第1章の20 邯鄲
再び周囲の光景が変わる。
これは旅立ちの時。
日本へ立つ前の、1932年の1月のあの日。
学長の長いご高説の後の光景。
『ハイジ・・・。』
そうだ・・・、あの後私は母様に名を呼ばれていた。
だが、母様の擦れるような呼び掛けに、あの日の私は応えることは無かった。
何故ならば、応える必要も無かったからだ。
私がこれまで選択してきた道は、正しかったのだと確信していたからだ。
”本当に?”
そうだ。
だからこそ強くなったことを示す為にも、私は何も言わずに立ち去ったんだ。
”本当に間違っていなかったと?”
・・・そうだ、間違ってなどある筈が無い。
ある筈が無いんだ。
”そう・・、ならば貴方は正しいわ。
一人前の魔女に成る為ですもの。”
「違うッ!」
咄嗟に声を荒げ、私へ囁きかけてくる私の声を否定する。
”どうして?”
「私は・・・.ただ私は強くなりたかった。
母様に追い付きたかっただけだッ!
そしてその好機が、目の前に現れたんだ。
ならばソレを掴まない選択など、有り得ないだろうッ!」
”だから貴女はあの日、己の意思を貫いたのよね。”
「だって・・・、そうすれば、お母さまもお父さまも喜んでくれる、って思って。」
"2人を喜ばせたかったのよね。”
私が私を正当化していく度に、私の声が私の中を暴き、否定していく。
「すごいね、って。
良くやったね、って。
ただ私は、お父さまやお母さまに褒めてもらいたかっただけなのに。」
”そうね、貴方はは私の父様や母様に褒められたかった。”
既に周囲の景色は消え去り、再び暗黒の空間へと舞い戻っていた。
だが、完全なる闇の中ではない。
以前とは異なり、ある程度の彼我の距離の中にあるモノは、不思議とその姿形はハッキリと見える。
まるでその上へと、スポットライトが照り輝いて降りているかのように。
「・・・母様、・・・ハイジ。」
そしてその光の下に佇んでいたのは、母リーザと昔日の少女だった。
「そんなにも、私のことが憎いのか?」
2人はただ無言で無表情で立ち尽くし、私を見つめる。
「やめろッ・・・、私を見るな。」
憐れみ。
蔑み。
「その目を私に向けるなッ!」
どうして。
どうしてそんな目で私を見るんだ。
『どう・・・、して・・・?』
初めて少女が口を開いた。
そしてすぐに変化が起こる。
母と少女の輪郭が歪み、崩れ溶ける。
溶けた2人の身体は歪に混ざり合う。まるで2つの人形の四肢や頭部を分解し、只々雑に縫い合わせたかのような、酷く冒涜的な姿だった。
白かった皮膚は爛れ、灰色に変色する。
金色の髪は暗黒色に染まり、足元に届く程に無造作に乱れ伸びていった。
『これは貴女であり、私でもあるモノの行き着く未来。』
身に纏うボロボロに朽ちた屍衣は、無風の空間でも不自然にたなびき、宙を漂う。
振り乱れた漆黒の髪の隙間から覗かせる双眸は、鈍く、妖しく赤黒い眼光を放つ。
最早、人間だったことを思わせる痕跡は殆ど消え去っていた。
辛うじて残されている人間としての面影も、余計にその存在の歪さや醜悪さを際立たせるだけだった。
似ている。
真っ先に懐いた思いが、ソレだった。
あの夜、吸血鬼を斃す為に変身した母の姿に。
私の恐怖の根源である理想の魔女の姿に。
しかし目の前にいるこの存在は、何かが決定的に母とは違っていた。
何がと問われれば、正確に答えることは出来ない。
だがそれでも、直観的にコレは違う、と断言することが出来る。
そしてゆらりと、化物は動き出す。
微風に吹かれ、フワリと空中を漂う綿毛のように、音も無く、私の方へ向かって来る。
酷く緩慢で、吹けば消し飛ばされてしまいそうな、おぼつかない足取り。
そして次の瞬間には、化物は既に私の目と鼻の先にまで迫っていた。
「ぐゥッ!」
化物の手に抑え付けられ、身動きが取れなくなる。
腐り爛れている見た目からは想像出来ない、尋常ではない握力だった。
『貴女は、自分は間違っていないと言った。
正しい選択を取って来たと言った。』
「やめ、ろッ・・・ 、離せッ!」
『この身体を見て、猶、貴女は同じ台詞を吐けるのか。』
血のような赤色を帯びた瞳。
その目尻からは、黒く粘着く涙が溢れ出す。
初めて化物と目が合った。
『まあ、今更この言葉に意味は無いのだろうな。』
怒り。
哀しみ。
憐れみ。
黒い涙と共に溢れ出すは、複雑に絡み合い、混ざり合った感情の奔流。
『ならば、せいぜい受け入れろ。』
「ッ!?」
病み、渇き、沈み枯える。
化物に掴まれ、縛り上げられた箇所から、腐食の侵食が広がる。
そうして腕から肩へ、肩から首へ、胴へと、爛れと腐れが這い上がってくる。
『貴女が正しいと信じて進んだ果てに、応えた報いが今、こうして目の前に在るのだから。』
「やめろッ!
イヤだッ・・・、やめッ、やめてッ!」
違うッ!
こんな未来、私は望んでない。
こんな未来になるなんて知らなかったんだ。
『望む、望まないは関係無い。
人間の意思によって生み出された未来は、只々在るべき者の元へ還るが道理。』
そして私の身に起こった異変は、腐敗と枯渇だけではなかった。
身体が喰われ、取り込まれて行く。
『貴女は私で、そして私は貴女が生み出した業ならば、』
「イヤだッ! 助けてッ!」
常軌を逸した膂力の前に為す術も無く、引き摺り込まれる。
同化するに伴い、文字通り、身体も精神も切り裂かれ、小さくなって行く感覚を味わう。
『呪いに喰われ、堕ちて行くのも、また道理だ。』
「イヤだッ、イヤだッ・・・。
イヤだァァァァァァーッ!」
断末魔の悲鳴が、虚しく木霊する。
私の最後の一片が同化すると同時に、微かに残っていた最後の意識も途絶えた。
そして・・・。
「ハア・・・、ハア・・・。」
晴天の青空。
膝下に広がる白砂の校庭。
その向こう側に見える士官学校の校舎。
「戻って・・・来た、のか?」
ぽつりと呟く。
私が今いる場所が現実であるかを確かめるように。
ここが現実であることを己に言い聞かせるように。
「お目覚めの気分は如何かな、お嬢様?」
そしてここは、ほぼ間違い無く現実の世界であるようだった。
「どうだい? イイ夢は見れたかよ。」
何故ならそこに、終始変わる事の無い、皮肉めいた笑みを浮かべるシンヤが立っていたからだ。
※
「中々面白ェ体験だっただろ?
走馬灯みたいでよ。」
身体が震え、動かない。
いや、思ったように動かす事が出来なかった。
「つッても、走馬灯を見た事のある生きた人間なんざ、殆どのいねェだろうがな。」
精神が肉体を凌駕する、という言葉は知っている。
だが、これはまるでその真逆。
肉体から精神が引き剥がされ、置き去りにされたかのような感覚だった。
「思うように身体が動かねェだろ?
それが身体と精神が乖離するってヤツだ。」
「シン、ヤ・・・ッ!」
「まあ、その程度で済んでることに感謝するんだな。
その気になれば、お前の精神をボロ雑巾みてェに引き裂いて、廃人同然にしてやる事も出来たんだ。」
「シンヤァァァァァァァァッ!!」
手にした木剣を握り締め、絶叫と共に駆け出す。
身体が機能しないなど関係無い。無理矢理にでも、強引にでも身体に鞭を打ち、飛び掛かる。
だが、
「速さも無え、力も入って無え、身体の使い方もてんでバラバラ。」
振り被った腕を掴まれ、いとも容易く防がれる。
「こんなカスみてェな攻撃がな、効くわきゃ無えだろうがよ。」
「クッ!」
無造作に投げ飛ばされた私は受け身を取ることも出来ず、地面を転がる。
「そんで、後はコイツでお前の眉間をブチ抜けば、それで試合終了、ってな訳だ。」
銃口を私へ向け、引き金に指を掛けた。
「とは言え、だ。」
だがシンヤは、向けていた照準を外すと、
「お前のその状態だと、例え空気銃でも流石に死に兼ねねェし、俺としても無駄に前科は持ちたくはねえ。
それに・・・、」
そのまま銃床へと収めた。
「これでも俺は、お前に対してはそれなりの敬意を抱いてるんだぜ。
俺が見せた悪夢にも挫けず向かってくるその闘志、気概、そのクソ度胸によ。
だから・・・、」
ズルリ、と・・・。
腕が這い出て来た。
「完膚無きまでに、テメエの精神をブチ折ってやる。」
突如、何の前触れも無く、私の腹部から爛れ腐り落ちたあの腕が突き出していた。
ナハツェーラーの姿は、サイコブレイク2のアニマや、リングの貞子が混ざった様なものを想像していただければ分かり易いと思います。




