第1章の47 祝杯
4月29日。
支那江蘇省上海市。
「茲に本日天長の佳節に際し、畏くも天皇陛下の萬歳を壽ぎ奉るを得ましたことは、臣民たる私の寔に光榮とする所であります。」
同市、虹口公園。
今日この公園では、天長節の祝賀会が開催されていた。
だかこの日の空は灰色に染まり、時折小雨がぱらつく生憎の天候となってしまったが為、一時は決行が危ぶまれていた。
しかしそれも、祝賀会の会場を埋め尽くす群衆を見れば、それが杞憂に終わった事は言う迄もない。
「天皇陛下に於かれましては、玉體愈々御健に在られせられ、御國運亦駸々として悠遠無窮に進みつつあるは、我等臣民の歓喜感激措く能わざる所に厶います。」
上海市だけではない。
今日という日を心待ちにしていた周辺地域に居留する在中居留民達は皆、挙ってこの祝賀会へと駆けつけた。
国民の祝日だから、ということもあるだろう。
だが理由はそれだけではない。
昨年、満州で勃発した支那と日本の間の紛争に加え、今年の1月末に、ここ上海でも生じた軍事衝突と、両国間の緊張の高まりが大陸で暮らす居留民達の生活に暗く深い影を落としていた。
そんな暗澹たる日々を送る彼らの元に舞い降りた一本の吉報が、この天長節祝賀会だった。
「結びとなりますが、本日は天長の佳節、天皇陛下の御生誕あらせ給いました吉日に厶いますからにして、杯を挙げて聖壽の無窮を禱り、御徳の万分の一を稱え奉りまして、祝賀の意を表します。」
この祝賀会は、ただ天長節をお祝いするだけの式典に止まらない。
ここ2ヶ月に及ぶ上海事変における彼らの祖国たる日本の勝利、そしてようやく立った停戦交渉の目処を祝賀する意図も含まれていた。
これで戦火に巻き込まれる事もなくなる。
いつ何処で、支那人に襲撃されるかわからぬ恐怖に怯える暮らしから解放される。
そんな誰しもが抱いていた不安や無力感。
だがそれも、今日この日を転機として好転に向かうのだと、祝賀会に参列した者達の胸の内には確かな希望が芽生えていた。
そう、確かな希望が芽生え、そして育まれていく。
参列者の誰もがそうなる事を願い、そうなるものだと思っていた。
祝辞が終わると共に、式台上にいた要人の一人が徐に右手を天高く掲げる。
その合図を待っていたとばかりに、虹川公園中に幾つ発もの砲音が鳴り響いた。
計21発におよぶ礼砲。
地を揺るがさんばかりの轟音は瞬く間に会場中を席巻し、暫くの間、大空へと木霊した。
やがてはその轟音も熱く覆う雲の向こう側へと消えていくにつれ、広場に静寂が舞い降りていく。
厳粛たる静けさ。
その静けさを再び断ち切ったのが、幾重にも重なる荘厳なる音色の調べだった。
「”君が代は 千代に八千代に 細石の、”」
海軍軍楽隊の奏でる金管、木管、弦楽器といった多種多様な楽器から成る合奏。
参列者達一同が、声と心を一つにして歌う一心同体の合唱。
「”巌と成りて”」
この場に集う総ての者達による、一糸乱れることのない斉唱がそこには在った。
この場の総ての者達が、祝賀会の締め括りとなる最後の催しを作り上げるべく、その身を国歌斉唱の一部と化していた。
そして斉唱は終曲を迎える。
「”苔の生すまで。”」
ふと、遠巻きから式壇を眺める者達は違和感を覚える。
祝砲の砲音が一つ多い、と。
それも何故か、国歌斉唱が終わった直後だ。
俄かに騒めき出す会場。そのどよめきは、前方の雑踏の方から次第に己のいる所まで流れて来ている。
そこで初めて彼らは遙か前の方で、人混みの隙間から微かに見える式壇の方で何かがあったのだろうかと、疑問を持った。
ならばその前方。
政界、軍部の要人が一堂に整列する式壇の真相や如何に。
「ひッ!?」
突如、己が網膜一面を埋め尽くす光の嵐。
その直後、己の耳へ飛び込んできた、空気を震わせる轟音。
一体何が起こったのか全く判らなぬ儘に、彼らは咄嗟に腕で顔を覆った。
そして光と音の奔流が過ぎ去り、再び正常を取り戻した視界に飛び込んで来たのは、
「あ、ああ・・・、」
それは腕だった。
それは足だった。
当然、己のものではない。現にこうして左右に感覚があり、両足で立っているのだから。
ならばコレは誰のモノなのか。
「キャアアアアーーーッ!!」
「うわあァァーッ!?」
耳を劈く悲鳴が至る所から上がる。
その瞬間、眼前の現実感の無い光景に放心していた彼らの意識も、否応無くへと引き戻される事となった。
壇上、そしてその周囲に飛び散った大量の血。
血の海の中に沈む、幾人もの人間の身体。
一目で即死したと分かる者もいれば、まだ微かに息のある者もいる。
だが果たして、それが幸運だったのかは定かではない。
「うう・・・、助け、て、く・・・れ。」
腕が千切れ、足が吹き飛び、しかしそれでもまだ死ねず、苦痛に苛まれながら芋虫のように弱々しく這いずる事しか出来ないのだから。
悲鳴を上げ、我先に逃げ出そうとする者。
目の前の惨劇に理解が追い付かず、茫然と立ち尽くす者。
懸命に声を上げ、事態の収束を試みる者。
そして必死で蘇生措置を講じ、重症者の命を繋ごうとする者。
荘厳で厳粛たる式典の空間は一瞬の内に、混沌と阿鼻叫喚の坩堝へと叩き落とされてしまった。
※
『上海の天長節式場で重光公使等重症 白川大将、野村中将も負傷 怪支那人の手投弾で
昭和七年四月二十九日 號外
本日午前十一時半、上海新公園の天長節祝賀式、君が代合唱中、突如式台上の重光葵公使、白川義則司令官等に向けて手榴弾を投じた者あり。
白川大将は顔面に、重光公使は負傷箇所不明だが昏倒し共に重症を負ひ、式場は混乱に陥った。
また来賓席中央にテーブルに居合わせた来賓は、爆弾の為、全員負傷した。
犯人は先ず二名、その場にて捕縛された。』
『停戦会議は延期 我が代表更迭せず
昭和七年五月二日 朝刊
上海新公園における爆弾事件の勃発により、停戦会議の我が首脳者たる植田謙吉委員長、重光葵公使等傷付きたる為、停戦協定調印の運びになっていたものが事実上延びる事となった。
犯人につき尚取調中で、停戦会議と爆弾事件とは全然関係無きものとは即断出来ず慎重に扱はんとしているので、停戦会議に相当の影響を免れぬものと見て居る。』
『上海爆弾事件の犯人は朝鮮人 容疑者十数名捕縛
昭和七年五月六日 夕刊
上海爆弾事件犯人に関し、上海出先官憲は協議の上、本日午後三時左記の如く発表せり。
尹奉吉 明治四十年五月十九日生
本籍 朝鮮忠凊南道麗山郡徳山面楠梁里一三九
本名は四月二十九日午前十一時四十分頃、虹口公園にて開催されし祝賀会にて国歌斉唱の最中、式台後方より所持の爆弾を式台に投擲し、白川軍司令官、野村司令長官、重光公使をはじめ、多数の要人を死傷至らしめたるものなり。
本名供述の模様により、朝鮮人の団体的背景ありと認められたるを以て、一大捜査を敢行し、容疑者安昌廣以下十二名を捕縛せり。
依りて目下厳重取調中。』
◇6
ここ連日に渡って何処も彼処も、上海で起きた爆弾テロ事件を挙って取り上げていた。
新聞、ラヂオ、或いは市井の風聞。
見るにせよ聞くにせよ、ここの所この手の話題が欠かされることは無かった。
「まあ、当然、っちゃ当然か。」
陸海軍の大将や中将、外交官といった政府の要人が襲撃されたんだ。ニュースにならない方がどうかしてる。
加えて要人がどうこうだけの問題じゃない。
態々、天長節という日を狙ってこんな事件を起こした。
これは即ち、天皇陛下、延いてはこの大日本帝国に対する明確な宣戦布告に等しい。
「と、考えるヤツも出て来るんだろうな。」
いや、最早そう考える人間の方が多いのかもしれない。
今年の1月にも、直接帝を狙って桜田門で襲撃を掛けた奴がいた。
それも確か朝鮮人だった筈だ。
その緊張が冷めやらぬ内に今回のこの事件だ。
「やれやれ。何にせよ、馬鹿な真似をしてくれたもんだ。」
それが結局は、自らの首を絞める羽目になるとも知らずに。
溜め息と共に吐いた紫煙が空中を揺蕩い、そして溶けてゆく。
「とは言え、流石に毎日このニュースばかりじゃ流石に飽きが来るな。」
手にした新聞を放り投げ、ラヂオのダイヤルを回して適当な歌謡曲を流している局へと合わせる。
話題の移り変わり、情報の風化、ってのは早い。
ほんの一週間ほど前までは青山での妖怪の目撃騒ぎ、雷騒動で世間の関心は持ちきりだったのに、今となっちゃ件の爆弾事件に押し潰されて見る影も無い。
別にあの騒ぎが解決したという訳でもないのに、だ。
まあ、新聞にしろ、ラヂオにしろ売れて何ぼ、読まれて何ぼの数字の世界。
ならその数字を稼ぐ為に、新鮮なネタを仕入れて来るのは道理。
情報、っては生物だ。
鮮魚や刺身と同じ、時間が経てば経つ程、価値も旨味も減っていく。
そして古く使えなくなったヤツは、新鮮な情報を陳列するスペースを確保する為に廃棄される。
結局の所、メディアも商売には違いないのだから。
「ッと、そろそろだな。」
壁に立て掛けられた時計を見ると、短針はもう間も無く6時を回る頃を指していた。
もう間もなく店を開ける時間だ。
暖簾を掲げるべく、入口へ向かうと、
「よう、もう開いてるかい?」
手を掛ける前に入り口の引き戸が、ガラガラと音を立てて開いた。
「おいおい、まだ暖簾は上がってないぜ、じいさん。」
「堅い事言うでない。お前さんも今、正に上げようとしておったじゃろうが。」
そこにいたのは六十代半ばと言ったところの、それなりに老境に差し掛かった男。
うちの常連客の一人だった。
「はあ・・・、しょうがねえなあ。
良いぜ、取り敢えず入って空いてるところに座っといてくれや。」
「ホホ、そうこなくてはな。」
ホクホク顔のじいさんは、ひょこひょこと中へ入って来る。
「む・・・。」
と、そこで何処に座ろうか中を見回していたじいさんは何かに気が止まったらしい。
「お前さん、あそこは・・・、」
「ああ、あれは予約の客の席を取ってあるんだ。」
「ほう、予約とな。」
「俺の友人が来るんだよ。」
「成る程。だとすると今日の所は、儂は遠慮した方がええんかのう?」
「気い遣う必要はねえよ。
じいさんはいつも通り、好きに飲んでってくれや。」
「そうか。ならば遠慮無く飲ませてもらうとしよう。」
そう言ってじいさんは席に付く。
遠慮はしないとか言いながら、彼は態々端の末席へと座ってくれた。
「済まねえな。」
「なあに、お主等の語らいに水を差すような野暮な真似はしとうないだけじゃ。」
相変わらず粋なじいさんだ。
「そうかい。そんじゃ注文はどうする?」
「いつもので頼む。」
「了解。」
そうして今日初の客への支度に取り掛かる。
※
「それで時に、その友人とやらは何時来るんじゃ?」
数品の料理と、酒をちびりちびりと堪能していたじいさんは、ポツリを俺に尋ねた。
あれから暫く時間が経ったが、今の所の客はこの良い感じに酔いが回っているじいさんだけだ。
「さあな。予定ではもうそろそろ来ると思うんだけどな。」
チラリと時計を一瞥すると、時刻は6時も45分を過ぎている。
約束では7時前ぐらいと言っていたから、もう間もなくの筈だ。
「と、噂をすればってヤツだな。」
そう考えていた直後、硝子戸の向こう側に二つの人影が浮かんだ。
そしてその影は、子気味良い音を立てて戸を開けると、ゆっくりと中へ入って来る。
「今晩は、遅くなってしまい申し訳ございません。」
「いいや、そんな事はねえよ。時間通りだ。」
一つは上品で礼儀正しい女性、
「ここが前に言ってた店か。」
もう一つは、良く通る声の男の二人組だ。
「いらっしゃい、朔夜さん、蓮太郎さん。
準備はしておいたんで、とりあえずここに座っといてくれ。」
「いつもありがとうございます、天音さん。」
「何か見覚えのある顔だと思ったら、この店、お前がやってたのか。」
促されるままに、二人は調理場の前の勘定台に座る。
「ご無沙汰ですね、蓮太郎さん。
朔夜さんの方は・・・、まあ一週間振りぐらいか?」
「へえ・・・。」
その言葉に蓮太郎さんは目ざとく反応する。
「随分と狡いじゃねえかよ朔夜。こんな面白そうな所を俺に黙っとくなんてよ。」
「別に私は黙っていた訳ではありませんよ。
ただ今までご一緒する機会がなかったので、お教えすることが出来なかっただけです。」
「その割には随分と通い慣れてる、って感じだな。
良いねえ、こっそり二人だけの逢瀬を重ねる。
浪漫が膨らむなあ。」
「はいはい、無駄口はそこまでにしてさっさと飲みモンを頼んでくれ。
肴の準備は出来てるんだからよ。」
「へえ、用意が良いねえ。
それで、今日はお前の奢り、ってことで良いんだよな?」
「一夜の酒代も出せねえ程、落魄た、ってんのなら、仕方が無ねえから俺が恵んでやりますよ。」
「言うねえ。」
「誰かさんのお陰でね。そんで、何するよ?」
「天の戸の冷や。」
「畏まりっと。」
「済みません天音さん。私が無理を言ったばかりに。」
「んな事気にしちゃいねえよ。朔夜さん。蓮太郎さんのコレは今に始まった事じゃねえからな。」
まあ、こんな遣り取りも懐かしくて、ついつい乗ってしまった。
学生の頃からこの人はまるで変わっちゃいないな。
良い点も悪い点も含めて。
「それで、朔夜さんは?」
「玉の光を上燗でお願います。」
「了解。少々お時間戴くぜ。」
まず八重垣をちろりに注ぎ、湯煎に掛ける。
適温は48度。およそ1分程度か。
その間に、天の戸の冷やと先付を用意しておけば良い感じの時間になる。
「おまたせ。天の戸の冷やと玉の光の上燗、そんでトトキの味噌和えだ。」
「ととき?」
蓮太郎さんは訝し気な様子で、小鉢の中身を覗く。
「山菜だよ。今朝たまたま知り合いからコレを譲り受けてな。
丁度今の時期が旬との事だったから、早速使ってみた。」
「ふーん。」
「そんじゃ、二人とも早速乾杯といこうか。」
と言っておもむろに二人へ手にした硝子の猪口を掲げる。
「おい、店主。お前本当にそれで良いのか?」
「良いんだよ別に。客と一緒に店も酒を楽しむ、それがここの信条だからよ。
心配しなくても、この後もちゃんと料理も作るさ。」
「さっき俺にどうこう言っておいて、天音、お前も大概変わってねえな。」
「久闊を叙す、ってんなら、俺達三人はこんぐらいのノリの方が相応しいだろ。」
「それもそうだな。」
呆れ半分、嬉しさ半分と言った風に蓮太郎さんは失笑を溢す。
「そんじゃ改めて、久方振りの再開を祝して、乾杯。」
チン。
小さく、乾いた子気味良い音が三つ。
そして猪口に注いだ酒をゆっくりと、静かに、だが一息に飲み干す。
「さて・・・、やりますか。」
干した杯を置き、再び調理台に戻る。
楽しむのも結構だが、それでもあくまで俺は二人を歓待する側だ。
何時までも酒と思い出にばかり浸っている訳にもいかない。
「宴席順序で言えば、次は魚か。」
今日揚がったばかりの魚。
刺身も悪くはなかったんだが、今回は焼きだ。
シンプルな塩焼き。魚の旨味を直に引き出し、酒の味も引き立つ。
その為に、予め塩を振っておいた。
「塩焼き、ですね。」
「正解。」
「憎いねえ、旨そうな匂いを漂わせやがって。」
魚の匂いに気付いた二人が、作業場を覗いて来る。
焼網の上に置かれた魚から、時折雫が炭へと滴る。
その滴った水滴の蒸発する軽快な音を発するたびに、焼き魚の香りが広がってゆく。
「とは言え、焼き上がるにはまだ時間が掛かるから、先付でも摘まんどいてくれ。」
「了解。気長に待つとするよ。」
そう言って蓮太郎さんと朔夜さんは、酒と談笑に花を咲かせ始めた。
と、そこに、
「大将、勘定頼むよ。」
先客のじいさんは席を立ち、おぼつかない足取りで勘定台へ向かって来た。
「今日は早いな。」
「なーに、今日はお主等の水入らずの語らいの日のようじゃしな。老骨は邪魔にならんうちにさっさと退散させてもらうとするよ。それに早う帰らんと、また婆さんにどやされるからの。」
「気遣い、痛み入るよ。
そんじゃじいさん、夜道は気を付けて帰れよ。また途中の公園とかで居眠りすんなよ。」
「おうさ、任しとけ。」
そう言ってじいさんは後ろ手を振りながら戸の向こう側へ、夜の中へと消えていった。
「気さくな御仁でしたね。」
「俺のお気に入りの常連だ。」
「ふふ、如何にも天音さんと気の合いそうな人でしたもんね。」
「まあな。そんで朔夜さん、次は何を飲む?」
「それでは今度は私が天の戸でお願いします。」
そう言って朔夜さんは、酒でほんのり赤らんだ顔を綻ばせる。
「それにしても、遥々秋田からお酒を取り寄せるなんてすごいですね。」
「それを言ったら玉の光も和歌山だろう。
あ、今度は俺が玉の光な。」
「玉の光は大したことはねえよ。港が近いから海路を使えば一発だしな。
まあ、確かに天の戸の方は普段は取り扱ってねえけど、さっき言った山菜をくれた人から数瓶一緒に貰ったんだ。」
「その人には感謝しなければなりませんね。」
「そうだな。と、頃合いだな。」
バリっと良い感じに焦げ付いた外側。
「お待たせ、二人とも。」
それでいて、中身はふっくらとした焼き上がり。
「鰯の塩焼きの完成だ。」
そして、
「それじゃ、二度目の乾杯と行こうか。」
まだまだ再開を祝す夜は続いて行く。




