第1章の9 始動
東京市赤坂区溜池町。
かつては溜池と呼ばれた遊水池を取り囲むように点在した幾つもの大名屋敷により、この辺り一帯は江戸有数の武家屋敷街として栄えていた。
それが明治維新以降になると、武士達の集い競い合う質実剛健たる町並みから、芸妓が集い、舞い踊る妖艶優美な花街へとその姿をガラリと一変させた。
そしてその姿を転身させた当初より、多くの軍人や政治家達が花街の料亭を会合や宴会の場として利用してきた。
ある時は、秘密の会合を催す場として。
ある時は、無礼講の宴席を設ける場として。
目的は様々あれど、今日までに数え切れない程の者達が、夜の赤坂に身を投じていった。
※
「大凡の決行の期日は、来月5月の中頃となる。」
とある料亭の個室。その中には数人の青年将校達が集い、卓を囲んでいる。
だが彼らは卓上に並べられた酒や料理もおざなりに、会議に没頭していた。
「現段階での目標は、首相官邸、牧野内務大臣邸、華族会館、工業倶楽部、政友会本部、民政党本部、巣鴨刑務所、警視庁の計8箇所だ。」
「振り分けはどうする?」
「各目標の担当の人員と部隊は、後日に改めて検討することとする。
人員は多いことに越したことはないからな。ギリギリまで同志を募る。」
「海軍や士官学校からは我々の呼び掛けに応じた者がそれなりにいるが、問題は、」
「陸軍のほうか・・・。」
その言葉に皆の顔が一様に曇る。
かつて、統帥権干犯問題が勃発した際に、いち早く反応を示したのが海軍だった。
それもその筈で、軍縮条約の対象が軍艦や潜水艦の保有数といった海軍の戦力に直結する内容であるだけに、条約の賛成派、反対派問わずに、海軍が大きな動きを見せることは当然と言えば当然のことだった。
だが逆に、当時世間が条約の賛否や統帥権干犯問題で揺れ動く中で、陸軍だけは不気味な程に静まり返り、世の中の成り行きを静観していたのだった。
故にこの場に集った者達は、同じ不安を懐いていた。
果たして、今回は彼らはどう動くのかと。
「とは言え協力を取り付けられれば、これ程頼もしい戦力は存在しないのもまた事実か・・・。」
何とも歯痒いと言わんばかりに、溜め息を吐く。
「とにかく、引き続き陸軍の方への接触を続けよう。
前回とは違って、数名ではあるが陸軍の士官候補生の賛同を得ることは出来た。であればいずれは彼らの助太刀を得られるかもしれん。」
「協力を取り付けるなら、歩三の奴らが良いだろう。
あそこの将校は急進派の者が多いと聞いている。比較的話も共感を得られ易い筈だ。」
「成る程な。」
と、この場の中心人物と思しき者が大きく頷いた。
「取り敢えずの方向性は決まったな。後は物資のほうだが・・・、」
そこで彼は気が付いた。この部屋の外、障子で隔てた向こう側の廊下から微かに足音が聞こえてきた。
「噂をすれば、というやつか。」
その言葉の直後、障子が勢い良く開かれ、
「古賀清志、只今帰還致した。」
1人の青年将校が入って来た。
「ようやく戻って来たか。して事の次第は?」
「ああ、問題無くいった。」
古賀清志と名乗った者がそう答えた直後に、彼の背後からもう一人の人間が姿をのぞかせた。
それは彼ら青年将校よりも二回り程も歳の離れているであろう壮年の男だった。
そして誰もが、現れたその人物に驚きの表情を浮かべた。
「これはこれは大川先生。先生自らが御足労なさるとは・・・。」
そう言うと、この場にいた誰もが深々と頭を下げた。
「なに、そんなに畏まることはない。
この場では、私も世の行く末を憂う同志の一人に過ぎないのだからな。」
「本日はお来し戴き感謝の言葉もありません。」
「なに、礼には及ばんよ古賀君。
ここに来たのはこの会合に参加してみたかったという、私の我儘に過ぎんのだからな。」
そう言って大川は腰を下ろし、
「取り敢えずは、ここまでの流れを教えてもらいたいな。」
青年将校達の和へ加わった。
※
会合に加わった大川は、青年将校達からこれまでの話の流れを聞いた。
「ふむ、随分と頼もしいことだ。
君達のような正義感溢れる若人がいるとは、帝国もまだまだ捨てたものではないな。」
そうして彼ら大まかま計画を聞き出した大川は、満足げに頷くと、
「これは私からの細やかな力添えだ。上手く役立てたほしい。」
手にした鞄から何かを取り出し、机の上に並べていった。
「これは・・・、」
それを目にした青年将校たちの表情が驚愕の色へと染まっていく。
卓上に置かれたのは、札束の入った封筒。
そして数丁の拳銃と百発近い弾薬だった。
「礼には及ばぬよ。
荒事の出来ぬ私に可能なことと言えば、精々がこの程度だろうからな。」
大川がそう言って肩を竦めるも、それを制するように、
「謙遜を、大川先生。
これほどのものを揃えるなど、並大抵のことではなかったでしょう。」
「そうですとも、先生。
先生の熱い思い、師かと受け取らせていただきました。」
「先生のお心遣い、決して蔑ろには致しませぬ。
我等、決死の思いでことに臨む次第です。」
興奮した青年将校達は、口々に己の思いを吐き出した。
「であれば、ありがたい。」
大川は立ち上がり、元来た襖の方へ向かう。
「武運を祈るぞ、諸君。
君達ならば間違いなく大事をを成すことが出来る。」
大川は襖を開け、部屋の外へと出ようとした。
その時だった。
不意に何かを思い出したように立ち止まると、再び部屋の中へ向き直り、
「そう言えば、影峰君はどうした。」
彼らに問いかけた。
その問いに、しばらく青年将校達は交互に顔を見合わせた後、
「いえ・・・、我々もわかりません。」
そのうちの1人が答えた。
影峰とは、彼らの協力者の1人だった。
彼自身は軍属では無く、右翼系の団体に属する民間人に過ぎなかった。とは言え、彼の政治活動に掛ける熱狂ぶりは、自らの属する団体の中でも群を抜いており、それ故に彼はこうした将校達の集う会合にもかなりの頻度で顔を覗かせていた。
「影峰にも、今日のこの会合の日時は伝えておりましたが。」
「まあ、今日は彼にも別の予定があったのではないでしょうか。」
大方の将校達の達した結論がその様なモノだった。
「・・・そうか。」
大川はただそれだけを言った。
彼らの結論に納得したのか、していないのか、或いは何か別の考えがあるのか・・・。
よくわからない曖昧な口調だった。
そして再び、
「ああ、それと・・・、」
何かを思い出したように彼は呟く。
「麻布の歩三との交渉についてだが、その選択についてはおおよそ間違いはない。
だが・・・、やはり難航はするだろうな。」
そう告げると今度こそ襖の向こう側、廊下の奥へと消えていった。
※
「さて、北君。きみはどうするね。」
廊下を進む大川は、独り呟く。
「この大川周明。生涯において出会った唯一無二の朋友であり、宿敵でもある君のことだ。
大事の前に、よもやただ静観を決め込むつもりではあるまいよ。」
「乗るか、反るか。」
彼から零れ落ちるは喜悦の笑み。
彼もまた、無垢な子供のように、この先起こるであろうことを想像し、期待に胸を膨らませていた。




