第1章の28 奇縁
「ああ、いらっしゃい、安藤さん。
丁度今日、新しい本を入荷したばかりなんだ。」
そう言って指をさした先に在るのは、無造作に積み重ねられた本の山。
「あれが・・・、なのか?」
その総てが日焼けし、黄色く変色している様を見る限りでは、とてもじゃないが新商品には見えない。
「いやはや、中々に珍しいモノが手に入りましたよ。
これなんて如何です?」
店主は雑多に丸められた、これまた随分と年季が入っている紙束の中から1本を引っこ抜くと、それを拡げて見せてくれた。
見覚えのある浮世絵だった。
「初刷りではないですが、紛れも無い北斎の作品の1つです。」
ああ、そういう意味での新商品か。
「因みに、値段は?」
「175円。」
「・・・高いな。」
聞かなければ良かったと後悔する。
古びた紙1枚に、給料の3カ月分以上の値段か。
正に金持ちの道楽ということを思い知らされる。
「新書は在るか?」
「新発売の本でしたら、そちらの方に置いてありますよ。」
そこにあったのは先程とは打って変わって、包装紙の封を切られたばかりの真新しい本の束だ。その中から適当に何冊の本を取り上げて、順番にパラパラとめくっていく。
インク独特の心地良い、落ち着く匂いが漂う。
「店主、これを戴きたい。」
そう言って手に取った本と代金を店主に渡す。
「毎度あり。」
店主は代金を受け取ると、再び本を渡してきた。
「最近の調子はどうだ?」
「特にこれといって変わらず、いつも通り退屈なも毎日だよ。」
店主はカラカラと笑って、そう答えた。
「まあ、平和であるに越した事はないんだろうよ。
それこそ海を隔ててすぐ隣の大陸では、日を追うごとに緊張が増してるらしいじゃないか。」
「私も、その話は支那への駐在から帰って来た仲間から、ちょくちょく聞いてはいる。」
この数年のうちで、日支間の関係は急激に冷え込んでしまっていた。特にも上海ではそれが顕著であり、在留邦人に対する窃盗、傷害といった犯罪件数は把握出来ているものでも、相当な数に昇っていた。
「数日前も横浜に、上海から引き揚げて来た居留民達を乗せた船が着いていたよ。」
当然、駐在する兵隊側も、邦人の生命や財産を守る為に手を尽くしているが、現状大した成果を挙げられていない。と言うのも、如何せん件数が多過ぎて、手が回っていないのだ。
「同船していた仲間達も、只々歯痒い思いで胸が押し潰されそうだと、嘆いていたよ。」
状況が許すなら今すぐにでも海を渡り、同胞の下へと駆けつけたい。
しかし当然、そんな命令が下される筈も無く、毎日をひたすら彼らの勝利を信じて待つだけだった。
「儂らに出来るのは、一日も早く解決するのを祈る事しかないからなあ。」
そんな日が訪れるのは、果たして一体何時なのか。
数週間後、或いは数ヶ月後なのか。とは言えこの程度ならば、まだ良い。
しかしコレが数年後、数十年後になるかもしれないとなると、そもそもその時に彼らは・・・、と嫌な考えが浮かんでしまう。
「どうにも侭ならんな。」
俺と店主は共に溜息を吐く。
その時だった。
「何だ?店の外が喧しくなってきたな。」
店の外から何か音が、と言うよりかは声が聞こえた。
俄かに騒がしく、そしてそれは、言い争いでもしているかのように聞こえた。
◇4
「わあー、何かもうスッゴいね。」
先頭を切って進むワカバが歓声を上げる。
「本屋通りの名を冠するだけはある。」
通りを挟んで両側に建ち並ぶどの建物の軒先にも本棚が並べられている。勿論、それらはただ置いてあるだけでは無く、その中には商品である本がぎっしりと陳列されてあった。
その中には古書を専門に扱う店や、洋書や漢書などと言った日本の外の書物を挙って収集してある店など、多種多様な書店が此処には揃っている。
「本執狂にとって、まさに垂涎ものの街だろうな。」
そんな感想を抱いていると、
「あれ?あそこにいるのって・・・。」
ワカバが何かにを見つけたらしい。
その目線の先を辿り、そして私も気付く。
「同じ教室の生徒、だったか?」
と言っても、恥ずかしながら余り記憶に残ってはいないが。
「うん、そうだよ。」
正解だったらしい。
書物を運んだり並べたりしている姿を見るに、どうやら本屋で働いているようだ。だが、お世辞にも手慣れた風、とは言い難い。
一度に無理して沢山の本を持ち過ぎだ。そのせいか足取りも覚束なく、そもそも前方もよく見えていないだろう。
アレではいずれ・・・、と。
そう思った次の拍子には、足下の段差に躓き、勢い良く本が宙を舞った。
「あちゃー・・・、やっちゃったね。」
ワカバが、私達の心中の声を代弁してくれる。
通りを行き交う人達に、せかせかと何度も頭を下げている姿は、なんとも居た堪れない。
「大丈夫?私も手伝うよ?」
「あ、ありがとう、ございます。」
そう言って顔を上げた彼女は、そこで私達の存在に気付いたようだ。
「こんにちは、物部さん。」
「あの、ええと・・・、」
「私は楸若葉。
こっちの2人は、アーデルハイトちゃんとレオンハルト君。」
若葉の紹介に応じ、私とレオンは軽く挨拶をする。
これまで面と向かって彼女と話したりしたことはなく、せいぜいが教室で視界の端に捕えるくらいだった。
奥手で物静か。それが、私が彼女に抱いていた印象だったが、その認識で間違いは無いようだ。
するとそこに、
「桜花ー。そっちの仕事は終わったかい?
そろそろこっちを手伝っておくれ。」
店の奥から彼女を呼ぶ声がした。
だが生憎、彼女はまだ取り込み中だ。
「先ずはこの散らかった場を片付けよう。話はそれからだ。」
そう言って、通りに散乱した書物を皆で拾い上げ、片付けていった。
※
「いやいや、済まないね。手伝ってもらっちゃって。
ほら、桜花も礼を言いなさい。」
「ありがとう、ございます。」
深々と物部さんは頭を下げる。
「なら次の仕事だよ。ほら、きりきり動く。」
「は、はいッ!」
そう言って、ぱたぱたと表に駆けて行った。
「と、済まないね。見苦しいところを見せちまったよ。」
「いえ、お気になさらずに。
それと、物部さんはここで下宿をしているのですか?」
ワカバは正面の恰幅の良い女性にそう尋ねる。
「ああ、そうだよ。どうしても寮は高いからね。それで親戚の私の所にいるのさ。
何をするにも取り敢えずは金。世知辛い世の中だよ。」
やれやれ、といった様にその女性は溜息を吐く。
「そういえば、あんた達はあの子と同じ教室なんだって?
それに西洋人の子までいるなんて、あの学校も随分とハイカラになったんだね。
それでちょっと聞きたいんだけど、教室でのあの子の様子はどんな感じだい?」
そう何気無く彼女は尋ねてきたが、正直、答えに窮する問いだった。
確かに同じ教室の生徒同士ではあるのだが、この場の全員がこれまで彼女とまともに会話したことが無かった。
どう答えるべきかと、答えを模索していたら、
「ああ、済まないね。答えにくいことを聞いてしまって。」
こちらの雰囲気を察したらしく、直ぐにこの話題を切り上げてくれた。
「まあ、何となくは分かるんだ。ほら、あの子は昔からあんな感じで、引っ込み思案でね。
魔術師としての才能は確かにあるんだけどねえ・・・。いまいち要領が良くないのよ。」
その言葉を肯定するかのように、店の表の方から彼女の悲鳴と、その直後にドサドサッ、色々なモノが落ちる音が聞こえて来た。
「はあ・・・、言った側から。」
一段と大きな溜息を再び溢す共に、女性は額に手を当て、
「ちょっと桜花ー、アンタ大丈夫かい?
怪我してないだろうねー?」
そして表に向かって声を張り上げた。
「それと、大事な商品、駄目にしたら承知しないからねーッ!
と、まあ。こんな感じでね。悪い子じゃないんだけど、どうにも危なっかしくて。」
「あはは・・・。」
ワカバは何とも言いにくそうに、微妙な顔で曖昧に笑う。
「確かに物部さんとはあまりお話ししたことは無いけど。
でも凄い魔術師だ、ってことは知っています。」
それでも、誠実に答えるのがワカバの良い所だ。そしてその言葉に嘘は無い。
今、店の表にいる彼女は、シンヤの読心術の気配に気付いた一人なのだから。
業腹ではあるが、シンヤの隠密に徹した時の読心は、まず簡単に気付けるものでは無い。だが、あの少女はそれに気が付いた。
それだけでも、相当な才があることに疑いの余地は無い。
「そう言ってくれると私も嬉しいね。」
彼女は朗らかに笑い、
「今こんな事を言うのは過保護っておもうだろうけど、良ければあの子と仲良くしてやってくれないかね?」
そして私達に頭を下げた。
「見ての通り、危なっかしい子だからさ。
だから、あんた達みたいなしっかりした子が側に居れば、あの子も少しはシャキッとするんじゃないか、ってね。」
優しい人だ。
口調こそ少し強いが、まるで実の娘のように、この女性は彼女のことを心配し、その幸せを願っているのだから。
そんな彼女の願いに、
「勿論です。寧ろ、私の方からお願いしたいぐらいですよ。ね、皆?」
「無論。」
「聞くまでも無いですね。」
私もワカバもレオンも、一も二も無く快諾した。
「そうかい、ありがとね。」
私達の答えを聞き、女性は安心したように再び朗らかに笑った。
その折に、再び店の表の方から、物部さんの悲鳴と落下音が聞こえてきた。また同じように彼女が失敗したのだろうと考え、私達は苦笑交じりに互いを見回す。
だが先と違ったのは、それらの後に数人の男の声が聞こえ、中には怒声が混じっていたことだった。
◇5
通りに出ると、向こうに見える店の前で人集りが出来ていた。
数人の男達と、その者達に囲まれて怯えている一人の少女。そしてその足下には幾つもの本が散乱している。
遠目からでも判る、穏やかではない雰囲気。事情は分からないが、明らかに止めに入るべき場面だった。
そう判断し、動こうとした直前、
「物部さん、大丈夫ッ!?」
その店から飛び出して来た2人の少女と1人の少年が、蹲る彼女の元へ駆け寄る。
とは言え、何にせよ彼らを止めめなければ。
だがそこで気が付く。
少女達の顔に見覚えがある事に。そしてそれは、奇しくも私が捜し求めている者達であった事に。
気が付けば、私の足も止まってしまっている。
今はまだ様子を見るべきだ、と。
既に身体が、直観的にそう判断していた。




