第1章の8 切欠
「キリエッ、大丈夫かッ!」
彼は弾かれたように傍へと駆け寄り、その小さな体を抱え上げた。
「おいッ! しっかりしろッ!」
抱え上げた己が娘の身体を確かめる。その身体には目立った外傷のようなモノは無い。
「・・・。」
細い手首からは脈拍を感じ取ることができ、微かに呼吸している音も聞こえた。
おそらくは気絶しているだけなのだろう。取り敢えずは少女に命の危険がないことは分かった。
しかし、
「安心してる場合じゃねえ・・・。」
男は少女を抱え上げ、立ち上がると即座に元来た道を引き返した。
「とにかくここから逃げねえとッ!」
一体何時、この惨状をもたらした者がここに現れるか分かったものでは無い。
犯人は再び現場に戻る。或いは、未だにここに留まっているのか。いずれにせよ、1秒でも早くここから離れなければ、己の命までもを危険に晒すことになりかねない。
玄関を飛び出し、通路を走り、階段を駆け下りた。
※
「病院か、警察か・・・。」
彼は夜の道をひた走りながら、まずどちらへ向かうべきか逡巡していた。その時、
「う・・・ん。」
抱きかかえた腕の中で、そんな呻き声が聞こえた。
「おとう・・・さん・・・?」
「キリエ、気が付いたか。」
少女が目を覚ましたことに、男は僅かに安堵した。
「お父・・・さん。お父さんッ!」
だがそれも束の間、意識を取り戻した少女は、男の胸元に強く抱き着いた。
「血が・・・、知らない人が・・・、」
彼女は堰を切ったように捲し立てる。
「起きたら、血がいっぱい、いっぱい拡がってて。
知らない女の子が部屋の中に居て、部屋の真ん中で、血の海の中で・・・。
それでその子が私に近付いて来てッ!」
「落ち着け、キリエ。もう大丈夫だ。
父さんがあそこから連れ出したから、もう大丈夫だ。」
何とか娘を宥めようと声を掛けるも、少女はひどく取り乱し、次々と言葉を捲し立てた。そして、
「お母さんが、殺されたのッ!」
「何・・・?」
「白い女の子が、お母さんを・・・。
部屋の中で歌いながら、楽しそうに踊りながら、お母さんを殺したのッ!
そして私の方に来て、私に向かって手を伸ばしてきてッ!」
「・・・そう、か。」
己が身に降りかかった恐怖を必死で伝えようと言葉を紡ぐ。
九死に一生を得た少女が紡いだ言葉の一つ一つを、男は一切聞き漏らすことは無かった。
そして彼は決断した。
※
「おいッ! 開けてくれッ!
誰かいるんだろう。頼むから開けてくれッ!」
男は何度も叫び、扉を叩いた。
そうして暫く叫んでいると入り口の中で明かりが灯り、人が現れた。
「やかましいぞッ! 一体今何時だと思ってる、ん・・・だ!?」
不機嫌そうな顔で現れた男の顔色が、みるみる内に変化していった。
それもその筈だ。目の前には激しく息を切らせた男が、その腕の中に血塗れの少女を抱えて立っていたのだ。
「急患だ、しばらく娘を預かってくれ。」
困惑する男にまるで構うことなく要件だけを告げた。
「一体全体、何がどうなってやがるッ!」
「人殺しだ。それもおそらくはあの例の殺人鬼だ。」
殺人鬼。
その単語に、更に男は絶句する。
「だから頼む。俺の娘をかくまってくれ。」
「・・・ここは脳病院だぞ。応急処置は出来ても、本格的な処置となると器材が無え。」
「だからこそだ。
外傷自体は無いが、殺人の光景を直に見てしまったらしく精神的にひどく混乱しちまっている。」
医師はその男の腕の中で怯えている少女を一瞥した。
「わかった。ならば俺も最善を尽くそう。」
そう言って彼は白衣を身に纏った。
「お父さん・・・。」
「大丈夫だキリエ。ここならば安全だから、怖がる必要なんかないんだ。」
怯える娘を優しく撫で、そして男は少女を医師に託すと踵を返した。
「俺はサツに行って、この事を知らせて来る。」
「そうか、お前さんも気を付けろよ。」
「娘を頼む。」
「ああ、任せておけ。」
そうして男は再び夜の闇の中へと飛び込んで行った。
※
数日後、帝都に激震が走る。
悲報と朗報、2対の稲妻が駆け抜けた。
豊多摩郡千駄ヶ谷町の同潤会青山アパートの一室で、深夜未明に惨殺事件が発生した。
その悲報を受けた帝都の市民達は、例外無く彼の正体不明の殺人鬼を思い浮かべた。
昨年の末頃から突如現れた謎の殺戮者。
東京警視庁、延いては内務省の威信を懸けた必死の捜査にも関わらず、まるでそれを嘲笑うかの如くに捜査の網を擦り抜け、その正体も姿形も全く掴ませぬ儘に凶行を重ねていった。
夢魔や幽鬼を彷彿とさせるその恐るべき狩人によって、帝都中が恐怖のどん底に引き摺り込まれてしまった最中、再び今回の事件が起こってしまった。
だがしかし、暗雲立ち込め覆われた帝都にも一筋の光明が差し込んだのだった。
今回の事件がこれまでと決定的に異なるのが、犯行の下手人を目撃した者がたった一人存在し、且つその唯一の目撃者が生存していることだった。
藁にも縋る思いだった警視庁は、たった1本の、だが確かな解決の糸口を得たことにより歓喜に沸いた。新聞社各社も、一連の事件で今回初めての目撃者が現れたことを大々的に報道し、帝都中に宣伝した。
『”唯一の生存者且つ、目撃者。帝都を揺るがせた殺人鬼の正体、遂に明らかになるかッ!?”』
大仰な第一面記事を飾る謳い文句に釣られ、皆がこぞって買い求め、紙面を食い入るように読み漁ると、新聞は瞬く間に帝都の中を駆け抜けていった。
果たしてコレがもたらすモノは吉報か凶報か。
それはまだ誰にも判らない。
だがしかし、深海の水底にも似た閉塞感が漂う帝都で、この瞬間を境に何かが動き出した。そんな朧気ながらも確信めいた予感を多くの者達が懐いた。
事実、これが切欠となり、海底の泥中で悶え、蠢いていたモノが、その姿を現すこととなる。
そして彼もまた、その一人。
「~~~♪♪」
「随分と嬉しそうだな。」
「ええ勿論です。今まで丹精込めて下準備を積み重ねてきた舞台がようやく動き始めたのですから。」
「ひょっとしなくてもこの記事のことなのだろう。」
そう言うとバサリと鳴らし、大きく文字の書かれた紙面を見せた。
「流石は明智君。察しが良くて助かりますよ。」
「好きなように動くと良い。君が何を企んでいるのかは知らないが、僕は契約に従い、君が娯楽を提供するのを待つだけだ。」
「ええ、僕も契約に従って明智君のお眼鏡に適うモノを提供致しましょう。
そしてそれはそう遠くないうち、ここへやってきます。」
「それは重畳。」
「まあ、ですのでその時まで気長に待って戴けると幸いですね。
勿論、明智君にもそれなりに楽しんで戴けるものであることは僕が保障致しましょう。」
そう言って江戸川は朗らかに微笑んだ。
それはどこまでも無邪気で、どこまでも邪悪な笑顔だった。




