第1章の40 曙光
映像に黒い靄が掛かる様に、鏡面は徐々に暗転していく。
おそらくは向こう側にいる北先生の使い魔が姿を隠そうとしているからだろう。その存在が希薄化するのに同調して、映像も暗鈍化しているのだ。
やがて微かに映っていた映像も完全に消滅し、只の鏡へと戻る。そしてそこに映し出されているのは、鏡を覗き込む自分の顔だった。
「ふう・・・。」
知らず知らずのうちに溜息が溢れる。
だがそれも、無理も無いのではないかと己を慰める。
「疲れているようだな。」
「色々とありましたから。」
それも短期間のうちで一気に、だ。
当初の目的は士官学校で教官に魔術を掛けた者を探し出すことであり、その十分な結果も得ることが出来た。だがソレが何故、ここまでの大事となってしまったのか。
様々な人間や情報が錯綜し、全体像が把握できない。
にも拘らず事態だけがますます大きくなっていくとという、頭を抱えたくなるような有り様だ。
「さて、どこから手を付けようか。」
だと言うのに、北先生の言葉からひしひしと伝わって来るのは喜び。
この混沌とした状況に対する愉悦だ。
「楽しそうですね。」
「実際楽しかったからな。
この全容の見えない事態を含め、あの部屋での小僧共との戦い。大川君との語らい。そして今も継続中の鬼ごっこもな。」
「理解し難い境地ですよ。」
「君もいずれ分かる様になる。歳を喰う度に色褪せていく生を彩るのは、こうした未知の齎す刺激しかなくなってしまうのだから。」
言いたい事は分からなくもないが、果たして己が彼と同じくらいの年齢になった時、北先生程に生き生きと楽しめるかは甚だ疑わしい。
「とは言え、娯楽ばかりに感けてもいられぬな。」
そう言って北先生は居住まいを正す。
「大川君が仄めかしたように、いずれ帝都で何かしらの事件が起きる。どういったものかは詳細までは知らんが、彼が絡むような話であれば、穏便なものではないだろうな。
恐らくは、2月の末に血盟団が引き起こした事件、或いはそれ以上の規模のものか。
そしてソレはそう遠くは無いうちに、だ。」
ゴクリと、唾を飲み込む。
再び帝都に激震が走ると、北先生はそう予言する。
しかもそれは、予測などという曖昧なものではない。確定された未来そのものだ。
「我々はどう動くべきでしょうか。」
いつか訪れるであろうその時。
それが他国との戦争であれ、或いは彼らのような武装蜂起であれ、その覚悟は常に頭の片隅に置いてある。
だが果たして、本当に今がその立ち上がるべき時なのかと問われれば、それはまた別の問題だ。
少なくとも私自身、まだその時ではないと考えている。
そして北先生も先の大川殿と会話から伺う限りは、私と同意見のはずだ。
「何もせぬよ。此度は静観を決め込む。」
「やはりまだその時ではない、と。」
「そうなるな。先に言った通り、陸軍内ですら纏まり切れていない現状、海軍に便乗したところで失敗に終わるのは自明の理。そんなのは只の徒労でしかない。」
例え失敗に終わろうとも、何度も仕掛けることによって相手にまた来るかもしれないという恐怖を植え付け、精神を削る。そうして疲弊した相手を、最後の一撃で討ち果たすことを方針とする大川殿。
逆に決起を起こすその時までひたすらに陰で準備を整え、そして最初の一撃で以って総てを成功させることを目指す北先生。
一概にどちらが正しい、どちらが間違っている次元の問題ではない。
この辺りの差異は、当人の性格の違いによるものだろう。
「だが、これから先は今まで以上に外部からの人間の出入りが増える筈だ。」
人員は一人でも多いに越したことは無い。故に蜂起に向けて、彼らは決起隊の何某が片っ端から声を掛けて回って味方を募る、と先生は忠告する。
「一応、先ほど北先生は大川殿とは協力も邪魔もしないとの確約を取っておりましたが・・・、まあ、あまり意味は無いのでしょうね。」
「あくまでこの確約は、俺と大川君との個人的なモノでしかないからな。」
大川はこの決起隊の首魁では無い。
あくまで彼は協力者という立場だ。彼らが陸軍内の誰かを唆そうとも、ソレで大川殿が己の知り至る事ではないと否定すれば、それ以上追及することは出来ない。
寧ろ大川殿が、この決起の全容を把握しているかもすらも怪しい。
だとするならば、この確約に期待するのが、そもそもの間違いだ。
「それ故、君に依頼したい事は一つだ。」
「決起隊の扇動に、聯隊の者が便乗せぬよう説得し、短慮を起こさぬよう抑え込む事、でしょうか。」
さもありなん、と言ったところだろう。
「その通りだ。西田君にも、後で同様の対応を依頼するつもりだ。」
「分かりました。是非引き受けさせて戴きましょう。」
これで当面の動き方は決まった。後は、
「奴らの動向が気になるか?」
「ええ、まあ。」
雲外鏡に視線を移す。
とは言え、目を落として見えるのは鏡に反射し写った天井だけだ。
「まだ追撃戦は続いておる。大したものだ。」
しかし彼がそう言ったところで、再び鏡面に新たな像が浮かび上がってくる。
そこに映るのは北先生と大川殿の使い魔の追跡を振り払おうと、今も猶、決死の奮闘を続ける少年少女の姿。
「あまり気に召さぬ、と言った風だな。」
「何故そう思うのでしょうか?」
「目を見れば分かる。少なくとも良い感情を抱いていないことはな。」
「・・・。」
同情が無い訳ではない。だがコレは、ある意味この少年達が招いた結果だ。
好奇心は猫を殺す。
彼らにどのような理由があったのかは分からないが、禁足地に不用意に踏み込み、藪を突いた。その結果として、今の彼らの状況がある。
妖怪二体に追われる羽目になったのは彼らにとって予想外の事態だろうが、結末の本質は同じモノだった筈だ。
それは鏡の向こうで彼らを追い回しているのが、化け物か警察かの違いでしかないのだから。
それでも北先生の言葉のように、良い感情が沸かないとするのであれば、他者の命の遣り取りに悦を見出すような真似に忌避感を覚えるから。
ただそれだけのことだ。
「何なら助太刀に向かっても構わんぞ。」
「まさか。流石に僕もそこまでお人好しではありませんよ。」
「だろうな。それに行ったところでどうせ何も出来ぬからな。」
一切包み隠す事無く、先生は断言する。
「助勢出来る、出来ない以前の問題だな。
自動車も容易く凌駕する程の速さで動く者達の戦場に、そもそも君が立つ事は勿論、追い付く事自体不可能だ。」
まるで遠慮や配慮の無い言葉だったが、それでも苛立ちや悔しさは無い。
飛翔する燕に人間が速さで勝てるのか。巨大な羆に腕力で勝てるのか。答えは考える迄もない。
北先生が言わんとするのは、要はそういう事だ。
「それに、この逃走劇もそろそろ終わる。」
◇2
無数の小妖怪が寄り集まった黒い不定形のヤツは、俺達を捕まえようと幾本の触腕を伸ばし、強襲を仕掛けて来る。
「しつけえ野郎共だ。」
悪態を吐きながら、後ろへ銃を向ける。
最早何十発、弾丸を叩き込んだか分からない。
それでも、化け物共の追跡の手が緩むことは一切なかった。
「どうするの?さっき弾は撃ち切ったんじゃ。」
「代わりなんぞ、幾らでも用意できらあ。」
間近に迫る触手に向けて数度も引き金を引く。
撃ち出すのは実弾ではない。そんなものは逃走の開始から1分も経たずに尽きた。
だから代わりに弾倉へ込めるのは、俺の魔力だ。
銃口から迸った幾本の魔力の閃光が、化け物の触手を貫き、引き千切ってゆく。
「流石、シンヤさん。」
「大したモンじゃねえよ。こんなのは基本中の基本だ。」
魔力に何の属性も付与せず、ただ固めて飛ばす。
魔道に触れる者の誰もが真っ先に習う初歩の魔術であり、それこそ教われば、子供でも直ぐに出来る初歩中の初歩の魔術に過ぎない。
しかしそれでも、然るべき道具と相応量の魔力を用いれば、十分な攻撃手段となる。
何事も基本が肝要という良い例だ。
「とは言え、まるでキリが無え。」
引き裂かれ千切れ飛んだ触手は、空中ですぐさま細かく分裂し、無数の小妖怪の群れと化す。
その群れが再び巨大な黒い塊の中に飛び込んで行くと、引き千切られた触手の切断面から新たな触手が押し出されるようにして生え出し、そして数秒も経たずに再生する。
この黒い影は小妖怪の寄り集まって出来た群体だ。
どれだけ攻撃を与えてその身体を破壊しようとも、所詮それは身体を構成する小妖怪同士の結び目を解くことにしかならない。
そしてその解けた部位が先のように小妖怪が群れの中に飛び込むことで、群体は容易に機能を取り戻せる。
要するに普通の攻撃では、この黒い妖怪に痛手を与えることは出来ないのだ。
「だがまだ攻撃が当たるだけまだマシな方か。」
すぐに再生するとは言え、攻撃が当たりさえすれば時間は稼げる。
しかし直面している問題は、この妖怪だけでは無い。
「ステラ左だッ!」
静電気が生じた時のような乾いた破裂音が耳へ入った瞬間、俺は無意識の内に叫び、そしてその叫びに反応したステラは、即座に舵を思い切り左へと切った。
その直後、空気を震わせる巨大な咆哮と共に、俺達のすぐ右側を強烈な雷撃が通過する。
雷の塊の軌道上に存在した街路樹は全て一瞬で炭化し、更には通過の余波で生じた衝撃波ですらも、両側の建物の窓硝子を一斉に叩き割り、街路樹の太い枝を何本もへし折り、纏めて吹き飛ばしていく。
そして被害を受けたのは街路樹や建物だけではない。
あの黒い影も巻き添えを喰らっていた。
俺達に向けて伸ばした触手の何本かが、この雷撃の軌道上にあったのだ。
結果、街路樹と同様に触手は再生すらも許されずに一瞬で灰と化し、消し飛ばされてしまった。
群体を構成する小妖怪が燃え滓となってしまっては、流石に再結合も不可能だった。
「とんでも無ェな。」
その惨状を目の当たりにし、俺とステラは冷や汗が頬を伝う。
ほんの数秒、回避が遅れていたら、あの触手や街路樹と同様の末路を辿る。
そんな恐ろしい考えが、否応無しに頭を巡る。
相手があの雷竜だけならば、ヤツの雷撃を捌けない事はない。
だがもう一体の黒い塊の迎撃で手一杯の現状、まずそんな余裕は無い。
「もっと速度を上げられねえのか。」
「これでもう精一杯だよッ!」
「俺が魔力を分け与えてもか?」
「魔力の多寡じゃなくて、出力の問題なの。どれだけ魔力があっても、出せる量が増えなければ、これ以上速度は上がんない。」
「くそッ・・・、このままじゃジリ貧じゃねえか。って、危ねえッ!」
再び雷撃が頭上スレスレを通過する。
それに加え、黒い触手が間髪を入れずに両側から迫って来る。
「このバケモンが。一丁前に連携なんか取ってんじゃねえ!」
左側から襲い掛かる数本の触手に照準を定め、何発もの銃撃を叩き込む。
それで左側からの襲撃は退けることが出来た。だがもう一方の脅威は未だ健在。
「クッ!」
すぐさま反対側より迫る触手に向け発砲する。
「きゃあッ!」
しかし余りに接近を許し過ぎてしまった。
魔力の弾丸は全弾命中するも、振るわれた触手の勢いを完全に殺すことは出来ず、俺達の乗る竿をその一撃が掠める。
転落こそしなかったが、激しい衝撃と共にバランスは大きく崩され、飛行速度も減衰する。そしてコイツは、この致命的な好機を見逃すような奴ではなかった。
千切れ飛んだ左側の触手は胴体へと戻ることなく、直接、右の触手へ向かって殺到する。
結果、回避した筈の触手の先端が逆流を始める。
小妖怪が折り重なり、俺達へ向かって触手の先端を這い上がって来たのだ。
そして遂に、一匹の小妖怪が到達する。
ソイツは俺達の騎乗する竿の後部に牙を突き立て、咬み付く。
ステラはその拘束を振り解くべく一層強く魔力を込めて発進しようとするも、ガッチリと喰らい付いたその小妖怪を。ソレに連なる黒い触手の縛めを振り払うことは出来なかった。
喰らい付いた触手を伝って小妖怪が軍隊蟻の如くに押し寄せ、更には他の触手も一斉に俺とステラに向けて殺到する。
そして更に、
「ッ・・・、ふっざけんなよッ!!」
雷竜の大きく開かれた咢には、再び大量の魔力が集束し始めていた。
集束し、圧縮された魔力はその気質を雷へと変容を遂げる。バチバチと幾つもの紫電と火花を周囲に撒き散らしながら、魔力の塊は、眼が眩まんばかりに激しくり輝く。
模擬戦でも似たような状況があったが、今のこれはあの時とは訳が違う。
あの時は、迫り来る巨大な炎にだけ集中していれば良かった。身動きを制限されはしたが、所詮はそれだけだったからだ。
だが今は押し寄せる妖怪の大群と雷の塊。同等の脅威であるこの両方を同時にどうにかしなければならない。
「だったら先ずはテメエだろうが。」
物干し竿に絡み付く触手に銃口を向ける。
これだけ近ければ、狙いを定める必要も無い。
そしてこれさえ断ち切ってしまえば、再びステラは発進出来る。
黒い影の触手も、雷竜の咆哮も回避することが出来る。
「ッ!?」
だが引き金を引いた瞬間、腕に鋭い痛みが走ると共に、あらぬ方向へ魔力の弾は飛んでいく。
原因は明白。
ウネウネと八目鰻のように蠢く妖怪が俺の腕に鋭い牙を突き立てて、へばり付いていたのだ。
「こんの・・・、目玉野郎がァッ!」
触手を撃ち抜こうとしたその間際に、這い上がって来た別の妖怪がそれを妨害した。
寸でのところで何とか銃を手放さずに済みはしたが、咬み付かれた時の衝撃と激痛で狙いが大きく外れてしまった。
ギョロリと、腕にへばり付いた目玉が動く。
『カッカッカ・・・。そう簡単に逃がすとでも思ったのかよ、間抜けェッ!』
その悪意の籠った眼が、腕に深々と突き刺さった牙を震わせて嘲る。
一体何処から出しているのか分からない不快な声質。露出した眼球が爬虫類のようにのたうつ醜悪な見た目。
その全てが、見る者の生理的嫌悪感を逆撫でする。
素早く銃を持ち替え、腕にへばり付くソレに銃口を押し付ける。
『もう遅ェよ。ここで俺を撃っても、』
「うるせェッ、とっととくたばれ。」
何か言い切る前に躊躇無く引き金を引く。
砕け散り、バラバラに爆散したソイツの肉片と血煙は、やがて重力に従って下へと落下していく。
しかし十数匹の小妖怪が、既に竿へ到達してしまっている。
そして危機はそれだけではない。
既に間近にまで迫った数本の触手。
更には、雷竜の口の中には既に十分な量の魔力が蓄積され、後は撃ち放たれるその時を待つのみとなっていた。
「ステラッ!俺ごとコイツらと触手を燃やせ。」
一匹一匹潰してる時間は無い。かと言って俺には小妖怪も、触手も、一気に纏めて潰せる手段も無い。
ならばこれしか方法は無かった。
「でもッ!」
「躊躇ってる時間は無え、早くしろッ!」
「分かった。でも自分の身は自分で何とかしてね。」
「言われるまでも無え。」
ステラは俺に向けて手を翳し、呪文を唱える。
「”La Stella Fiammeggiante.(燃えさかる煌星。)”
直後、巨大な炎が身体を包み込む。
魔力で身体を覆って火炎から身を守ってはいるが、空気は焼け付き、呼吸をすることすらままならない。
だが竿に纏わり付く目玉共には効果覿面だ。
灼熱の地獄の中、ソイツらは断末魔の悲鳴を上げながら次々と焼け焦げ、力尽きていく。
それでも肝心の、触手の方は焼き切るに至っていない。
「(早く。早くしろッ!)」
灼熱の中、声にならない呻きが漏れる。
黒い影の方も、触手に次々と小妖怪を送り込んで接続を維持しようと死に物狂いだった。
この文字通り、互いに命を燃やすような攻防の最中、ハッと悟る。
頭上から絶えず聞こえていた雷の炸裂音が、ピタリと止んでいたのだ。
その事実に気付いた瞬間、悪寒と共に反射的に顔を上げた。その先に見えたのは酷く静かな、そこだけが一切の時間が止まったかのように大きく開かれた竜の咢。
嵐の前の静けさ。
この言葉が脳裏に思い浮かんだその刹那、雷竜の強大な雷が落下してきた。
◇5
「これで、終わりか。」
雲外鏡には、今まさに竜が雷を吐き出さんとする姿が映し出されている。
彼らは捕縛されるか、或いは命を落とすか。
いや寧ろこの映像だけを見ている限り、どう考えてもこの二体の化物が捕縛などと言う慈悲を掛けるとは思えなかった。
確定された死の未来を思い、鏡から目を逸らす。
「さて、どうだろうな。」
しかし北先生は曖昧な言葉を返す。
「そうかもしれんし、そうでないかもしれん。
私が見えたのは、この鬼ごっこが案外早く終わるという結果だけだからな。」
「取り逃がすかもしれない、と。」
「その可能性もある。
或いは、何かしらの横槍が入る、とかな。可能性としては寧ろそちらの方が高い。」
確かに先生の言わんとする事は、何となく分かる。
あれだけ目立つモノが、街中を派手に飛び回っているのだ。これで警察や憲兵などの治安部隊に何の動きも無い方が、却って不自然だ。
だからと言って、只の人間がアレに手出し出来るとは到底思えないが。
そう考えたところで、
「神祇省・・・。」
頭の中に浮かんだ言葉が、無意識の内に口から出る。
「まあ、それが確率としては一番高いな。」
微かな希望に火が灯る。
「喜びたまえ、安藤君。
運が良ければ、あの小僧どもは助かるかもしれんぞ。」
「・・・そう、ですね。」
胸中を読まれたところで今更驚きはしない。
北先生の前では隠し事など通用しないのならば、正直に正々堂々と、胸の内を言葉にするだけだ。
「怒らないのですか?」
「何に対してだ?」
「先生は、あの少年達を捕まえようとなさっている。
そして逆に、私は無事に逃げ切ってほしいと願っている。」
先生に指摘され、今更ながら己の心内を悟る。
理由など特に無い。
只単に我儘で、私はこの子達には生きていてほしいと心の底から願っていた。
「それの何処に問題があるのだ?」
叱咤や罵声を覚悟していた私に返ってきたのは、そんな予想外の言葉だった。
「私欲や打算からそう思っているわけでも無い。
加え、表立って俺の邪魔をしている訳でも無い。
この何処に君が叱責を受ける謂れがあると言う。」
逐一要点を列挙して確認したように、確かに私は先生の害になるような行為は何一つしていない。
現実に咎を受ける行為が存在しなければ、当然としてそれに対する罰は存在し得ない、と。
北先生らしい、合理的な思考だった。
「とは言え、君が求めているのは、こういった理屈の上での答えではないのだろうな。」
「・・・。」
そう。
おそらく自身が懐いているのは、そういった言葉ではないのだろうと、曖昧ながらに思う。
「では何故君は、私に咎められると考えたのだろうか?」
「それは・・・、」
「私の意に反する結果を望んだから。それが私に対する背任になるのではないかと、感じたからか?
信賞必罰は世の常。だが先に言った通り、君は私から罰せられる行為は何一つしていない。」
理屈だ。
仮にこの世全てが理詰めで上手く回るのであれば、どれだけ楽だっただろうか。
だが現実はそうではない。
でなければ、心の内に蟠る思いは何だと言うのか。
「安藤君。私はな、白でもなく黒でもない・・・、曖昧な立場、灰色と言える状況に置かれた時こそ、その人間の本質が見えてくるものだと考えている。
今の君の言うならば、罪と言えない罪に囚われた状態。
分かり易く言い換えるならば、信義や道義が問われている状態だな。」
そうだ、これは理屈云々ではない。
己の良心の問題なのだ。
その言葉を示され、漸くしっくりと来た。
「この見も知らぬ小僧共に助かってほしいという、君自身の良心に準じながらも、一方でそれが私に背く考えであると理解しているからこそ罪悪感を感じ、苦悩する。
そこだよ安藤君。その苦悩こそが重要なのだ。」
相も変わらぬ北先生らしい筋道立った説明の仕方。
だがそれでも、先とは何かが決定的に違う。
「信義や道義を咎められるような事態に陥った時、真にその人間を罰することが出来るのは、その者自身だけだ。
確かに、周りから幾らでも制裁を加えることは出来よう。だが本当の意味で魂に訴えかけ、罰を下せるのは、結局のところその人間の良心しかない。」
敢えて言うならば、心だろうか。
「その点で言えば、君は合格だ。実に理想的な心の持ち主と言っても過言では無い。
そもそもとして、君のその願いは一般的な人間として至極真っ当な思考であり、始めから罪悪感など感じる余地の無いものだ。にも拘らず、君はこの小僧共だけでなく、俺に対しても慮りを見せた。
まあ、俺に対する恐怖心が全く無かった訳でも無いだろうが、それでも君の見せた誠意は、紛うことの無い本物だった筈だ。」
その一つが加わるだけで、言葉に込められた質がまるで違ってくる。
無機質な上位者と下位者の関係ではない。師弟、或いは父子とでも言うような、温かみのある繋がりへと。
「故に、敢えてこれ以上は君を咎める必要はないと判断した。
何故ならばその懊悩こそが、尤も相応しい罰だったからだ、と。
気取って説明するならば、こんなところだろうか。」
成程。
だからこそこの方の下には、様々な人間が集うのだろう。
恐ろしい人物であることには変わりない。
だがそれ以上に、人を引き付ける何かがこの方には在るのだ。
「他人の頭の中までどうこうしようとは思わんよ。
力ずくで屈服させ、従属させるやり方も否定はせんが、それも結局は時と相手を選ぶ。特に君のような人間ならば、な。
力には力を。そして誠意には誠意を以って応える。それが俺なりの相手に対する礼儀だ。」
目から鱗とは、今この瞬間に使う言葉なのだろう。
「ご教示を下さり、誠にありがとうございます。お陰で胸の内の蟠りも、解けました。」
最早、迷い苛まれる必要も無くなった。
かと言って、先生の言葉を免罪符にするつもりは一切無い。
「ですがやはり、私はこの少年達には無事に逃げ切ってほしいと、そう思っております。」
私は私の信じる道に従って行動するのみだ。
いざとなれば、先生の意に背くことも辞さない、と。
そしてそんな私の覚悟も、言葉にせずとも先生には、間違い無く伝わっているだろう。
その上で、猶この方は怒りを見せない。
それどころか、不敵な笑みすら浮かべ、
「ああ、良いだろう。それでかまわんさ。君の思うように行動し給え。」
私の意志を讃えてくれた。
そして私は、再び鏡へ目を移す。
今更ジタバタ動いたところで、どうしようもない。
現実問題として、私に出来ることなど存在しないからだ。
いや、敢えて一つ、挙げるとするならば。
それは彼らの勝利を願い、この戦いを見守る事だった。




