第1章の55 雲流
広尾線三聯隊裏駅から都電に乗り、青山線、牛込線と幾つもの路線や駅を乗り継いでゆく。
乗換えの待合時間と路面電車の移動速度を鑑みれば、果たして鍛錬がてらに最初から走って向かった方が金も時間も幾分か浮いたに違いない。
だがそれも最早後の祭り。
今更脚に切り替える意義も無く、それに初めに決めたことを態々後になって覆すのは性に合わない。
そんなこんなで、緩やかに流れていく窓の外の風景を腰掛けた長椅子からぼんやりと眺める。
そうして街中を長閑に進む電車に揺られた末に、やがて視界の端に見えて来るのは目的の駅、市ヶ谷見附。
そこで下車して外堀を渡ってしまえば、その先に広がるのは今ではもうすっかりと見慣れてしまった街並みだ。
ここまで来れば、後はもう考える必要も無く、足が自ずからそこへと導いてくれる。
あれから幾度も通ったあの店に。
そうして導かれるが儘に歩を進めれば、その先にそれは変わらずそこに在る。
そしてこれもまた、何度も潜った暖簾を通り抜ければ。
やはりこれも、聞き慣れたこの店の主の声が聞こえてくる。
「いらっしゃいませ、兵隊さん。どうぞこちらのお席へ。」
聞こえてくるのだ、と。
そうまるで疑いもせずに私はここへ足を踏み入れた。
「・・・どうかなさいましたか?」
果たして傍から見た今の私は一体どんな顔をしていたのだろうか。
きっと、いいやまず間違い無く、見るも無様な阿呆面を曝してしまっていたに違いない。
目の前の者も、そんな私を不思議そうに小首を傾げながらじっと見つめている。
「あ、ああ。いいや・・・、何でもないよ。
自分でも気付かぬうちに疲れが溜まっていたのだろうな。少し頭がぼうっとなってしまっていたらしい。」
「そうだったのですね。毎日のお勤めご苦労様です。
でしたらどうぞ、今夜はごゆっくり寛いでいってくださいませ。私も兵隊さんのお疲れを解せるよう腕によりを懸けておもてなし致しますので。」
そう言って、目の前の彼女は心温まる言葉で私を寿いでくれた。
だがソレとは全く別に。
果たしてこれは、一体全体どういうことなのか。
それこそ間抜けにも入る店を間違えてしまったのか、と言う考えが頭を過ぎる。
だがここの外見も潜った暖簾の意匠も、そして今正に私が立ち尽くしているこの空間も、そのどれもが良く慣れ親しんだソレであることは確かだ。
ならば今私の目の前で朗らかに微笑んでいるこの女性は一体何者なのか。
しかも物凄い美人というおまけ付き。
だが今はそれはどうでも良い。どうでもよくは無いが、大した問題ではない。
このまま促される儘に任せてしまっても良いのかもしれない、という衝動に駆られるが、
「済まないお嬢さん。一つ伺っても良いだろうか。」
まずは確認が先だ。
「はい、何でございましょうか?」
「ここの主についてなんだが、」
と、言いかけた瞬間、
「うーい、只今戻りましたぞっ、と。」
軽薄な声と共にガラガラと軽快な音を立てて背後の戸が開いた。
「留守番ありがとうございました朔夜さん、って、あらら?」
そして今度こそ、
「いらっしゃい安藤さん。丁度今し方良い酒を手に入れて来たところだったんだ。
是非とも飲んでいってくれよ。」
ピタリと、最後の一欠片が嵌るかのように。
その聞き慣れた声が私の背後から聞こえて来た。
※
「そういえばこうして会うのは初めてだったか。」
「柊朔夜と申します。」
深々と、大将の隣に立つ女性は礼儀正しいお辞儀をする。
「朔夜さんは俺が学生をやってた時の一つ下の後輩でな。学年は違えども、まあそれなりには仲良くやっていたんだ。そんで卒業後、俺は働き始め、朔夜さんは大学に進んだんだ。」
「それはまた凄いな。」
知らぬうちに感嘆の溜め息が溢れる。
男ですら大学まで進むことは珍しい今日日それが女性ともなれば、まさしく本当の一握りの存在に限られる。
であれば彼女が、如何に優秀で非凡な人間であるかは想像に難くない。
「そんで今日みたく、時偶こうして店を手伝って貰ってる。
朔夜さんとっては適度な小遣い稼ぎと社会勉強を兼ねて。そして俺にとっては頼もしい次板としてな。」
「こうしてお会い出来てとても幸せです、安藤さん。
安藤さんのご噂は天音さんから予々伺っておりましたから。」
「そうなのか?」
「はい。お客様ついての話は天音さんはあまり出さないのですが、唯一安藤さんの事は度々話題に出しておりましたので印象に残っていました。それにその時の天音さん、とても楽しそうな顔でお話をなさってましたので。」
そう話す彼女も、どことなく嬉しそうな風だ。
普段の少し胡散臭く、常に飄々としている姿しか見ていない身からすれば、俄かには信じがたい話なのだが。
だがそれでも、もしその言葉が本当にそうだったとしたらと思うと素直に嬉しくなる。
だが同時にそれはそれで何処か照れ臭いような気もし、何ともむず痒い。
「朔夜さん、あんまり余計なことは言わんで下さい。この人、外見は如何にもな堅物に見えて、案外直ぐ調子に乗りやすい人なんだから。」
「心外だな大将。俺のここでの記憶にそんなものは無いんだがな。」
勿論ここの外でも酒に呑まれたり、女性を前にして鼻の下を伸ばしたりする様な醜態を働いたことも無い。
「さて、どうだかねえ。酒に呑まれた奴の第一声ってのは決まって、俺は酔ってねえ、だからなあ。
その記憶が果たしてどれだけ当てになるのやら。」
やれやれ。
相変わらずの口の減らない男だ。
「わかったよ。取り敢えずはそういう事にしておこう。」
ここで下手に食い下がれば、屁理屈の底無し沼に引き摺り込まれるのは目に見えている。
それに、
「珍しいモノ、面白いモノも沢山見れたしな。」
普段にも増して良く舌の回る大将。
その大将でも頭の上がらないであろう女性。
そして何よりも、今の私の言葉に一体何を思ったか思いっ切り苦虫を噛み潰したかのような、少なくとも私がここへ来て以来初めて大将が見せたこの上無い程の渋面。
これだけでも今日の肴として十分以上に満足の行く品揃えだった。
※
「それで、安藤さん。今日もまた何かあったのか?」
聞き慣れた問い掛け。
だがそれは大将だけに限った事じゃない。
「何か、とはまた曖昧な問いだな。人間生きていれば、大なり小なり何かしらの転機と必ず巡り合う。
それを指して何かあったのかと問われれば、当然あったと答えるより外無いな。」
この手の質問のされ方は、大して珍しくも無い使い古された常套句だ。
取り敢えず何か適当に、曖昧なモノの利き方で相手の内側のものを引き摺り出す。
そうして出て来た答えに、やはりだの、自分が思っていた通りだ、と。恰も端から知っていたかのように知ったかぶりをすれば、それが取っ掛かりとなる。
だからその手には乗らぬ様、こちらも取り敢えず曖昧な答えを返す。
だというのに、
「カァーッ、駄目だ駄目だ、全ッ然駄目だッ!何だいそのクソ程も面白くもねえ返しは。
こっちはそんなクソ小賢しいクソ屁理屈聞きたくてそんな質問したんじゃねえんだよ。」
調理台を挟んだ向こう側にいる男はそこまで言うかというぐらいにくそみそに貶してくる。
確かに誤魔化そうと煙に巻きはしたが、流石にここまでこっ酷く罵倒される覚えは無い。
「天音さん、流石にそのような言い方は・・・、」
売り言葉に買い言葉。流石に見かねたのか朔夜さんは制止に入るも、
「心配ご無用ですよ朔夜さん。
俺と安藤さんにとって、この程度は挨拶代わりみてェなモンですから。」
一考にもかけず大将は彼女の諌言を一蹴する。
「それで安藤さん、話を戻すぜ。アンタが全部分かってる上ですっとぼけてんのか、それとも本当に何も知らないのかはこの際置いておくとしよう。
その上で、だ。アンタがここに来るのは決まって職場で何かが有った時だ。」
そう言って一体誰の真似だか知らないが握った右拳から、
「一つは周囲との人間関係。」
一つ、そしてもう一つと、
「そしてもう一つは外との商談とか、な。」
順番に人差し指と中指を立てていった。
「まあ、軍務に対して商談って言葉を使うのも可笑しな話だが、要は外部からの接触や外部への折衝と解釈してくれれば良い。」
顔色にも動作にも、毛程も私は出ていなかった筈だったのだが、
「・・・はあ、参ったよ。大将の言う通りだ。」
果たしてこの大将の言葉は、見事正鵠を射ている。
こうも見事に把握されてしまっていては誤魔化すのも野暮だ。
「聯隊内で色々とあってな。それで考えの整理と、仕事で溜まった鬱屈を晴らす為にここに来たという次第だ。」
「やっと素直になってくれたか。因みにその色々ってのを聞こうと思ったんだが・・・、」
「ここまで口が滑ってしまったが、流石にその先を離す訳にはいかんよ。
軍事上の守秘義務を破りでもしようものなら、確実に俺の首が飛ぶからな。」
「人の話は最後まで聞こうぜ。別に軍の秘密を素破抜こうなんざ、これっぽっちも考えちゃいねえよ。」
と言って、親指と人差し指の、微かに開けた隙間から細めた眼を覗かせる。
「せっかく素直になってくれた礼として、その色々ってヤツが何なのか言い当ててやろうと思ったんだよ。」
「は?」
何だそれは。そんなモノ当てられる筈が無い。
仮にそんな事をされれば、そんな事があってしまったら。
彼らの言う計画の存続そのものが左右されかねない事態に等しい。
だからこそそんな事態が万に一つでも起こらぬ様、彼らは今まで秘密裏に進めて来たのではないか。
「なあ、安藤さん。」
だと言うのに。
目の前の男は、いとも容易く、
「最近一部の海兵がこそこそと動き回っているよな。」
こちらの急所を看破してみせたのだ。
そして今度こそ、心を静め外面を取り繕う程度の余裕すらも消え失せてしまった。
「やっとイイ表情になってくれたな、安藤さん。
てことは、俺の見立てもあながち間違いじゃなかったってことか。」
※
「妙なことになってしまった。」
彼の店から出て自宅へと帰る道すがら、そんなぼやきが零れ出る。
心地の良い酩酊感など当の昔に何処かへ消し飛んでしまった。それどころか、まるで冷や水でも浴びせられたかのように強烈に頭が冴え渡る。
「ただ単純にあそこには酒を呑みに行っただけだった筈なのに、それがまさか一発目から大当たりだったとはな。やっぱアンタは何か持ってるよ、安藤さん。」
そう私の肩に纏わり付く瞳蟲は、他人事のようにせせら笑う。
※
『どうしてその事を知っているのか、だって?
おいおい、そんなおっかねェ顔して下さんなよ。テレパシイだの神通力だのの奇天烈摩訶不思議な力なんてモンじゃねえ。仕掛けはねェが種はちゃんとあるぜ。それも飛びっ切りのな。』
『それは?』
『単純明快、人から聞いたからさ。』
『・・・聞いた、だと!?』
『俺らには横の繋がりがあってなあ。そこから仕入れた情報だ。』
『横の繋がり・・・、それは他の居酒屋や飲み屋同士の組合や繋がりの事か?』
『ご明察。そんでその繋がりの中の一つから聞かされたんだよ。数日前の晩、そこでどんちゃん騒ぎをしていた連中の会話をそこの従業員が聞いていたんだと。
詳しい内容までは流石に漏らさなかったらしいが、何らかの決意表明の掛け声や所属隊の名乗り口上なんかを、そりゃもう馬鹿みてェな大声でやってたもんだから身元の方は筒抜けだったらしいぜ。』
『・・・。』
※
ああ・・・、確かに飛びっ切りには違いない。
明かされてしまえば拍子抜けする程、飛びっ切り単純な落ち。
あそこで大将に気の利いた言葉の一つでも返していれば更に酒も旨くなっていたのだろうが、そうはならなかった。
気が付けば、あの瞬間の私は頭を抱えて項垂れていた。
恥も外聞も、まるで取り繕う余裕も無く。
「あの話を聞いた直後の、アンタの顔ったらそりゃもう傑作だったぜ。
あんなデケェ溜め息を聞いたのも、それこそ何十年ぶりのことだろうなぁ。」
まるで成長していない。
そんな呪詛を吐き出したいという衝動を、その瞬間の私がどれほど堪えていたことか。
「何たる愚昧か。」
その愚昧さをただ只管に鼻で笑い飛ばし、嘲ることが出来たらどれだけ良かったか。
「何たる軽挙蒙昧か。」
だが嘗て身内の人間が同様の大失態をやらかしていたが故に、今回の事を笑い話にすら出来ない。
そしてとなると、今度はその軽率な言動に対する怒りが溶岩の如くに込み上げて来る。
「・・・桜会の騒動からまるで何も学習していない。」
だがその湧き上がる怒りも即座に大きな溜息となって身体から抜け出していき、喪失感だけが中へ取り残される。
「昨年の十月のことだっけかな。
あの時は主様も珍しく、怒りのあまり物や俺達に当たり散らしてたからなあ。」
昨年の昭和六年十月。
現行政府の転覆を謀り、新生政府樹立を目的とするクーデターの計画が密かに進められていた。
その計画には桜会の構成員、即ち陸軍の中堅幹部を中心として帝都周辺に散らばる在郷軍人、大川周明、更には北一輝先生などいった学者等も加わるなど相当に大規模な計画だった。
だがそれは一斉蜂起の瞬間を迎えることも叶わず、計画は頓挫し、終焉を迎えた。
その前に計画が露見し、憲兵隊による一斉検挙を受ける羽目となったのだ。
何故この計画が漏洩したかについては諸説ある。
「最も有力なのが先の大将の言葉だ。」
決起隊員の一部がある晩に赤坂の料亭にて乱痴気騒ぎで朝まで飲み明かし、その時の大声で話していた会話の内容から計画の内容が漏れてしまったとするもの。
「何が真実なのかは今となっては分からん。だが現にこうして秘密である筈のものが市井の耳目に晒されている結果を見れば、これが計画の破綻を招く一つの要因になってしまっている事は確実だ。だというのに・・・。」
改めて想い返せば想い返す程に、落胆と虚無感が募る。
「結局人間ってのはそんなもんだ。口では耳障り良い言葉を並べ立てようとも、己がその立場に立たされねェ限りは絶対に目が醒めねえ、何処までも他人事の冷めた儘なんだよ。」
「とは言え、全くの無意味だった訳じゃない。
怪我の功名ではあるが、今回の海軍の決起に便乗する益など無い事が知れただけでも進捗はあったのだから。ついでにむこうからの援軍要請を断る体の良い建前にもなるしな。」
「だったら安藤さんがやろうとしていた情報収集の成果としては上々の出来だった、と。」
そう・・・。
ここまでの話だったら、何の問題も無く終わっていた。
「そう言いたかったんだが、そうも行かなかったんだよなァ。」
なぜなら最後の大将の一言。
それがこの先の雲行きを怪しめかねない一声だったのだ。
※
『そんだけ態度に出ちまったら誤魔化しようもねえよな。どうせソイツ等かその仲間と会う約束でもしてんだろ、安藤さん。
だったらよ、この情報の提供料として俺もその密会に加えてくれよ。』




