第1章の51 不絶水
「天音さん、只今上がりました。」
風呂から上がった朔夜さんが店に顔を覗かせる。
「ああ、了解です。
それと寝床は二階に用意しておきましたんで、好きに使ってください。」
客席の長椅子に横になって煙草を吸っていた俺は、適当に天井を指さす。
今日の仕事は全部終わった。
一服が済んだら俺も寝る準備を始めようかと、ぼんやり考えていたところでふと気が付く。
「どうしかしましたか?」
朔夜さんがまだそこに居たことに。
「あの・・・、天音さん。
もしよろしければ、もう少しだけご一緒しませんか?」
ちょこんと、奥の廊下から顔を覗かせて、おずおずと聞いてくる。
「構いませんよ。俺も何だか少し飲み足りないと思ってたんで。
それに朔夜さんの頼みとあっちゃ、断る訳にもいきませんからね。」
「フフフ、ありがとうございます。」
パッと花が咲いた様に。
可憐で、それでいて少し悪戯っぽい笑みを浮かべながら、朔夜さんは店の中に入ってくる。
その表情が。その姿が。
寝間着に濡れ髪を自然に流し下ろした姿が、矢鱈と艶かしく色っぽい。
嘗てこの人に、果たしてどれだけの同年代の男子が撃沈し、泣きを見たことか。
深窓の令嬢、朔夜さんを形容するなら正にこの言葉が相応しい。だからと言って純粋培養の世間知らずのお姫様と言われれば、それは断じて否だ。
これでこの人も中々に強な性格を隠し持っているのだから。
「どうしましたか?」
不思議そうに朔夜さんは首を傾げる。
「ああ、いや・・・。」
いつの間にか、見惚れてしまっていたようだ。
「昔からだったけど、それでも今日はまた一段と色っぽいと言うか。」
いつだったか誰かが言った、華麗な薔薇には棘が有る、とは言い得て妙だ。
彼女の本質を穿ちつつ、且つそれもまた朔夜さんの美点であるかのように聞こえるのだから。
「有り体に言えば、エロいなって。」
「・・・天音さん?」
じっとりとした視線が向けられる。
「冗談ですよ、冗談。
だからそんなに睨まないでくださいって。」
「まったくもう。
余り人を揶揄わないで下さい。」
少し拗ねた様に頬を膨らませて、朔夜さんはそっぽを向く。
「奢りますから機嫌直して下さい。」
「・・・ありがとう、ございます。」
硝子の杯に並々と注がれた、淡い黄金色の液体。
無濾過の、原酒本来の稲穂色。
ちびり、ちびりと。
少しずつ、味わい確かめる様に朔夜さんはそれを口の中に含む。
「・・・、美味しいですね。」
少しずつ、機嫌を取り戻す様に、でも若干悔しそうに飲んでいく。
「俺のお気に入りの一つです。」
悪女、って訳じゃない。
寧ろ善悪で尋ねられれば、彼女を知る人間なら全員が全員、迷わず善人だと答えるだろう。
只それでも、一筋縄では行かない、と。
人の性質を表現するのに、果たしてこの言葉が適切なのかは知らぬが、それでもこれが一番しっくり来る。
そういった捉え所の無さも含めて、一筋縄では行かないのだろうな。
「今日は本当にありがとうございました、天音さん。」
乾した杯を置き、朔夜さんは微笑む。
どうやら機嫌は直ったらしい。
「あんなに楽しそうな蓮太郎さんの顔は、私も久し振りに見ました。」
仄かに赤らんだ頰に、少し眠たげに瞼の下りかかった目。
「お気に召して戴けたようで何よりです。」
いつもは笊の朔夜さんも、珍しく酔いが回っている。
「本当は、此処に来る前は少し不安だったんです。
私はそれなりに前から天音さんの動向については知っていたから良かったのですが、蓮太郎さんはそうではなかったので。」
別に仲違いをした訳じゃない。
それこそ俺は、今でもあの人の友人のつもりだ。
だが只本当に、只管に機宜が合わなかった。
「どうにもずるずると機を逃していくうちに、いつの間にか伝も手段も失っちまって。」
進学や就職。
身の周りの環境の変化と共に、人との繋がりも変遷せざるを得ない。
新たに得る人脈もあれば、失いたくなくとも、気付けば失っていた人間関係もある。
或いは朔夜さんとの様に、ふとした偶然から再び繋がる縁もあるかもしれない。
だがそれは、本当に稀で幸運な事だ。
大抵は一期一会。
一度繋がりが途絶えれば、再会は難しくなる。
「だから俺も、朔夜さんと同じでしたよ。
今日ここに蓮太郎さんを連れて来る、って言われた時は柄にも無く不安が過った。」
何と言葉を掛ければ良いのかも、どんな顔をして会えば良いのかも分からなかった。
言いたい事も、募る話も山とある筈なのに、その思い浮かぶ言葉のどれもが、正解でないかのように思えてしまう。
「まあ、実際に会ってしまえば何の事は無え。
まるで俺の杞憂でしかなかったんですが。」
「そうですね。
いつも通り、と言うのもおかしな言い方ですが、本当にいつも通りの、昔日のお二人を見ているようでした。」
だけど蓮太郎さんは、昔と何ら変わっていなかった。
常に移ろい変わり行く世界の中で、彼は彼の儘でいてくれた。
時の止まった過去から、俺を今へと引き上げてくれた。
それが何より俺にとっては有り難かった。
「ありがとうございました、朔夜さん。
久々に、本当に楽しい時間を過ごさせてもらいました。」
途中、思わぬ来訪は有ったが、あれはあれで有益な話が聞けた。
「礼には及びません。」
「それでも言わせてくれ。」
この言葉を最後に、一時の沈黙が訪れる。
朔夜さんは静かに猪口を傾けて、俺はその姿をぼんやりと眺めていた。
そんな幾許の心地良い静寂も、やがて終わりを迎える。
「また今度も、三人で一緒に飲みましょうね。」
そんな朔夜さんの囁きによって。
「別に俺は明日でも明後日でも構わないけどな。」
「フフ・・・。流石に毎日は天音さんのご迷惑になりますし、それにお金も無限ではありませんので、また何れの日か、という事にしましょう。」
大分酔いの回った、今にも瞼の落ちそうな眠たげな目をしている。
「だから、困った時には私達を頼って下さいね。」
しかしそんな彼女の様子とは裏腹に、朔夜さんの声は明瞭に響き渡る。
「詳しい話は知りません。
ですが天音さんが大変な事に、もっと言ってしまえば危ない事に関わっているのは何となく分かります。」
否定はしない。と言うか出来ない。
流石に気付かれるだろうとは分かっていた。
あれだけクセの強い人間に絡まれれば。
「危ない真似はやめろ、とは言わないんですね。」
「大して事情も知らない者が、やめて下さいなどと簡単に言うのは烏滸がましいですから。
それにあの学校に通っていた・・・、いいえ、そもそも魔術に携わる方に対して、その言葉は的外れも良いところですよ。」
蓮太郎さん然り。
そして何れ大学を卒業し、その道へ進む事になる朔夜さんも然り。
当人の望む、望まないは関係ない。
魔術などと言う、およそ公に出せない力を行使する者は、必ずおよそ公に出せない事件や怪異に巻き込まれていく。
それが当然の帰結。
「かと言って、見て見ぬ振りなどという義理に背く真似も出来ません。
だからせめて、及ばずながらでも力添えをしたいのです。」
「義理って、一体どこの侠客ですか。」
「父が広島のその筋の方でしたから、その手の事は幼い頃から厳しく叩き込まれました。」
「ああ・・・。」
そう言えばそうだった、と。
随分と懐かしい思い出が蘇る。
教室はおろか、学年すらもばらばらだった俺達が放課後に毎日一つの教室に集い、馬鹿をやっていた。
互いの身の上話に華を咲かせた事もあった。
「思えば、あの頃から朔夜さんも変わってなかったんですね。」
義に厚く、不義を許さない。
強きを挫き、弱きに手を差し伸べる。
昨今は時代遅れも甚しい、埃被った古臭い仁侠魂。
「姿形、身分や立場は年月により変われども、その内面はそう簡単に変わるものではありませんよ。
それが人間の長所であり、短所でもあるのですから。」
「敵わねえな、朔夜さんには。」
だがだからこそ、そんな朔夜さんが尊く眩しい。
そしてだからこそ、心を惹かれた。
「了解です、朔夜さん。
俺も危ない橋を渡る気なんざ更々無いですが、万が一の時は、蓮太郎さん共々に御力を借りに参ります。」
「ええ・・・、その時は私も、全力で助力致します。」
そして力尽きたかの様に。
朔夜さんはゆっくりと机の上に俯き伏した。
「あーあー。ここは寝るとこじゃねえ、ってのに。」
全くの無防備で、しかも幸せそうな寝息まで立てて。
「信頼されてる、って事か。」
でなければ、うら若き女性が男の前で無防備を晒す筈が無い。
「ならその信頼、裏切るにする訳にはいかねえよな。」
◇0
「さて、如何でしたかな?
懐かしき人物との再会は。」
「ああ、貴様か。占い師。」
月光も街灯の明かりも差し込めない暗黒の路地裏から声が差す。
するとその深淵の闇の中からスルリと音も無く、占い師と呼ばれた男は姿を現した。
「実に有意義で、愉快な時間だった。」
「それは重畳にございます。そう仰って下さるのあれば、私も閣下のご相談に乗らせて戴いた甲斐があったと言うもの。」
「占い、か。そう言った非科学的なものはこれまで信じて来なかったんだが、中々どうして侮れん。
それともあの小僧と同様、それも魔術の一端なのか?」
「ええ、ご明察通り。
本来は自らの商売道具のタネを明かす真似はしないのですが、即座に看破されてしまいましては白を切る意味も有りません。
それでも私めなどは、そのお方とは比べるべくも無い非力な存在に過ぎませんが。」
「そうか。何にせよ大義だった。」
「お褒めの言葉を下さり、至極恐悦に御座います。」
恭しく男は頭を下げる。そして、
「閣下のご満足頂けたお顔も確認出来たことですし、私はこれにて失礼致します。」
そう別れを告げると、占い師と呼ばれた男は踵を返した。
再び元来た暗闇へと向かって。
「ああ、そうだ。
一つ、聞いておきたい事があったな。」
闇の中へと完全に溶け込むか否か、
「何故、あの男だったのだろうな?」
その間際で、ピタリと足が止まった。
「あの小僧、佐倉天音は言っていたよ。
都合が良過ぎる、とな。」
「・・・へえ。」
感心するような声を漏らした占い師の表情や姿は見えない。
唯一闇の中に入り損ねた足が反転し、その爪先が再び男の方を向いた事だけは、辛うじて見えた。
「さて、それは何故なのか。
その時は俺も特に何も思うところは無かったが、今改めて考えれば不思議ではあったな。」
それこそ彼、森恪の人脈は佐倉天音とは比較にならない程広大だ。
中には当然、久しく顔の合わせていない人間や、連絡の取り合っていない人間もごまんと存在する。
ならば何故、その大海の一滴が彼、佐倉天音だったのか。
「ただ、心当たりが無い訳では無い。」
その他有象無象と佐倉天音との差異。
「それはあの男が魔術師だからと、俺は思う。」
「何故そうお考えになられたか、聞かせて戴いても?」
「単純な事、俺の人脈の中に魔術師はあの男しかいないからだ。
或いは単に俺が知らぬだけで他にも魔術を使える知り合いがいるのかもしれぬが、少なくとも俺がそうだと把握しているのは、あいつだけだ。」
「だから、あの男だと?」
「根拠とするには、余りにも希薄に過ぎるがな。」
そう言って森は肩を竦める。
「とんでもありません。
寧ろその直感的な発想こそ、こと占術に於いては本質を突くものだと私は考えております。」
「ほう・・・、中々含蓄のある言葉だ。」
「と言いますのも、私が行う占いは未来の事象を予言するものではないからです。
勿論、他の方や先人達の多くは未来の事象、吉凶の予知に心血を注ぎ、その得た情報を提供する事を生業としておりますが、私の行う業はそういった方向性のものとは趣を異にします。」
「ならば貴様は何を与える?」
「私が提供するものは小さな鍵。
自身でも気付けぬ程小さな、深層心理の奥底に埋もれたその人物の渇望を悟る切っ掛けにございます。」




