第1章の6 誘宵
時刻は夜の11時を過ぎた頃。
東京市小石川区久堅町。この町内に佇む鄙びた一軒の家屋。
「結局、クソ親父の思惑通りかよ。」
「まあ仕方ないよ。実際問題として寝室が足りなかったのは事実なんだし・・・、」
その一室に川の字に布団を並べて横たわるは、深夜と若葉、
「だからこそ私達2人だけじゃなく、こうして真宵ちゃんも一緒の部屋で寝ている訳だし。」
そして、もう一人の少女だった。少女は微かな寝息を立てて心地良さそうに眠っている。それを気遣い、深夜と若葉は小声で言葉を交わしていた。
この少女の名は柊真宵。
今年で5歳となる柊家の次女であり、四兄妹の末子であり、深夜の妹だった。
「それも俺達2人だけにならないように、母さんと姉さんが取り計らってくれたからな。」
薄暗い天井の木目をぼんやりと眺めながら、深夜はこの家に着いた頃のことを思い出していた。
深夜が家の玄関を開いた時、真っ先に目に飛び込んで来たのが玄関土間に正座する父、晴源の姿だった。その身形もボロボロで、まるで殴り合いのケンカでもしたかのような、そして一方的に砂にされたかのような有り様だった。
その一種異様な、ともすると心のどこかでスカッとするような光景に深夜と若葉の2人は呆気に取られ、言葉を失っていた。
そしてそのすぐ後に玄関の奥から深夜の母親が姿を現し、2人を出迎えた。
『お久し振り深夜、若葉ちゃん。遠路遥々お疲れさまでした。私も朔夜も真宵も、2人が帰って来るのを心待ちにしていたわ。
立ち話も何だから、早速上がってちょうだい。』
彼女のすぐ真横にて異様な存在感を放って鎮座する父を、まるでそこに何も存在しないかのように華麗に無視して2人の到着を心から寿いだ。
後に深夜は姉の朔夜から事の次第を聞き、大凡の事情を把握した。
実は、深夜と晴源の電話での遣り取りの始終を朔夜も、真宵も、そして母の柊紬も一つ同じ居間で聞いていた。
そして晴源が豪快に高笑いをしながら受話器を切った直後、
『お父さん、少し表に出ましょうか。』
紬は優しく微笑みながらポンッと彼の肩に手を置いた。そうして2人は共に、否、半ば彼女に引き摺られるような形で玄関へ向かった。
『ねー、朔夜おねえちゃん。お父さんとお母さんはなんでお外にいったの?』
『心配しなくても大丈夫よ、真宵。全然大した事じゃないから。それよりもお姉ちゃんと一緒に遊びましょう。』
そうして朔夜と真宵が家の中にいると、家の外から数度の轟音が鳴り響いて暫くした後に、2人が家の中に戻って来た。
紬は出て行った時と戻って来た時とで何ら変わりは無かったが、それとは真逆に晴源は全身ボロボロの見るも無残な形で居間へと入って来た。
『ねー、何でお父さん、あんなばばっちくなっちゃったの?』
『さあ、何故かしらね。』
朔夜は呆れたような表情で、真宵は疑問符を浮かべながらそれぞれそれを眺めていた。
※
「ハッ、自業自得だ。ザマァ見ろってんだよ。」
姉からその話を聞いた瞬間は、深夜は嘗て無い程に溜飲が下がるのを感じていた。
「アハハ・・・。」
若葉もその言葉には只々苦笑する。
流石の若葉でも擁護し切れるものではなかったのだろう。彼の狡猾さ、老獪さ、そして大人気の無さは若葉も十分に思い知っていた。
そして彼の悪巧みは非常に性質が悪い。取り外そうと踠けば踠く程、更に纏わり付いて来る蜘蛛の巣のような、或いは結末が只一点に集約している阿弥陀籤のような悪辣さだった。
事実、結果としては晴源の謀った通りの展開だ。
「何時だってそうだ。過程は兎も角として結果だけはクソ親父が望んだ通りの展開になりやがる。」
だからこそ素直に手放しで喜ぶことが出来ないのだ。
そして姉の話を聞いたすぐ後に、母の紬は、
『ごめんなさいッ。私としてもどうにかしたいと思っているのだけど、お父さんが言った通り、この家はそんなに広くなくて部屋も多くないの。
だから・・・ね。お願い2人とも、一緒の部屋に泊まってちょうだい。』
そう言って深夜と若葉に謝った。まるっきり何の落ち度も無い筈の彼女が、何度も何度も頭を下げていたのだ。深夜はそんな母に対して申し訳なく思うと同時に、下がっていた溜飲が逆流するような感覚を味わっていた。
『せめて、て訳じゃないけど、真宵と一緒に寝てくれないかしら。あの子も久し振りに深夜と若葉ちゃんに会えて、すっごく楽しそうにしていたから。』
そうした次第で3人は同じ寝室で寝ることになった。
布団へ入った真宵に、若葉は本を読んで聞かせていた。珍しくも無い、幼い頃によく聞かされた昔話だった。始めのうちは楽しそうに聞いていた真宵も、次第にその瞼が重くなっていき、そして暫くすると若葉の腕の中で眠ってしまった。
若葉は起こさぬようにそっと腕を抜き、真宵に布団を掛け直した。
※
「真宵は?」
「ぐっすり眠ってるよ。」
「そうか・・・。済まなかったな、結局最後まで任せ切りにしちまって。」
「んーん、大丈夫だよ。私も好きでやってたんだし。」
そう言いながら若葉は眠る真宵を布団の上から優しく撫でていた。
「にしても早いもんだな。来年からはもう小学校に入学するってんだから。」
「そうだねー。この前に会った時はまだこんなに小さかったのに。」
「それに小学校に上がると同時に、京都の本家に行っちまうしな・・・。」
ハア・・・、と深夜は大きな溜息を吐いた。そんな深夜の露骨な落胆に、
「ねえ深夜・・・、あなたまさか兄妹盲愛じゃないでしょうね?流石にそれは私でも、どうかなあ・・・って思うよ。」
若葉は若干引き気味だった。
「ちげえよ。只単に昔の俺と重ね合わせただけだ。
あん時の俺みたいに真宵も親元を去る悲しみを味わうんだろうなって。そう考えるとコイツが不憫に思えてな。
なら兄として多少なりとも何かしてやんねえとなってよ。」
嘗て深夜も小学校へ上がる時に親元から離れ、京都の本家へと送られた。その時の光景が段々と頭の中に浮かび上がって来る。
優しい母と離れ離れになってしまう寂しさ。
そして、ロクでもない父から離れられるあまりの嬉しさ。
「・・・よくよく思い出してみれば、そんなに悲しくはなかったわ。つーか寧ろ嬉しかったぐらいだったな。」
「台無しだよ、深夜。」
「しょうがねェだろ。昔っから弩クソだったんだからよ。」
思い浮かぶは、父の数々の所業。
「つーかそもそも何で母さんはあのクソ親父と結婚したんだろうな。」
「それは私もずっと疑問に思ってた。まあ、それでも結果だけ見ればお似合いの2人だったと思うよ。あの晴源さんでも、紬さんには頭が上がらないようだし。」
「主に物理的にな。」
「流石は椿の生まれと言うか、紬さんと言うか。」
「どっちもだろ。」
柊紬の旧姓は椿であり、四季家の中の椿の家の出自だった。
椿が司る概念は、”成長”や”活動”と言った”春”を象徴するものであり、その関係から椿家は身体能力を向上させる魔術に長けていた。
「樋熊の1頭や2頭程度、母さんなら素手で容易く撲殺できる、なんてことを親父が昔言ってたな。」
「・・・冗談でしょ?」
「いや多分、本当なんだろうよ。あん時は珍しく親父も真剣な顔してたからな。」
たおやかで線が細く、いつも優し気な微笑を浮かべている母が、実はいとも簡単に熊を捻り潰せる程の膂力の持ち主であると言う。
いくら魔術で身体を強化できるとは言え、そんな余りにかけ離れた隔差に深夜も若葉もまるで想像が及ばない、否、その姿を想像することすら憚られる程、恐ろしく思えた。
「あーあ、いつか母さんがあのクソ親父を擂り潰してくれたらなあ・・・。」
「いやいや、流石にソレはないでしょ。」
若葉は呆れたように苦笑した。
「それに何だかんだあっても、晴源さんと紬さんはすっごく仲が良さそうだしさ。」
「だとすると益々母さんも親父も互いの何処に引かれたのかが判らなくなってくるな。」
「そればっかりは当人達のみが知るということじゃない?」
それは長年来の謎だった。
※
「まあ、何でもいいか。そろそろ俺達も寝ようや。今日は色々あり過ぎて流石に疲れた。」
「深夜、今日は色々と災難だったからね。」
「その一つにお前も含まれてるからな。」
ごろりと、深夜は若葉のいる方へ寝返りを打つ。
「えー、ひっどいなあ。今日はたくさん色んな所に行けて楽しかったじゃん。」
「強行軍に付き合わされる身にもなってみろ。」
「それでも何だかんだ言いつつ、深夜はちゃんと付き添ってくれた。」
「東京のど真ん中にほっぽり出す訳にもいかねえからな。」
「それは当たり前だよ。って、ああもう、そうじゃなくて・・・。今日は楽しかったってものあるし、それにすっごく嬉しかった。」
若葉もまた深夜の方へごろりと寝返りを打つ。
「昔みたいに深夜が楽しそうにしてるのを見れて嬉しかった。」
「・・・。」
「如何にも関心無さそうな振りしてだけど実はすごく興味深々な風な、そんな全然素直じゃない笑顔が見れて嬉しかった。」
「・・・おい。」
「冷静振っているけど実際はまるでそうじゃない、ダメダメな深夜が見れて嬉しかった。」
「おいッ!」
「要するに何が言いたいかって言うと、いつものような必死で無理をしてる姿じゃなくて、昔みたいな自然な感じの姿が見れて嬉しかったの。」
互いの目が合う。暗い寝室の中でも、何故か互いの顔がハッキリと見えていた。
2人の間に流れる沈黙。
2人の間に流れる、真宵の気持ち良さそうな寝息。
そして暫くの沈黙の後、
「済まなかったな、若葉にはずっと気を遣わせっぱなしだった。」
始めに口を開けたのは深夜だった。
「自覚はあったんだ。」
クスリと、若葉は苦笑する。
「流石に俺もそこまで鈍くねえ。」
「ううん、別に絶対に無理をするなって訳じゃないの。深夜も男の子だから、譲れない時や意地でも無理を通したいって思う瞬間があるのは知ってるつもり。でもここのところの深夜は、必要以上に自分を追い込み過ぎてるように見えて、正直見てて辛かった。
だから今日の深夜の姿が見れて、私はすっごく嬉しかったの。
私が好きな深夜が見れて、すっごく、すっごく嬉しかったの。」
再び訪れた数秒の沈黙。そして、
「ねえ、深夜。私・・・、深夜のことが好きだよ。」
心地よい沈黙を破ったのは、若葉のそんな言葉だった。
※
「深夜だけじゃない。朔夜さんも、真宵ちゃんも、紬さんも、それに・・・晴源さんも。
そして、よっちゃんも。」
その瞬間、微かに空気の流れが変化した。
「今頃よっちゃん、どうしてるなかな?」
「・・・さあな。夜半が土御門の宗主様のとこに養子に行った切り、特に会ってねえからな。
まあ、夜半なら大丈夫だろうさ。なんせ、あの天下の土御門様のとこだし、アイツは俺とは段違いで頭も要領も良いからな。」
深夜は特に気にも留めていない、といった風に言ったつもりだったのだろう。
「うん・・・、そうだね。私もそうだと思うよ。」
ソレに気付かないのは当人だけだった。
「でもね、さっき真宵ちゃんに聞いたら、よっちゃんのこと全然知らないって。自分は3人兄妹の末っ子だって言ってた。」
そして若葉も、己が分からなくなっていた。
「どうして・・・、ああなっちゃったんだろうね。」
どうして今更こんなことを言ってしまったのか。
いや、そもそも何故ここまで感傷的なってしまっているのか。
今日一日の楽しかった思いや、嬉しかった気持ちに絆されたから?―それもあるかもしれない。
今まで無意識の奥底に溜まっていたモノを吐き出したかったから?―それもまたあるかもしれない。
いずれにせよ、若葉は心の中を大きくかき乱されていた。
平時ならばまず有り得ないことだった。だが若葉は今まさに、己の内側から次々と溢れ出る感情を抑え留める術を見失っていた。
「・・・今さらソレを言っても仕方ねえよ。
アレは親父と向こうが・・・、じゃねえな。”柊家”と”土御門家”が決定したことだ。俺や若葉、或いは例えあの親父だろうが、騒いで反対したところでソレを覆すことなんか出来やしなかっただろうよ。」
ソレを知ってか知らずか、或いは努めてか。深夜の言葉は平静だった。
「だから泣くなよ若葉。」
「・・・うん。」
「いつもみてえな喧しいぐらいが、お前にはちょうど良いんだからよ。」
「・・・うん、ありがとう。」
若葉は滲み出る涙を拭う。
「ねえ、泣いてるの?若葉お姉ちゃん。」
その時、今まで寝ていた筈の迷いがいつの間にか目を開けていた。
「あ・・・え、ええっと・・・。」
咄嗟に誤魔化そうとするも、上手く言葉が出なかった。
「明日は真宵も連れて3人で遊びに行こうって話をしててな。それで若葉は、それが楽しみ過ぎて泣いてるんだよ。」
「そうなのッ!」
「え、ええ・・・そうよ。明日3人で遊びに行くのがすっごく楽しみなの。」
「てな訳だから真宵、今日はもう早く寝ろ。じゃねえと明日起きれなくなるぞ。」
「うん分かった。おやすみなさい深夜お兄ちゃん。」
いそいそと布団の中に潜り込む真宵。
零れ落ちる涙を布団の中まで持っていく若葉。
やれやれと、苦笑を浮かべ床に着く深夜。
そうして3人はそれぞれに様々な思いを抱えて、眠りの中へと沈んでいく。
※
その後、日々は瞬く間に過ぎ去っていく。
そして4月11日。
深夜と若葉は、遂に入学式を迎えることとなる。




