのか。
気が付けば窓の向こう側に見える空の色は朱色に染まり、日は西の彼方に紅々と揺らめいている。
「よし、今日はこの辺りにしておくとしよう。
各員、後片付けの後は速やかに宿舎へと戻るように。夕食はいつも通りの時間からだから遅刻しなよいようにな。」
「はい。ありがとうございました。」
瞬間、我先にと。
挨拶も漫ろにドタドタと、片付けを済ませた者達は一斉に道場から出て行く。
「・・・お前等。そんなに慌てなくとも別に夕餉の配膳は逃げたりなどしないぞ。」
確かに遅れるなよとは言ったが、そこまで必死になられると逆に怖い。
「いえ、安藤中尉殿。誰が一番大きなおかずに有り付けるかの勝負は既に始まっております。
故、一秒たりとも無駄に出来る暇などございません!」
そう言い終わるが早いか否か。
一息の儘に喝破してみせた彼もまた、脱兎の如くに道場から飛び出して行った。
「やれやれ・・・。」
呆れる程変わらない部下達の姿。
再び始まった私の、私達の変わることの無い日常。
そんな平和な光景を見ていると、つい先日まで大陸の地を踏んでいた事が遥かに昔の出来事のように感じてしまうのは果てして何故なのだろうな。
「中尉殿。」
と、不意に背後から声が掛けられると共に、
「ん、ああ・・・。」
心地良い感慨に浸っていた私の意識は現実へと引き戻される。
「どうかしたか、由利本君。」
その声の主は他でも無い、由利本五助のものだった。
「急がないと皆に先を越されてしまうぞ。」
「自分は大して質や量に拘る性質ではないので大丈夫です。
それよりも大陸の旅行はどうだったのかが気になっておりまして。
聞くところによりますと、昨今の上海の発展は目を見張るものがあるらしいではないですか。」
「おいおい・・・。」
思わず苦笑が溢れてしまう。
「別に俺は観光に行って来た訳じゃない。歴とした任務の一環で支那へと渡ったのだ。」
「う・・・、申し訳ございません。」
少年のようにキラキラと輝いていた顔が一瞬のうちに萎れ曇る。
「いやまあ・・・、別に土産話がない訳では無いからそう落ち込んだ顔をしてくれるな。」
そんな表情をされると、まるで私の方が悪いかのようではないか。
「立ち並ぶ建物の数、広大な街並み、人々の活気。
上海の港に降り立った瞬間、その全てに圧倒されたよ。」
「本当ですかッ!」
パッと。花が開くように。由利本君の顔に喜びの光が戻る。
「ああ、本当だとも。
流石東洋の巴里と称されているだけの事はある。」
帝都を発ち、海を渡り、踏んだ異国の地を思い出す。
別に私自身が本物の巴里を見たことはないが、不思議とその喩えに違和感は覚えない。それだけ近年の上海の発展には眼を見張るものがあるという事なのだろう。
「そして重光公使殿も、思いの外壮健でおられたよ。
もう暫くの入院は要するが、施術後の経過は頗る良好との事らしい。」
「それは誠に、誠に喜ばしい限りの事です。」
歓喜に満ちた声。
しかしそれは先の喜びとは違う、心の底から安堵するように絞り出された言葉だった。
公使が一命を取り留めた吉報は既に皆が新聞を通じて知ってはいる。
それでもこうして身近な人間の言葉で聞かされることで、改めてその実感が湧き上がったのだろう。
彼も、そして彼だけでなく聯隊の皆が。
松重公使の容態の復調を真実心より願っていた。
貪婪に我利を貪る昨今の政治家や官僚が横溢し、政治に対する不信が著しい中にあってそれでも彼御仁は赤心奉国を貫く雄姿を我々に見せて下さった。
「是非、皆にも聞かせてあげて下さい。きっと諸手を上げて喜びますよ。」
その己が命を省みず国に尽くす姿が、同じく命を賭して国の為に戦う兵隊たる私達に響かない筈が無いのだ。
「ならば俺達も急ぐとしようか。余り皆を待たせる訳にもいかぬからな。」
「はい。」
道場を後にし、食堂へと向かう道すがらも私は由利本君と土産話に花を咲かせた。
「人生観が変わる、とまでは流石に言い過ぎかもしれんがな。
だが世界は広いとは感じた。それと同じぐらい己の見てきた世界が如何に狭い範囲だったかも思い知らされた。」
宛らそれは、水底に潜む蛙のように。
日本という井底を抜け出し、大海へと到る。
「それこそ俺が初めて帝都に入った時に懐いた念に近い感じだったな。」
「自分も初めて東京駅の丸の内に降りた時は、言葉も出ませんでした。」
あの感嘆と落胆の入り混じった奇妙な感覚は、怒涛の勢いで押し寄せる大波の如くに全身を飲み込み、骨の髄からこの身体を震わせる。
あの時味わった感覚は、少なくとも私にはどのような言葉を並べ立てようとも説明し切れる気はしない。
そして上海への渡航と、上海の摩天楼に降り立った瞬間に身に降り掛かってきたあの感覚。
だがそれもまた、大海のほんの一端に触れただけに過ぎないのだというのだから、誠に世界は果てが無い。
「そう言った意味では、海軍は恵まれているのだろうな。」
海洋演習の一環として日本を離れて大海を巡り、比較的早い段階から世界を見れる。
己が見識を世界へと繋ぐことが出来るのだから。
しかし、
「海軍、海軍・・・。」
その時。
憧れや妬みの混ざり合った感慨に私が耽る、そのすぐ隣で。
ふと何か気に掛かる事でもあるかのように口した言葉を反芻する。そして、
「ああ、海軍と言えば、」
漸く何かの答えに思い至ったのかように、
「中尉殿が御不在の時に来訪がございました。」
何気ない風に私にそう告げた。
「来訪?」
「はい。海軍の者達が数名。
中尉殿の不在を知ると、また後日改めると言って去っていきましたが。」
「・・・成る程。それで彼らは何と?」
「いえ・・・、特には何も。中尉殿と直接会って話をしたいとだけ。
如何が致しましょうか?」
「特には何も。後日に改められる程度の用ならば、こちらから急く必要も無いだろう。
一先ずは夕餉の支度だ。」
「承知致しました。」
そう彼に促してこの話題を切り上げる。
何故今この時に海軍が、とは言うまい。
漸くと言うべきか。
遂にと言うべきか。
彼らは動き出したのだ。
ならばその日が来るのはそう遠く無い先の未来。
そして私がどう動くべきかも。
「中尉殿、どうかしましたか。
何やら考え込んでいるご様子ですが?」
「・・・何、大したものじゃない、久々のここの飯が楽しみで、色々と想像が膨らんだだけだ。」
明日か、明後日か。
次に奴らがここへ来るのは。
そう猶予は残されていない。
それとも或いは、先手を取ってこちらから接触を図るべきか。
取り敢えず先ずは、北先生との意思の擦り合わせが肝要なのだろう。
「あの、中尉殿。
自分にも何かお力添えが出来る事がありましたら、微力ながら御助力させて戴きます。」
「はは、ありがとう。とは言ってもなぁ・・・。
向こうの用件が分からなければ、こちらとしても動きようがない。」
何とも白々しい言葉なのだろうと、自嘲する。
「だからまあ、彼が再び来るまでのんびりと構えていようじゃないか。」
だが私の大事な部下を。
大切な仲間達を、むざむざ危険に晒す訳にはいかない。
「それよりも今大事なことはそれじゃない。夕餉の献立だ。」
「相変わらずですね、中尉殿は。」
呆れた風な苦笑をされてしまった。
だがそれがどうしたと言うのか。
由利本君も、他の隊員も一人前の兵隊だ。
何時如何なる時も、大切なものの為に命を懸ける覚悟は出来ている。
否、皇軍たる者はその程度の覚悟くらい出来ていなければならない。
しかし、だ。
「さて今日の献立は一体何だろうな。」
彼らの為そうする日がその瞬間なのかと問われれば、それがこの時だととは、どうしても俺には思えない。
少なくとも私と、私達の命を賭して戦う舞台はこの時では無い筈だ。
「年甲斐もなく胸が踊ってきたよ。」
であるならば、先ずは私が真っ先に動かねばならないだろう。
それこそ打たねばならぬ手は山とある。
己が部下が何の気兼ねも無く、戦いに臨めるように下準備を整えるのは上官たる私の責務なのだから。
或いは、その戦いの時でないのであれば、全力で回避するよう立ち回るのもまた上官の仕事だから。
※
「と言った次第となります。」
「成る程、相理解した。報告ご苦労だったな。」
翌日、私は北先生の居宅に赴いた。
大陸に渡り、そこで見聞した現地の情勢や聯隊庁舎で新たに得た情報を報告する為に。
「君が提供してくれた支那に関する情報についてはどれも有益なものばかりだった。
そして国内、牽いては帝都の中の動きについても、俺や君が得ている情報の精度を補強するに十分に足るものだったよ。」
「やはりあの夜に大川殿が仰っていたことは・・・、」
「ああ、まず間違いないだろう。
そして大川君自身も相当に乗り気なようだ。」
近いうちに再び血盟団事件に続く武装蜂起が起こる。
しかもそれはほぼ間違いなく確定された未来の事象として。
「思えば、あの時の誘いは大川殿にとってはどちらに転んでも良かったんでしょうね。」
既に向こうは決起を仕掛けることを前提として準備を進めている。
であれば、ソレの妨害と成り得る存在を極力発生させない為にもその情報は秘匿すべきだった。にも拘らず、大川殿はその事を北先生に伝えた。
そして案の定、
「あの時の大川殿の誘いに先生は乗らなかった。」
北先生は彼の提案を撥ね退けた。
その結果、助力を仰ぐどころか己が計画が外部に露見する危険に陥る羽目となってしまった。
「だがそれでも大川君には確信があったのだろうな。今更俺達にはソレを止められない、と。」
そうでなれば、無意味に己を危険に晒す真似をする訳が無い。
と、そう考えた所で、
「いいや、それは彼を少し買い被り過ぎだ。」
私の思考を読んだ北先生はその先を否定する。
「大川君は狡猾ではあるが、一々己が命を勘定に入れるような小賢しい人間ではない。」
「・・・はあ、つまりはどういうことでしょうか?」
何度噛み締めて努めようとも、その言葉の意味を理解することが出来ない。
「血の気が多いのだよ、彼は。
今更俺達に止められないと考えているのも確かだろう。だがそれと同時に俺達の妨害を望んでいるのだろうな。それにより、更に盤面が混迷を極めるように。」
否、そうではないか。
「・・・まるで意味が分かりませんよ。それでは只の愉快犯ではないですか。」
「間違ってはいないな。おそらくは大川君の頭の中では五分五分で決起の成就、乃至は四六で愉悦が優っているのだろう。」
只純粋に、その言葉を理解することを私の脳が拒んでいた。
「理解する必要は無い。そういう人間も存在するのだと弁えておけば良いさ。
そも、そうでなければ長年来の私の友人であることなど務まらぬだろうからな。」
そう言って口元を嬉しそうに歪ませる北先生も大概ではあるが。
「何れにせよ、私は当初の考え通りに各人の説得に回ります。」
北先生が言っていたように、また大川殿自身も理解しているように。
現状、決起が成功する可能性は極めて低い。
或いはそれが、あの夜に大川殿が語った様にいずれの時かに成されるであろう維新の魁になるのかもしれないが。
だがそんな蛮勇の為に国の未来を担う若人達、そして私の大切な部下達を無駄死にに散らせる訳にはいかない。
「まあ上手く頑張ってくれ。
西田君も既に動き出しているから、上手く協力してやる事だ。」
「・・・先生は動かれないのですか?」
「そんな顔をしてくれるなよ。俺も協力は惜しまぬつもりだ。」
協力は惜しまないと先生は言う。
だがそれでも、先生が自らも動こうとは最後まで頑なに言わなかった。
「分かりました。それでは早速ですが、彼・・・、彼女、か。
とにかくあの方をお貸し頂けないでしょうか。」
「ああ、構わぬよ。」
と先生が言い終わるかどうかの間際に、
「よう、久方振りだな。」
そんな言葉が、この部屋を区切る襖を挟んだ向こう側の廊下。否、正にその襖の中から聞こえた。
そして直後、正面に見える襖の中心。突如そこを突き破るかのように一つの眼が生えた。
だがそれは私の知っている常人の目と比べるには、些か以上に大き過ぎた。
「二週間振り、と言ったところだなあ。」
私はそれを良く知っていた。
それこそ二週間くらい前、私はソレと共に行動していた。
数秒の間、襖から生えた目と視線が合う。その後、それはズルリと襖から這い出し、ボタリという牛や豚の生肉の塊が床に落ちたかのような湿り気のある音を立てて畳の上に降り立つ。
ソレが這い出て来た後の襖は、さも当然の如く、突き破られたような穴や傷の一つも存在しない。
そのくせ、まるで質量を持った物体であるかの如くに、生々しい音を立てて畳の上に降り立ったのだ。
「何にせよ元気そうで何よりだぜ、安藤さん。」
これが。これこそが。
この存在のちぐはぐさ、胡散臭さそのものが、妖なのだと言わんばかりに
彼、或いは彼女かは定かではないが、巨大な蛭のような胴体に単眼が生えたような外見の妖、瞳蟲と呼ばれるソレは降り立った畳の上を這い進み、私と北先生が囲む卓の上へと登った。
「お望みのモノだ。思う存分に使ってやってくれ。」
「そういう事だぜ、安藤さん。
主様がこう言ってる訳なんでよ。精々イイ感じに俺を使ってくれや。」
※
「随分と慣れてしまったものだな。こうしてお主と共に行動するのも。」
北先生の居宅を退出し、帰路へと着くその道すがら。
裾の裏に潜み、時折り服の裏側をナニかが蠢く感覚が全身を這い回る。
初めの頃はこの違和感には決して慣れることは無いだろうと思っていたのに。こうして幾度も味わってしまっていると案外慣れていってしまうのだから、人間と言うのは存外図太い生物なのだと改めて思い知らされる。
「俺は嬉しいぜぇ。こうしてまた安藤さんに憑いて回っていれば、また面白いモンが見れると思うとなあ。」
「人を狂言廻しみたいに言ってくれるな。」
「だが事実そうだろう?
そも行動目的があんた自身の事情だったりにしろ、俺の主様の依頼にしろ、何らかの問題処理に在るんだから、そういった事態に遭遇するのも必然のことじゃねえか。」
ぐうの音も出ない。
「それに俺は主様の命令を抜きにしても安藤さん、アンタと言う人間を個人的に気に入っているんだぜ。」
「それは観察対象、牽いては捕食対象としてか?」
私自身、人間と妖怪との間柄について詳しくはない。
だからそれを推察する参考となりうる論拠は、少年時代に読んだり聞かされたりした昔話や説話にある人と妖との交わり方に委ねるしかない。
そしてそれを基にするならば、基本的に人間は殆どの場合において彼らに脅かされる立場にある。
北先生の様な例外もごく稀にあるが・・・。
「否定はしねえさ。」
「案外素直に認めるのだな。」
「否定した所でアンタはこの言葉を素直に信じるのか?」
違うだろう、と彼は暗に仄めかす。
しかしそればかりはどうしようもないのではないか。
人間と妖怪。
成り立ちからして根本的に違うのだから。
そして長い歴史の中で人間に刻み込まれてきた恐怖は、そう容易く払拭できる代物ではないのだから。
だというのに、
「そんでそんな信じてもらえないであろう与太話ついでに言うならば、俺はアンタに友情を感じてるからだろうな。」
全くの不意打ちで、この妖怪はそんな突拍子も無い言葉を言い放った。
「・・・。」
「どうしたよ、そんな呆けた面を曝して。
そんなに不思議なことか、俺らと人間との間に友誼が芽生えることに。」
「いや、少なくとも私にとっては生まれて初めての体験なのでな。何と言葉にしたものか答えに窮してしまった。」
冗談や出任せ、と言う訳ではない、のだろう・・・。
だからこそ余計に訳が分からない。
ただこの訳の分からなさを全く知らない訳でも無い。
「何というか、お主は随分と人間臭いのだな。」
それを敢えて言葉で表現するなら、こうなのだろう。
「そりゃ人間本位が過ぎるってヤツだ、安藤さん。」
そう言って可笑しそうに彼は笑う。
「普遍的な人間の感性からすれば俺みたいな化物は珍しく思えるんだろうが、俺に言わせればむしろ逆だ。言葉尻を捕らえた言い回しをするならアンタこそ妖怪臭い。」
外見上は何ら変化は無い。そもそも顔なんてモノは初めから無い、単眼の巨大な蛇の様な蛞蝓の様な妖怪なのだから。
しかしそれでも、何となく彼が愉快そうにしている事は何となく感じ取れる。
「多種多様な生物の盛衰、時代の変遷。アンタら人間じゃ到底及びも付かないだろう時の流れの中を過ごし、それこそ色んなモンを見て来た俺達は、大概の事柄に関して有るが儘をあっさりと受け入れることが出来ちまうちまう。
だが人間はそうじゃねえだろう?同属である筈の人間同士ですら互いを恐れ、許容できず、挙句の果てには排斥に走る。要するに餓鬼なのさ、どいつもこいつもな。」
「手厳しいな。それ程お主から見れば人間は幼く見えるか?」
「当然だ。そも俺から見れば、産湯に浸かる赤子だろうが往生間際の老い耄れだろうが、並べて斉しく鼻垂れの小僧っ子よ。」
数百年、下手をすればそれ千にも及ぶ年月を存在し続けて来た妖怪だからこその至言か。
恐怖、不安、猜疑。
人間が生きている限り、これらは必ず後ろに憑いて回る。
「だからこそ、安藤さんみたいなのは珍しいんだぜ。明らかに己とは異なる存在を受け入れられる人間ってのはな。
縁側で日の光を浴びながら茶を啜ってる爺さん婆さんでなら偶に見たことはあるが、アンタの歳でってのはまず希少だ。」
果たしてそれが褒め言葉なのかどうかはさて置き、
「それでもやはり、俺らもお主らもそう変わりはせぬよ。」
素直に思ったことを口にした。
「俺は特に抵抗も無くお主とこう話しているが、だからと言って俺自身が悟りの境地に至ったなどとは全く思わぬよ。好悪もある、生理的に受け付けぬものもある、感情的にダメなものも存在する。
朱に交われば赤くなる、というように、結局は己の置かれた状況や他社との関係でどうにでも転ぶのだと俺は思うよ。」
良くも悪くも人間は周囲の環境に左右されながら己を形作る。突如全くの未知の環境に放り込まれれば拒絶反応もでようが、それでも時が経てばある程度は順応してしまえる。
俺にとってのそれが北先生やこの者だったと言うだけの話。
今こうして私自身が、彼と共に居ることへの違和感が薄らいでいるように。
そして彼も彼自身が言っていたように。
その永劫に等しい歳月の中でありとあらゆる生き物や時代。ありとあらゆる色を見て染まって来た結果の果てに、泰然自若とした精神性を獲得するに至ったのではないのかと、手前勝手に想像してしまう。
私を含め人間の生涯は、彼らと比べてしまえば遙かに短い。
染まれる色も、精々が数色と限られている。
しかしそれでも、本質的な所で人間と妖怪が似通っているのであれば、もしかすれば互いの色と交わることもそう難しい話ではないのかもしれないと。
そんな想像、願望が頭を過ぎってしまう。
「ッは、くはは。」
しかしそこで突如、それまで黙って私の言葉を聞いていた彼は弾かれたように笑った。
「良いね。良イねェ。本当に・・・、本当に良いねぇ。」
大きな眼球のすぐ下に黒色の亀裂が走る。
その眼球のすぐ下の口角が、緩やかな弧を描くように大きく裂けたのだった。
「やはり俺の眼に狂いはなかったみてえだ。
主様には申し訳無えんだが、どうにも浮気してしまいそうになっちまう。
安藤さん、改めてアンタに惚れ直しちまった。その骨の髄、魂の一片までもまでしゃぶり尽くし、憑り付き殺したくなっちまうくらいになぁ。」
そしてこれもまた生まれて初めての経験。
「・・・そういうとこだぞ、お前。」
愛の告白と死の宣告。
決して相容れない筈の両者が混在し同居した、ごく普通の人間であれば恐怖で失神しかねない祝福を囁かれたのは。
「そんなこと言ってるから、いつまで経っても人間が妖怪に恐怖を覚えずにはいられなくんるんだろうが。」
「お、良いねえ。大分砕けた口調になって来やがった。
やっぱ気の置けない友ってのはこうでなくちゃな。」
「ならば親しき仲にも礼儀は在るのだとも、弁えておくべきだな。」
「手厳しいこった。でもまあ、心に留めておくとするよ。
互いにとっての適度な距離感を保つことが、長く友好関係を維持する秘訣なのは妖怪も同じだからな。」
伊達に人間の数倍の年月を生きて来ただけの事はある。
しみじみと呟いた言葉に宿る説得力が段違いだ。
そしてソレに籠る実感の生々しさも。
「それで安藤さん、これからどうするつもりよ。何かの取っ掛かりでもあんのかい?」
「それなりには、な。」
私が不在の際に聯隊を訪れた海兵達。彼らがまた出直すと言っていたのであれば、特にこちらから行動を起こす必要も無く再び向こうから私に接触を計ってくる。
こちらはそれをどっしりと待ち構えるか。
それとも先に私から行動を起こして、そしてあわよくば主導権を握れるように図るか。
結局のところは昨日思い至った考えそのものでしかなかったが、
「・・・、どちらにせよ現状では難しいか。」
数秒の思案の後に出てきた結論はそれだった。
理由は明快。
「単純に情報が不足している。」
何にしてもそこが足りていなければ話を有利に進める事は出来ない。
「なら方針は決まったな。先ずは情報収集だ。」
肩の上に鎮座する彼はそう結論付けた。
「だったら少し寄りたい所がある。」
「へぇ、それは?」
「俺の行け付けの居酒屋だよ。」
初めはただそこが偶々目に付いて、それで何となく気の向いた儘にその暖簾を潜っただけだった筈なのに。
「情報集めがてらちょっと酒をひっかけに、な。」
「意外とイイ根性してんな安藤さん。勿論俺は大賛成だぜ。」
気付けば、しょっちゅうそこへ足を運んでる。
なんだか私が何かを思い立ったときは、いつもあそこに居た様な気がする。
或いは。
そんなときだったからこそ、あそこに居たいと。
そう己でも気付かぬうちに願っていたのかもしれない。




