第1章の45 地星
◇1
千春さんがここを発ってから、一週間になる。
別に珍しい事じゃない。
3日、4日程、ふらりと彼女が家を抜けることはこれまで何度もあった。
それでも数日すれば、またふらりと戻って来る。
『お帰りなさい、千春さん。』
『ただいま、芳雄君。』
そうして帰宅する彼女を、僕はアパートのエントランスで出迎える。
『ごめんね、いつもこんな遅くにお出迎えをさせてしまって。』
『気にしないで下さい。僕がしたくてしていることなので。
でも出来るならば、帰宅は早いに越したことはありませんよ。夜の街は危ないですから。』
『フフ・・・、ありがとう。』
交わされる言葉は決して多くなく、かと言って交わされる言葉も、どれも他愛も無いものばかり。
それでもその瞬間は、確かな安堵が僕の胸の内を満たしてくれるのだ。
「千春さん・・・。」
ポツリと溢れた彼女の名と。
最早何度目なのかも分からない溜息。
今夜はまだ、千春さんは戻って来ていない。
別に決まった刻限に帰って来る訳ではない。でもだからこそ、針が時を刻む度に不安が募っていくのだ。
千春さんが只者でないことは、流石の僕でももう知っている。
でもそれは彼女を心配しなくて良い理由にはならない。
加え、三日前の青山の精神病院での事もある。
彼の事件の唯一の生存者且つ、目撃者である少女。
その少女が鬼気迫る表情で語ったから証言が、僕の胸の内に渦巻く不安をより一層掻き立てる。
「浮かない表情だね、芳雄君。」
コツコツと、革靴が乾いた足音をならす。
エントランスで彼女の帰りを待ちわびる僕の後ろから、一人の人間が歩み寄って来ていた。
振り返って確かめる迄もない。
「彼女のことが心配かい?」
江戸川。
およそ一年程前、僕らの前に現れた男。
より正確に言うならば、明智先生によって召喚された者。
「そうでなければ、ここにはいませんよ。」
曰く、無貌。
曰く、万面相。
曰く、渾沌の化身。
望むのであれば、幼子から老人にまで。
否、人間だけに止まらず、魔王から熾天使へ。果ては神にすらも成れると、この男は言っていた。
何者にも成れるが故に、何者でもない。
貌を持たぬ故に、無限の貌を作れる。
破壊を愛する獣。
「クックックッ・・・、それもそうだ。
いやいや、失敬。とんだ愚問だったね。」
そう言って謝辞を述べるこの男の内側に、謝意の念など塵程も無い事は今更だ。
そしてそこに一々拘泥するだけ無駄だということも、いい加減嫌でも学習する。
「であれば、質問の仕方を変えよう。」
ピタリと、乾いた足音が止む。
僕から少し離れた後ろで、彼は立ち止まった。
「この事件、君はどう転ぶと思うね?」
先とはまるで中身の違う問い。
だが、江戸川が問い質さんとするところの本質は同じだ。
「まだ推理の段階からは程遠いですよ。
確かにあの子の証言は、この事件の真相解明を左右する重大な情報でした。ですがそれでも、未だ不明瞭な点や不確かな箇所が多いのもまた確かです。」
努めて事務的な解答を心掛けた。
彼の心を掻き立てぬよう、そして僕の心を掻き立てられぬように。
「まあ砕いて言ってしまえば、まだ何とも言えません、という事です。」
「なるほど。なるほどねえ・・・。」
大して答えになっていない答え。
それでも江戸川は笑みを浮かべ、満足したような反応を示す。
この男が求めるのは、正答などではないからだ。
「相分かった、貴重な意見をありがとう。
そして済まなかったね。君の大事な時間を戴いてしまって。」
そう言って彼は踵を返し、元来た階段を上がる。
中程まで上がったところで、
「ああ、そうだ。」
彼は足を止め、横顔だけを見せた。
「先の礼だ、君に良い情報を教えよう。」
「情報?」
「もう間も無くで、千春君が帰って来るよ。」
ドクン、と。
一際強く心臓が高鳴り、呼吸が俄かに苦しくなる。
「そうだな・・・。時間にして10秒といったところか。」
「えッ!?」
ニヤリと、笑うと彼は再び歩き出す。
突然の宣告に、整理が追いつかず頭の中が真っ白になった。
しかしそれでも、時は無情にも針を刻む。
「7、6、5、・・・、」
誰に対しても、等しく平等に。
「・・・2、1、0。」
カウントダウンの終わりと共に、江戸川は二階の奥へと消える。
それと同時に背後で、バタンと。勢い良く入り口の扉が開かれる音がエントランス内に響き渡った。
振り返った先に立っていたのは、
「ただいま、芳雄君。」
「お帰りなさい、千春さ・・・ん?」
彼の予告通り、千春さんと、
「と、・・・誰?」
見知らぬ少年と少女の二人だった。
いや、顔だけは知っていた。
三週間くらい前、青山の表参道で僕は彼らと会っている。
しかしその時は、終ぞ名前は知らぬまま別れてしまった。
だがその彼らが、再びこうして現れた。
今度は千春さんと一緒に。
「なんだ千春、こいつと一緒に住んでたのか。」
3、4歳程年上で、あの時僕を揶揄ってきた人と、
「お邪魔しまーす。って、あれー・・・、君はあの時の子だよね?」
小柄で外見は僕と同年齢くらいに見える爛漫そうな女の子。
まるで理解が追いつかなかった。
一体何がどうなっているのか。
何故この人達がここに。
どうして千春さんと一緒に。
次々と矢継ぎ早に浮かんでくる疑問。
しかしどれだけ考えても、そのどれもが一切答えの出ぬ儘に頭の中へと蟠っていく。
◇3
「今日もありがとう、芳雄君。」
「お気になさらないで下さい。いつも言ってるように、僕がしたいから勝手にしているだけですから。
それよりも、一体何があったのですか?」
そう言って彼は、深刻そうな表情を浮かべる。
だけどそれも当然か。
一週間、何の音沙汰も無いと思ったら、いきなり戻って来る。
挙げ句の果てには、こんなボロボロの姿で現れたんだから。
「それにそちらの方達も。」
そしてその関心は、私以上にボロボロで身体中傷だらけの2人に向けられる。
「兎に角、傷の手当てをしますので、早く上がって下さい。」
だけど芳雄君は、私達三人を直ぐに中へと促してくれた。
聞きたいことも、言いたいことも、彼にはいくらでも有る筈なのに。
それでもその全て飲み込んで、私達を気遣ってくれた。
※
あの後、私達は各々必要な処置を施した。
幸いなことに、深夜さんとステラさんは見た目の割には重症は無く、擦り傷や火傷が散見されるだけで済んでいた。
私も服が汚れたり破れたりした程度で特に怪我は無かったから、まずは身体の汚れを落とす為にお風呂に入ろう、という結論に至った。
初めは私。
次にステラさん。
そして深夜さんには申し訳なかったけど、彼が最後という順番になった。
主な決定権はステラさん。
とは言え、深夜さんも異論を唱えることも無く、或いはもうそんな体力も無かったのか、直ぐに了解してくれた。
そして独り、
「ふう・・・。」
私は屋根の上に座り、空を見上げる。
お風呂上がりの火照った身体に、優しく吹き抜ける夜風が心地良い。
よく晴れた夜空に浮かぶ無数の星。
その満点の星空の下、宵闇に覆われた街並みの唯一、南側の地平の際、皇宮の向こう側に、夜空を照らすように淡い光浮かび上がっている。
天空の星、地上の星。
そんな不可思議で、だけど不思議と心の安らぐ夜景を暫くぼんやりと眺めていると、
「あっちには何があんだ?」
後ろから声を掛けられた。
「有楽町だよ。」
特に振り返らずに、その問いに答える。
「毎日・・・、じゃないか。毎夜毎夜のようにあの辺にある会社は、夜遅くまで動いてるの。」
「何が楽しくて、日が変わるまで労働に勤しんでんだろうな。」
「んー、わかんない。」
別に知りたいとも思わないけど。
カツカツ、と。
背後からゆっくり近付いて来る足音はやがて私の側で止まり、そのままその音の主は隣に座る。
「屋根の上に行けるような通路は無かったんだがな。
どうやってここに登ったんだよ。」
「お兄ちゃんと一緒の方法だよ。」
最上階の適当な窓から飛び出して、そのまま上によじ登る。
只それだけの簡単なこと。
まあでも、そんなところを他の住人に見つかりでもすれば、まず間違いなく止められ、こっぴどく怒られるだろう。
だからこうして、夜中にこっそりと上がっている。
「だろうな、この不良娘が。」
そう言いながら、深夜さんは怪我をしている箇所に軟膏を塗る。
「芳雄君に手伝って貰えば良かったのに。」
「あいつはステラの手伝いで忙しくしてたよ。
そんで待ってんのも退屈だったから、この中を歩き回ってたんだ。」
そうしてたら、私を見つけたってことか。
「正直助かったよ。いきなり押しかけて、しかもそのまま一晩泊めて貰えることになるなんてな。」
しみじみと深夜さんは呟く。
「後で明智さんにお礼をしないとだね。」
『今夜はここに泊まっていくと良い。
流石に人数分のベッドは無いが女性は女性同士、男性は男性同士。それぞれ小林君と鬼柳君の部屋を使えば、何とかなるだろう。』
明智さんは深夜さんとステラさんの姿を見ても一切驚かず、それどころか事情も一切を聞くことなく私達の為にリビングを明け渡し、彼自身は自室へと去って行った。
江戸川さんも江戸川さんで、いつの間にか雲隠れしてしまい、見つけることが出来なかった。果たして、このアパートの中にいるのかすらも定かではない。
「ああ、そうだな。」
私達の上に広がる満天の星空。
数秒か、数十秒か。
私と深夜さんは、無言で上空を眺めていた。
今日は本当に色々とあった、と改めて振り返る。
久々に体力を使い果たし、何もかもが億劫になる、そんな気分だった。
それは隣の彼も同じなのだろう。
そうしてしばらくの間、私達の中に無為な一時が流れていき、
「なあ、」
やがて終わりを迎える。
「さっき部屋の外で、あの小僧と何を話してた?」
小僧って、深夜さんも芳雄君とそんなに歳は離れてないでしょうに。
「別に、大した事じゃないよ。」
そう大した事じゃない。
だってこれは深夜さんには関係の無い事なんだから。
それなのに、
「そうか、だったら良いんだけどな。アイツが随分と深刻そうな顔をしてからよ。
まるで深い葛藤と、そして大きな決断をした時みてえな、な。」
ゾワリと。
何かが身体の中を駆け上がる感覚が走る。
「聞いてたの?」
「いいや。」
盗み聞きはしていないと、深夜さんはすぐに否定した。
「ただ、あの小僧の中をチラッと覗いただけだ。」
「・・・変態。」
確かに、盗み聞きはしていなかったんだろうけど、余計に性質が悪い。
この誘導めいた質問も含めて、深夜さんは聞く前から分かっていたんだから。
※
『千春さん。少し良いかな。』
そう言って彼は。
芳雄君は、深夜さんとステラさんの注意が外れている瞬間を見計らって、私に声を掛けて来た。
まあ実際のところは、深夜さんには気付かれていたんだけど。
『何かしら、芳雄君。』
その時の彼の表情は、傍目から見ても一目で分かるぐらいに蒼褪めていた。
『二日前の新聞、千春さんは見ましたか?』
『いいえ、読んではいませんが。』
『そうですか。』
彼が何を言わんとしているのかが、今一読めない。
それでも、良い知らせ出ないと言うのは、彼の顔から容易に予測が付いた。
『僕達は三日前に、ある病院へ行きました。
そこに今も入院している一人の人物に会う為に。僕達が調べている事件の、唯一の目撃者であるその人と会う為に。』
ああ、そうか。
そういう事か。
『そうだったのですね。
それで、芳雄君はその人の話を聞いて、どう思いましたか?』
『もちろん、そんな筈は無いとッ!
何かの、間違いだと思い、ました・・・。
思い、たかった・・・のだと・・・。』
最後の方は歯切れが悪く、覇気も無い。
嘘のつけない人だ。
何とかして信じたい。
しかしどうしても、もしかしたらという疑念が払拭出来ない。
そんな彼の葛藤がありありと言葉に表れていた。
でもそれで正解だよ。
『仮に。もし仮に、その人の言葉が真実だとしたら、芳雄君はどうしますか?』
私みたいな人間なんて、信じるに値しないんだから。
『・・・その時は、僕が彼女を捕まえます。』
彼女、か。
弱々しい言葉尻とは裏腹に、彼の中の意思は堅い。
『一緒に罪を償って、』
泣きそうになりながら、それでも己を貫くと。
そんな強い顔だった。
『そしてそれが、全ての贖罪が終わった後で。
彼女が許してくれるならば、共に一からやり直して行きたいと思っています。』
※
「・・・なあ。」
「何も言わないで、お兄ちゃん。」
深夜さんは芳雄君の中を見た。
それは先の遣り取りの外観だけじゃ無く、その時の芳雄君の心の内側すらも知っていることを意味する。
「コレって、完全にアレだよな。」
「だから、何も言わないでってばッ!」
首を垂れ、手で顔を覆う。
顔がどんどん熱を帯びていくのが、手に伝わる熱さで分かってしまう。
穴があったら入りたい。
この言葉を遺した先人の気持ちが、物凄く分かる日が来るなんて。
今深夜さんが、隣でどんな顔をしているのか。
そっちを向く迄もなく、イヤでも頭の中に浮かんで来る。
「千春があの小僧には大人ぶった口調なのは、そういうことなのか?」
そういう事って、どういう事よ。
「ただの見栄だよ。
別に深い意味がある訳じゃないから。」
見栄の一つも張りたくなることもある。
こんなでも一応、女の子なんだから。
「成る程ね。見栄を張りたいって思うくらいには特別視する、ってことか。」
「ッー・・・、本っ当に性格悪いよ、お兄ちゃん。」
「今更だな。それにいつもの仕返しだ。」
言えば言う程、ドツボに嵌まって行く。
今日は、もう本当にダメダメだ。
いつもだったら深夜さんに口で負ける気はしないのに、今ばっかりは勝てる気がしない。
「それで、お前はどう思ってんだよ。」
「・・・そんなの、私にも分かんないよ。」
芳雄君のことは、嫌いじゃない。
寧ろ、好ましくさえ思っている。
だけどコレは、一体どういう好意なのか、私自身よく分かっていない。
友人として?
異性として?
恩人として?
或いはそれ以外か。
それとも、その全部か。
「だって、人が良過ぎるんだもん。」
「まあ、今日日あんだけ純真なヤツはまずいねェだろうな。」
無知なんかでも、蒙昧なんかでもない。
それどころか今回のことも含め、非常に利発で聡い少年だ。
それなのに。
凡その予想は付いている筈なのに、その上で全てを受け入れようとしている。
「でも、駄目なんだよ。」
たとえどれほど彼が私に贖罪を望もうとも、それは意味の無い願い。
「だって私に、その罪悪感が無いんだから。」
私自身が贖う意味を見出だせていなかったら、全くの無価値となる。
「私が今まで殺してきたのはね、正直言って救い様の無いヤツばっかだったよ。
路地裏を這い回る虫や鼠の方が、全然マシって思えるくらいの。」
嬉々として女子供を一方的に嬲り犯し、悦に浸る鬼畜。
顔色一つ変えずに他者を食い物にし、骨の髄まで貪り尽くす外道。
いなくなれば、喜びこそすれ、その死を悲しむ者など皆無であろう存在。
「私の周りには、いつもそんな大人で溢れ返っていた。」
そんなヤツらを、私は殺してきた。
類は友を呼ぶ。
何のことは無い。ソイツらの血肉や魂を喰らって来た私も結局は同類なんだって。
腐った食べ物に虫が涌くのと同じように、私という汚物に連中という害虫が群がってきた。
たくさん周りに虫が涌いて寄って来たから、たくさん潰していった。
「そんなゴミみたいな連中を掃除してきたんだから、なんて私は開き直るつもりはないよ。
でもさ、蠅とか蛆とか潰すのに、一々罪悪感なんて感じるかな?」
「少なくとも俺は一切感じないな。
それが本当に虫だったなら、って話だがな。」
「同じことだよ。」
手足があり、身体があり、頭がある。
でもそれは、人間も昆虫も同じだ。
精々違うのは数と大きさと、後は少し複雑な音を出すかどうかぐらいだ。
「一寸の虫にも五分の魂、ってさ、裏返せば人間の命も無感動に叩き潰される虫けら程度の価値しかない、ってことなんだよね。」
虫が虫らしく、虫同士喰らい合う。
だから忌避感なんて微塵も無い。
殺してはいけない、ではなく、殺してはいけないモノもある。
殺しに対する思想が、他人とは根本から違う。
多分、私も昔はそうじゃなかったんだと思う。
でも今は、そうなってしまった。
そしてこれから先も、殺しはやめられない。
その利便性と効率性が、本能に刻まれてしまったから。
「・・・何だ、答えは始めから決まってたんじゃん。」
ようやく気付く。
というよりも、改めて突き付けられた。
「やっぱり一緒にはいられないんだって。
住む世界が違うんだって。」
方や、暖かい光に満ちた眩いばかりに輝く綺麗な世界。
方や、腐臭と汚物に塗れ、薄暗く淀んだ掃溜。
「羨ましいとすらも感じないよ。
だって手を伸ばして、どうにかなる所にあるものじゃないから。」
なまじ手の届きそうな所に見えるから、手を伸ばしたくなる。
手に入らなければ、羨ましくもなるし、嫉妬もする。
だけど初めから、決して到達できない程に隔絶してしまっていれば、そんな感情の湧く余地すらない。
誰にも、星を掴むことは出来ない。




