第1章の10 再開
東京に越してからおよそ1週間。
深夜と若葉は、ここでの2度目の月曜日を迎えていた。
「いってきまーすッ!」
「・・・行ってきます。」
早朝の住宅街を2つの声が通り抜けた。
凛と透き通った、それでいて活力に満ちた溌溂とした声。それとは対極的に、如何にも億劫そうな雰囲気を隠そうともしない声。
「はい、いってらっしゃい。深夜、若葉ちゃん。」
そして、そんな対照的な2人を見送る司。
ごくありふれた日常の朝の光景がそこにあった。
※
「それと深夜、もっとしゃんとしなさい。
そんなんじゃ、若葉ちゃんに笑われちゃうわよ。」
「んなもんいつものことだろうよ。」
ガキの頃から、さんざん若葉には虚仮にされてきたんだ。
ソレに慣れてしまったことを認めるのは何とも癪に障る話だが、今更ソレにいちいち反応するのもアホらしい話だ。
「それにコイツみたいにアホ丸出しの無駄にデカい声を出したら、イイ近所迷惑だろ。
コイツと違って、俺はちゃんと周りのことも考えてんだよ。」
と、至極まっとうなことを言ったはずだったのだが、
「こーら、そんな屁理屈を捏ねるんじゃありません。」
アッサリと両断されてしまった。
「まったくもう、素直じゃないんだから・・・。」
更には溜息まで吐かれるという、おまけ付きだった。
「あははー、深夜ったら、朝っぱらから怒られてやんのー。」
なんとも嬉しそうな顔を浮かべて、若葉が深夜の横から覗き込んでくる。
毎度のことながらも、人をイラつかせる威力は全く失わないその表情。
ここまでくると一種の才能なんじゃねえかと、逆に感心すら覚えてしまう。
「それにさー、吐くならもうちょっとマシな言い訳を吐きなよ。そんな如何にも典型をなぞりましたー、みたいなアホ丸出しの屁理屈聞かされたら、そりゃー溜息の一つも吐きたくなるって。」
「言うじゃねえか、この野郎。
いつぞやの夜みたいな情けねえ泣き面にさせてやろうか?」
「へぇー・・・、できるのかな? 深夜が? 私を?
素の殴り合いのケンカで、私に一度も勝ったことのない深夜が?」
そう言った若葉は、背負っていた得物に手をかける。
「手足を使うだけが喧嘩じゃねえだろ。
最終的に勝ちゃあ、後は何でもイイんだよ。」
「うわあー・・・、流石にその台詞はドン引きだよ。
というか、ソレ言って勝った人、私今まで見たことないんだけど。」
互いに視線を交わし、臨戦態勢に入る。
「なら喜べや。そして俺に感謝しろ。今日がその初めての日になるんだからなあッ!」
そして俺が一歩、踏み出そうとした。
その瞬間、
「ねえ・・・。」
俺の背筋を雷撃にも氷撃にも似たような感覚が駆け抜け、思わず若葉から視線を外した。
「ひッ!」
若葉が短く悲鳴を漏らす。
どうやら俺の中を突き抜けた衝撃が、若葉にも駆け抜けたらしい。
そして俺達が外した視線の先にいたのは、当然、俺達のよく知る人物だった。
「学校に遅れるよ。」
先ほど全く変わらない笑顔の母さん。
だがその本質はまるで違う。
笑っているのに、全く笑っていなかった。
「「・・・すみませんでした。」」
俺と若葉。ほぼ同時に謝っていた。
まさに有無を言わせぬとは、このことだった。
蛇に睨まれた蛙。そして睨まれ動けなくなった蛙が出来る唯一のことは、只々首を垂れて額突き、許しを請うことだけだった。
※
「ねえ、深夜。」
「・・・なんだよ。」
「紬さんだけは、怒らせないようにしようね。」
「ああ・・・、そうだな。」
是非も無い。
珍しくその提案についてだけは心底同感だった。
そうして俺達2人は、路面電車に揺られながら学校を目指した。
※
窓際の後方の席。
そこが俺の新しい席だった。
悪くはない。寧ろ最高と言って差し支えない立地。そして馴染みの場所でもあった。
大抵の学校が教室前方の入り口側から、いろは順に生徒を配置していく。故にその並べ方でいけば、『ひ』から始まる俺はほぼ確実にこの位置に収まることになり、事実これまでその通りとなった。
そしてここも、これまでの学校と同じ並べ方のようだった。
ただ一つ問題があるとすれば、
「やっほー、深夜。これから一年間宜しくね。」
同じ『ひ』から始まる若葉もまた、ほぼ確実に俺の後ろに来てしまう、という点だった。
「・・・チッ。」
「なんだよー、折角幼馴染みと一緒の教室になれたんだから、もっと喜べよー。」
「よりによって俺と同じ組で、よりによって俺の後ろかよ。」
「そりゃ1学年に2教室しかなくて、それに深夜が柊で私が楸なんだから、十分にありえたことでしょうに。」
どうやらその2分の1が当たってしまった・・・、いや、この場合は外れてしまったというべきか。とにかくはこれから1年間、一つ同じ天井の下に押し込まれることになったわけだ。
「まあいいさ、これもある意味慣れた展開だからな。」
こうなってしまったものは仕方がない。
「なーんか釈然としないなあ。」
そう言って若葉は、俺に不満げな視線をしばらく向けてきた後に、
「まあ、いいや。
それじゃあ、私は教室の子たちと話してくるけど、深夜はどうする?」
スッと席から立ち上がった。
「相変わらず社交性と行動力だけは無駄にあるな。」
「深夜が壊滅的に無さ過ぎるだけでしょ。」
「ほっとけ。とにかく俺はいい。
しばらくここで教室内の観察を続けてるからよ。」
「ふーん・・・そう。それじゃあ私は行くけど、あんまりジロジロと覗き込まないでよね。」
そして若葉は、教室内にできた数人の女子たちの和の中に加わって行った。
「やれやれ、やっと行ったか。」
思わず溜め息が出る。まだ入学式も始まってすらいないのに、もう既に今日1日分の疲労が溜まってしまったかのような気分だった。
「さて・・・、」
机の上に頬杖を突きながら、サッと適当に教室を見渡す。
教室内は思いの外、騒がしくはない。大体が自分の席に座って手持ち無沙汰にしていたり、やや緊張したような顔で座っている。
互いの距離感や学校の勝手が分からないうちは、当然と言えば当然の態度だろう。
「まあ、そうじゃねえのもいるみたいだが・・・。」
さっき若葉が向かって行った方を見る。
そこでは既に打ち解けあった様な雰囲気で何人かが雑談を楽しんでいる。
その様子を見るに、彼らは元から既にある程度は顔馴染みであるらしかったのだが、何故かその中にさも当然のように、そしてまるで自然に若葉も混じっていたのだ。
「あいつもよくやる。」
そこだけは大したものだと素直に思う。
別に真似したいとも思わないが、俺にはまず真似できないのは確かだ。そしてそんな真似をする必要も無い。わざわざそんなことをしなくとも、他人を知る術など幾らでも転がっている。
俺は目の前の光景に意識を集中させていく。
深く、深く。
細く、細く。
紡いがれていく糸を想像しろ。
想像は創造となり、姿を持つ。
宙を漂い進むは、己の触指となり、触手となり、触腕となる不可視の糸。
たどり着くは小さな小さな隙間。
心の隙間へ滑り込み、這い回り、覗き込む。
糸が生徒に触れた瞬間に幾つもの声が、彼らの思考が声となって頭の中へと言葉が流れ込んできた。
流れ込んできた言葉に意識を傾ける。
雑踏の中で無数の人間の会話が耳に入り込んでくるような感覚だったが、その一人一人の囁きをそれぞれ聞き取ることなど、今更造作も無い作業だった。
とは言え、その殆どが思っていた通りだった。
新しい環境に戸惑う者。
何とかその緊張を和らげようと己に言い聞かせる者、など特に目新しくも無い。
とは言え情報は多いに越したことは無い。取り敢えず彼らの思考を覗くために糸の版図を拡げていく。
俺にとって他者の思考を覗くことは、本を読むことと同じだった。
本棚から取り出した本を適当にパラパラと流し見をしては元の位置に戻し、また別の本を手に取る。そんなある種の作業にも似た行為。
『まーた、性懲りも無く覗き込んできて。』
だが、ごく稀ににこうして本が語り掛けることが有る。
俺の放った糸が若葉達が集まっている元まで達する。そして糸が若葉に触れると同時に、若葉は俺の方へと振り返り、ヒラヒラと手を振る。
それにつられ、そこにいた奴等も一斉に俺の方へ目をやった。
『だれかしら、あの人?』
『もしかして若葉ちゃんの彼氏ッ!? いいなー。』
などと言う雑音が流れてきたが、その全てを無視し、取り敢えずは唯一俺の視線に感付いた本に応じる。
『相変わらず感の良いやつだな。』
『いやー、普通気付くって。』
『数キロ離れた所にいる人間の視線に気付くのが普通なのか?』
それ程までに俺の放った糸はか細く、その気配もほぼ無に等しいくらいにまで調整してある。
これまで何千と他者の中を覗いて来たが、感付かれたのは若葉を除けば、くそ親父や若葉の兄の蓮太郎さんなど、片手で足りる程度だ。
現にこの教室の中で若葉以外は、まるで気付いちゃいない。
『それじゃあ、私と深夜の愛の為せる奇跡ってことかで・・・。』
『言ってろ。』
『つーか、アレだろ。うちのくそ親父や蓮太郎さん、つー面子を見るに、俺の読心に気付ける人間ってのは、凄まじく性格の悪いヤツってことなんじゃねえのか。』
『おい、それは私にケンカを売っているのかな。』
おおっと、アイツ・・・、いつもの余裕が無くなってんなあ。
蓮太郎さんが絡むと、いつもこうなりやがる。
「どうしたの若葉ちゃん・・・?」
そんな声が教室の向こう側から聞こえてきた。
「ううん・・・、大丈夫。ちょっと考え事をしてただけ。」
『本当に大丈夫かな? なんかちょっと顔色が悪いみたいだけど・・・。』
若葉の様子の変化を気遣った女子生徒の、そんな健気な思いが流れ込んでくる。
『いい子じゃねえか、あんまり友達を心配させてやんなよ。』
『深夜、あんた覚えていなさいよ。』
そして若葉は胸中で大きく溜息を吐いた。
随分と器用な事をする。
そんな風に感心していると、
『それで、深夜は何か面白い発見はあったの?』
やや不機嫌そうに若葉が尋ねてきた。
『いいや、全く。
今もこうして範囲を拡げていってるが、お前以外は至って普通、平平凡凡なもんだよ。』
『ふーん、そう・・・。』
『まあ、”もし、この教室の窓からいきなり襲撃者が飛び込んで来たらー・・・”、なーんて香ばしいこと考えてるヤツが1人いたけど、ソレも別に物珍しいって訳でもねえ。』
今までの学校でも数週間に2、3回の頻度で教室の誰かが考えているのを見てきた。
その程度のものだ。
『それじゃあ、今までで珍しかったのは?』
数秒考えた後、
『ねえな。まあ俺が忘れちまっただけなのかもしれねぇが。』
と答える。
『いや、でも面白い事ならいくつかあったな。』
『例えば?』
『そうだな・・・、』
と、言いかけた瞬間に違和感が走る抜けると同時に、
『あ・・・?』
「あ・・・?」
知らぬうちにそんな声が漏れていた。
幸いにも俺の声に気付いた者はいなかったようだ。
即座にその違和の原因を悟ると共に、不自然にならぬよう静かに教室内を見渡す。
そしてある瞬間で1人の生徒と目が合った。
「マジかよ・・・。」
まさかの事態に俺は驚愕し、思わずそれが言葉になって出ていた。
『どうしたの、深夜?』
『俺の糸が弾き返された。まあ、それだけなら別に問題はなかったんだが・・・、』
蜘蛛の糸みたいにか細く、軽いものだ。
何かの偶然で憑り付けなかっとことは、これまでもそれなりにあった。しかし、
『俺の気配に気が付いた上で、更に弾き返してきやがった。』
『・・・マジで。』
糸の存在に気付かれたことなど、皆無だった。
その事実に、若葉もまた驚いていた。
既にそいつはもう前へと向き直っている。
あの瞬間、目が合ったことに気が付いたソイツは慌てたように目を逸らし、手にした読みかけの本に顔を埋めていた。
それは、気弱そうな印象を受けるメガネを掛けた女子生徒だった。
そして更に、驚くべき事態は続く。
「覗き見とは余り感心せんな、少年。」
突如、横から掛けられた声。
その言葉の意図を理解すると同時に、心臓を掴まれたような感覚に襲われる。
俺はその声の主の方へと即座に振り向く。
それは見覚えのある顔だった。
1週間程前。
東京駅の構内で出会ったあの異邦人の顔だった。




