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帝国激動 ~Tales of the Crumbling Empire City~  作者: 十条クイナ
第1章 黎明
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第1章の3 出会い

「ご馳走様でした。とっても美味しかったです。それと、」


 そう言って、手にした紙束を振って見せる。


「地図まで戴いてしまって、わざわざご親切にありがとうございます。」


「なーに、気にすることはないよ。

 お嬢ちゃん達は存分に観光を楽しんでおいで。」


 店主は快活に笑い、彼女らを見送る。

 ハイジ、レオン、ステラは改めて礼を述べ、店を後にした。


「親切なおじさんだったね。

 それに料理も美味しかったし。」


 ステラは満足そうに腹をさする。


「さて、そしてらどうやって帝大に行こうか。

 都電を使うか、国鉄を使うか・・・。」


「国鉄を使えばいい。」


 地図を見ながら悩むレオンに、ハイジはそう提案した。


「そしてオチャノミズから帝国大学まで歩く。

 高々1.5キロ程度の道のりだ。歩きながら観光でもすればいいさ。」


「ステラはどう思う?」


「その程度の距離だったら全然良いよ。それに食後の運動にもなるし。」


「なら決まりだね。僕もそれに賛成だ。」


「よーし、意見も纏まったところだし、直ぐに出発しましょう。」


 そうして3人は、片手に地図を握り締めたステラを先頭に、元来た道を進んでいく。

 そして再び飯田橋駅へと入って行った。


    ※


 御茶ノ水で下車した彼女らは橋を渡り、外堀を越える。


「あれが聖橋ひじりばしか。なんだか余りパッとしないね。」


「私達から見ればそうだろうよ。

 日本人にとっては、ああいった意匠が珍しいと言うだけのことだ。」


 地図を頼りに3人は進む。

 順天堂病院と文化アパートの間の道を通り抜け、やがて本郷通りへ到る。

 そこは比較的大きな通りだった。

 その中央には路面電車のレールが敷かれ、その両側を様々な者や人が行き交っていた。しかし、


「やっぱり自動車は少ないね。」


「流石にまだ車は、そんなに普及していないみたいだね。そこは日本もドイツも同じか。」


 その言葉通り、道路を走るのは自転車や大八車といったものばかりで、自動車はまだまだ少なかった。


「えーと・・・、この道を真っ直ぐに進めば、帝国大学に着くみたい。」


 そう言うとステラは目的地の方を指差す。


「分かった。取り敢えずそのまま先導を頼む。」


「オッケー、どーんと任せて。」


 再びステラを先頭に、彼女らは本郷通を北へ向けて歩き出した。


    ※


「ねえ見て見て、ハイジ、レオン。

 真っ赤だよ、真っ赤な門。」


「ステラ、そこは帝大の正門ではない。」


「ええ、そうなの!?

 ていうか、二人とも置いてかないでよ。一応、私が先頭なんだからね。」


 そして駅から歩くこと凡そ十数分。

 ようやく3人は帝国大学の正門へ辿り着いた。


「へえー、何だかすっごく楽しそうな所だね。早速中に入ってみましょうよ。」


「ちょッ、ステラ・・・。」


 言うが早いか、行くが早いか。

 レオンが静止する間も無くステラは道路を渡り、門へと駆け出してしまった。


「まったく・・・、最初はあんなに渋っていたのに。」


 当の彼女は、今では真っ先に門を潜り、その向こう側で大きく手を振っていた。


「構わんよ、ステラに付いていてやれ。私は後からゆっくりと付いて行くさ。」


「ありがとう。」


 そう言ってレオンは、門の向こうの彼女を追って中へ入って行った。


「・・・やれやれ。」


 一人残されたハイジは溜め息を吐く。

 そして彼女もまた、2人の後を追うべく道路を横断しようとした、その時だった。


「”Guten Tag, Fräulein.”(こんにちは、お姉さん。)」


 突如、背後からそんな声が掛けられた。


    ◆


 小川町、駿河台下するがだいした神保町じんぼうちょうと、各停留所を経て九段下くだんしたへ至った1台の路面電車は、そこで右に進路を変えて飯田町通りを北上ほくじょうする。

 やがて飯田町の停留所に至ると、電車は再び停車した。

 そしてその電車から下車する乗客達の中に、柊深夜と楸若葉の姿があった。


「やっぱり寮に荷物を置いて行った方が良かったね。

 そうしとけば、わざわざ東京駅まで戻らなくて済んだはずだったから。」


「まあ、今更それを言ってもしょうがねえよ。」


 深夜と若葉は大きな荷物を手に飯田町通りを上る。


「つーか、どっちにしろ手間は殆ど変わらねえだろ。

 仮に先にこっちに来たとしたも、結局は直ぐに東京駅まで蜻蛉とんぼ帰りする羽目になっただろうからな。」


「うーん、それもそうなのかな。」


 2人は取り留めも無い話をしながら歩く。途中、通りから右側に伸びる細い路地へと入って行く。

 そして、


「あ、見て。きっとあれじゃないかな?」


 そう言って若葉は寄宿舎を指さした。

 2人は外門を潜り抜け、寮の玄関へと入って行く。


「すみませーん。誰かいませんかー。」


 その呼び掛けに反応は無い。


「あのー、すみませーん。」


 若葉が再び呼び掛けると、しばらくの静寂の後に、


「はーい、今行きまーす。」


 と言う声がようやく奥から聞こえて来た。

 そしてその数秒後に、慌てたような様子で若い女性が姿を現す。


「ごめんなさい。少し準備に立て込んでいて遅れてました。」


 そう言って彼女はぺこりと頭を下げた。


「いえいえ、そんなにお気になさらないでください。私達も特に急いでいる訳ではありませんので。」


 若葉も、そんな彼女の姿に少し焦ったように手を振った。


「それはそうとですね、今月から入寮することになりました楸若葉と・・・、」


「柊深夜です。」


「楸若葉さんと、柊深夜さんですね。

 はい、お話は既に伺っております。直ぐにお部屋へ案内致しますので少しお待ちください。」


 そう言って彼女は、また部屋の奥へ入って行った。


「今のが寮母さんかな?」


「多分な。」


「結構若い人だったね。」


 2人がそんな話をしていると、再び彼女が姿を現した。

 その手には2つの鍵が握られていた。


「お待たせしました。こちらへどうぞ。」


 寮母は深夜と若葉を促し、部屋へと案内する。


 2階、3階と階段を上る。

 深夜と若葉は、寮母の後に付いて廊下を歩いていくと、やがて彼女がある部屋の前で立ち止まった。


「こちらが若葉さんと深夜さんのお部屋になります。」


「あーいいなー。深夜角部屋じゃん。私の部屋と交換してよ。」


「馬鹿言うな。そんなこと出来る訳ねえだろ。」


 若葉の言葉に深夜は、呆れたように答えた。しかし、


「出来ますよ。」


 寮母から出てきたのは、そんな予想外の言葉だった。


「マジでッ!?」


 思わず深夜は、寮母の方を振り向く。


「今のうちになら、ということです。

 と言いますのも、お二人とそれぞれ相部屋になられる生徒さんがまだいらっしゃっておりませんので、今ならコッソリと入れ替えちゃっても大丈夫です。」


 それでいいのだろうか、と深夜は思う。


「やったあッ! なら私が301号室ね。」


 そんな深夜の考えをよそに、若葉は嬉しそうに喜んでいた。


「深夜さんは、それで宜しいでしょうか?」


「仕方ねえさ。コイツがこうなったら、もう意地でも譲らねえだろうからな。」


 最早深夜も、既にこういった展開には慣れてしまっていた。


「えへへー、ありがとう深夜。」


 そして2人は、各々の部屋の鍵を受け取る。


「ああ、それと寮母さん。今日の寮の夕食は何時からだい?」


 鍵を差し込んでいた深夜は、ふと、そんな疑問を口にする。

 だがその直後、寮母は沈鬱そうに表情を曇らせる。

 そして暫くの沈黙の後、実に申し訳なさそうに、


「ごめんなさい。寮の食堂は本日は、と言いますか・・・、入学式の日まで・・・休みなんです。」


 彼女は重大な事実を告げた。


「・・・マジで?」


「・・・マジです。」


「それって寮としてどうなんだ。」


「本当にごめんなさいッ!」


 寮母は何度も何度も彼らに頭を下げていた。


    ◆


「こんにちは、お姉さん。今日はお出かけ日和の天気ね。」


 背後から掛けられた声。

 ハイジは、その声の主の方へ振り返る。

 そこにいたのは一人の可憐な少女だった。

 己より幾分か年下の女の子。

 黒を基調として所々にフリルがあしらわれた、今日日きょうび日本ではまだ珍しい西洋風の服を纏った少女。

 だがそれ以上に目を引くのが、彼女の髪だった。

 真っ白い髪。

 まるで氷雪を思わせるような純白の銀髪ジルバーブロンディーネ

 その余りに日本人離れした外見に、ハイジは思わず息を飲む。


「日本人・・・だよな?」


「ええ、正真正銘の純粋な日本人ですよ。」


「済まない。失礼なことを聞いてしまった。」


「気にしなくても良いわ。初めて私を見た人は皆同じように驚くから、もう慣れちゃったの。」


 少女はそう言って愛らしく微笑む。

 まるで白百合を想起させるようなはかなげで可愛らしい外見だった。


「私は千春。鬼柳千春って言うの。」


 だがその外見とは別の所に、ハイジは違和を感じていた。


    ※


「ねえ、お姉さん。お姉さんの名前を教えてほしいな。」


 千春と名乗った不思議な少女は、常に笑みを絶やすことなく語り掛けてくる。


「・・・アーデルハイト。

 アーデルハイト・フォン・グリンデルヴァルトだ。」


 ハイジはそう名乗った。

 不思議で、そして得体の知れない少女に、何故か思わず本名を名乗ってしまった自分自身にハイジは驚愕する。


「アーデルハイト? ああ、だからハイジって呼ばれているのね。

 それに、”フォン”ってことは、ひょっとして貴族さんなのかしら。」


 そんなハイジの驚きを余所に、千春は再び問いかけてきた。


「ああそうだ。と言うか千春・・・、君は随分と詳しいんだな。」


「ええ、この前に出会った人がドイツに詳しい人だったから、彼に教えてもらったの。

 それも言葉だけじゃなく、歌やダンスも一緒にね。」


 そう言うと千春はクルリ回って躍るような仕草をしてみせた。


「ねえ、私もあなたのこと、ハイジって呼んでも良いかしら。」


「別に構わん。好きに呼べば良いさ。」


「やったあ、ありがとうハイジ。」


 するとそこに、サーと一陣の微風そよかぜが凪いだ。

 その風に乗って、少女の方からほのかに香草アロマの芳香が流れて来る。


「私は今日ね、この近くにあるお寺に行ってたの。」


 心地良い香気に混じって、微かに別の匂いが漂ってきた。


「いつもはあんまりこの辺りを通ることは、少ないんだけどね。

 だけど今日は少し気になるものがあって、気紛きまぐれにここまで歩いて来たのよ。」


 その匂いはハイジにも覚えがあった。


「そしたらね、何とここにハイジがいたの。」


 千春は、パッと花が咲いたような可愛らしい笑顔を作った。


「なあ千春。今お前が身に付けている香水は何だ。」


 そして即座にその臭いの記憶に思い至る。


「これ? これはねえ、また別の人から貰ったモノなの。

 舶来物の香水なんですって。」


「そうかい。ならその香水に混じって微かに漂ってくる別の臭いは何だ。」


 思い至ると同時にハイジは、目の前の少女に対する警戒心を一気に強めた。


「何のことかしら。」


とぼけるなよ。大分薄くはなってしまっているが、これは間違いなく血の匂いだ。

 それも人間のな。」


 その瞬間。

 今まで千春の顔に貼り付いていた可愛らしい笑みが、一瞬で剥がれ落ちた。

 後に残ったのは、能面のような無表情と奈落を思わせる虚ろな双眸だった。


    ※


 数秒か。数十秒か。

 或いはもっと短かったのかもしれない。

 2人は無言のまま、互いに凝視し合っていた。

 否、ハイジは目を逸らすことが出来なかった。たとえ一瞬であっても、目を逸らした次の瞬間に己の身に何が起きる。

 そんな確信めいた予感があった。


 そして暫くした後に、緊張の糸は切られた。

 ソレを断ち切ったのは千春の方からだった。


「流石お姉さんね。でもどうして分かったのかしら?」


 そう言うと、千春は再び元の可愛らしい笑顔を浮かべた。


「生憎、私はそういったモノに敏感な体質なのでな。」


 その言葉に、千春は益々嬉しそうに微笑んだ。


「へえ、私と同じだね。実は私も鼻が結構良い方なの。

 そして今日は随分と珍しい匂いが漂ってたから、思わずソレに誘われる儘にフラフラとここまで来ちゃったんだけど、やっぱりハイジに声をかけて正解だったわ。」


「へえ・・・。それで、お前は一体何の臭いに釣られたんだ?」


「鬼よ。」


 千春は即答する。


「・・・。」


「それも私と同じ人喰い鬼。」


 その笑顔は何処までも純粋だった。


「人喰い鬼の匂いを辿って来たら、ハイジ・・・、貴方がここにいたの。

 そしてその匂いはね、今も貴女から漂っているの。」


 そして少女は、その小さな手をハイジへ差し出す。


「ねえハイジ、私とお友達になりましょうよ。同じ鬼同士、きっと良いお友達になれると思うの。

 だから、お友達の印に私と握手をしましょうよ。」


 少女は何処までも純粋に喜んでいた。

 初めて出会った己以外の鬼。

 それも、海を越えて遙か遠くの異国の地より日本へやってきた同類の者。

 千春は本気だった。本心から、目の前の少女を人喰い鬼だと信じていた。


 そしてソレはハイジも同様だった。

 己が母以外で出会った初めての鬼。

 故郷の国から遙か遠く離れた、異邦に地にいた同種の存在。

 己と同じ人喰い鬼。

 故に、ハイジは、


「御免だな。」


 その手を払い除けた。


    ※


 少女はキョトンとした、まるで何が起きたか理解できないと言った表情を浮かべた。


「お前は今まで何人の人間を牙に掛けた。」


 だがハイジは気に留めること無く、目の前で茫然とする少女を問い質した。


「さあ? 両手の指じゃ足りなくなってからは数えていないわ。」


 それは偽りでは無い。

 少女は、まるで息をするかのように人間を手に掛けてきた。

 誰もが、生まれてから今まで行った呼吸の回数を数えるなどしないように、そしてそれを気にすら留めないように。

 

「そうかよ。ならば私が言うべきことは一つだ。」


 そしてハイジはハッキリと告げる。


「貴様なんぞと一緒にするな。」


 その瞳の中では、彼女の感情が燃え上がっていた。


「人喰い鬼?ああ、確かにそうだな。そこについては否定はせんよ。自覚はしているし、何よりそのことに誇りを持っている。」


 苛烈に。


「だからこそ己が胸の内に刻み、遵守する誓約がある。それが襲う者に対するせめてもの礼儀だ。」


 一切の容赦も無く。


「だが貴様は何だ。只々(ただただ)己の欲望の儘に、手当たり次第に襲っては喰い散らかすその様は。」


 その言葉の端々に、彼女の怒りと苛立ちが込められていた。


「この国では、貴様の輩のことを餓鬼と言うそうだな。

 傑作だな、この国の人間も中々どうしてユーモアがあるじゃないか。」


「矜持も、礼儀も、節度も無い。

 まるで聞き分けの無いガキが、空腹で我を忘れ、転がっているモノを手当たり次第に口に放り込むのと何が違う。」


「そんなものは最早、人喰い鬼ですら無い。

 貴様のことだぞ千春。貴様と私が同類に思われるなど、反吐が出る。」


 千春は何も言わなかった。

 只々変わらず、その表情は笑顔のままだった。


「何より不快なのが、血の臭いに混じって漂ってくる娼婦の臭いだ。

 さぞ多くの男共に抱かれたのだろうな。貴様の身体から滲み出ている精液の臭いは、取って付けたような芳香程度で誤魔化し切れるものではない。」


大方おおかた端金はしたがね欲しさに己のみさおの安売りでもしたんだろうよ。」


「ええ・・・、そうね。」


 笑顔を貼り付けたまま、千春は呟いた。

 そして再び一陣の微風が吹き抜けたかと思った。その刹那、


「あなたの言う通り、私は餓鬼で。そして淫婦インプなの。」


 ハイジの背後から、少女の声が聞こえた。


    ※


 一瞬のことだった。

 ハイジの正面に立っていた筈の少女が、何時の間にかその背後に立っていたのだ。

 ハイジは瞬きすらしなかった。常に目の前に立っていた少女を警戒していた筈だった。

 だが、気付く間も無く、少女は眼前から消え去っていた。

 そして気付いた時には既に何もかもが遅過ぎた。


 ハイジが振り向く間も無く、その腰に小さな手が巻き付く。

 その瞬間、まるで大蛇に巻き付かれたかのような怖気が走った。

 少女が少しでも力を込めれば、いとも容易く己は絞め殺される。考えるまでも無く、ソレを直観的に理解した。


「今日は貴女あなたに嫌われてしまって、お友達になれなかったのはすごく悲しくて、すごく残念だったわ。」


 だがその危機感に反して、腰に回された手は優しくハイジを抱擁ほうようするにとどまっていた。


「でもね。あんなに酷いことを、あんなに悲しくなることを言われたのに、それでも何故か貴女のことが今でも嫌いになれないの。」


 にも拘らず、ハイジの身体はピクリとも動けず、振り解くこともまるで叶わなかった。


「今日はもう私は帰るけど・・・、できれば何時か何処かで、また貴女と会いたいな。」


 そして戒めが解かれる。


「それじゃあね、アーデルハイトさん。今日は不快な思いをさせてしまってごめんなさい。」


 解放されると同時に、ハイジは勢いよく背後を振り返る。

 だがその少女の姿は、既に影も形も無くなっていた。

 微風が吹き抜ける。

 風に吹かれ、身震いすると共にハイジは気付く。己の全身から冷や汗が噴き出していた。


 油断など微塵もしていなかった。だが結果はあの有り様だった。

 まるで赤子のように手も足も出なかった。

 千春の慈悲か、はたまた只の気紛れか。

 ハイジが今もこうして生きているのは、只単に運が良かったというだけだった。

 もしもあの時、天秤が僅かでも逆に傾いていたら、間違いなくハイジは血溜りに沈んでいた。


    ※


「遅いよハイジ。」


 正門の奥で待っていたステラは、頬を膨らませていた。


「・・・。」


 だがハイジは、あるでそれに反応しなかった。

 深く、深く何かを考え込んでいるかのようだった。


「ねえ、ハイジってばッ。一体どうしたのよ。」


 見かねたステラが、ひょいと、ハイジの歌をを覗き込む。

 そしてようやくそれに気が付いたハイジは、少し驚いたようにった。


「・・・済まない、少し考え事をしていた。」


「そうなの? と言うか、さっきむこうで誰と話してたの。」


「・・・少し通り掛かった者と話し込んでいた。」


「へえ、そうだったんだ。でもまあいいや。さあ、早く図書館に行きましょッ!」


 ステラは、ハイジとレオンの手を引いて駆け出す。

 しかし腕を引かれながら付いて行くハイジは、まるで上の空だった。

 ハイジの中では、様々な感情が渦を巻きながら氾濫はんらんしていた。

 

 死への絶対的な恐怖。

 千春の姿が消えた瞬間から沸き上がった、心の底からの安堵。

 同時に、己の自信とプライドを深く傷付けられた屈辱感。

 

 そして、去り際の千春の言葉。

 あの言葉に感じてしまった、僅かな罪悪感。


 少女の道化じみた笑顔が。あの作り物めいた仮面のような笑顔が、ハイジの頭の中に焼き付いたまま消えることは無かった。

 ハイジが、ばり辛辣な件について。そして千春フルボッコの図。

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