第九話 ふたつの部屋
目を開けたとき、まめこは少しの間、天井を見ていた。
いつもの梁がない。
窓も、寝床から遠い。薄い布越しに朝の光が入っていて、その下の椅子には、昨日もらった服が掛かっていた。
公爵邸に泊まったんやった。
そう思い出して足を動かすと、掛け布の向こうで黒い耳が起きた。
「トロ。もう朝やで」
トロは前脚を伸ばし、お尻を高く上げた。まめこが起き上がるより先に寝床から下り、細く開いた扉へ向かっていく。
「待って。わたしも行く」
まめこは掛け布をめくり、足を床へ下ろした。靴を履こうとして、まだ寝間着だと気づく。
椅子の服に手を伸ばしかけ、やめた。新しい方は、自分で留められるか分からない。昨日着てきたワンピースを取り、背中の留め具を探った。
うまく届かなかった。
トロが戸口から振り返る。
「あんた、服なくてええな」
廊下から、控えめに扉を叩く音がした。
「まめこさん。起きていらっしゃいますか?」
「起きてる。後ろ、届かへんねん」
マリーが入ってきた。手には、顔を洗うための水を入れた器と、畳んだ布を持っている。
「今日は早いですね」
「トロが出ていくから」
マリーは器を台へ置き、服の背中を留めてくれた。洗った顔を拭いてもらい、髪を整えてもらっている間、まめこは扉の方を見ていた。
黒い尻尾が、戸口で一度揺れた。
「まだお庭の支度ができていませんから、廊下で待っていてくださいね。私は、お嬢様を起こしてきます」
「メグ、まだ寝てるん?」
「ええ。さっきは、もう少しだけ、と」
まめこは鏡の中のマリーを見た。
「わたしも、いつも言うやつやな」
「よくご存じですね」
髪を結び終えたマリーが、鏡越しに笑った。
*
廊下の奥で、昨日お茶を運んでくれた年配の使用人が、花瓶を持ち上げていた。
トロはその足元で止まった。
「おや。お早いですね」
「おはよう」
まめこが挨拶すると、使用人は花瓶を台へ戻した。昨日の花に混じって、まだ開ききっていない蕾がある。
「これ、替えてるん?」
「水を替えて、傷んだところを取っております」
小さな籠には、茶色くなった葉が入っていた。
まめこは花瓶を見上げた。昨日は花がきれいだと思っただけで、その水を誰かが替えているとは考えなかった。
「いっぱいあるやろ。こっちにも、階段にも」
「ええ。お嬢様のお部屋にもございますよ」
「メグの?」
「お帰りになる日は、お入れしておくんです」
まめこが廊下の向こうを見ると、使用人は首を傾けた。
「まだ、お休みでしょうか」
「マリーが起こしに行ってる」
「では、もう少し掛かりますね」
迷いのない返事だった。
まめこが笑うと、使用人も目元を緩めた。
開いた庭の扉から、パンの匂いが流れてきた。別の使用人が盆を持って通り、トロはすぐにそちらへ向き直る。
「お庭へ出てもええ?」
「奥様がいらっしゃいます。こちらをどうぞ」
まめこは礼を言い、トロの後ろを歩いた。
石の段を下りると、朝の空気が頬に触れた。日陰の草には露が残っている。昨日座った腰掛けより手前に、白い布を掛けたテーブルが置かれていた。
「おはよう、まめこ」
ドーナが手招きをした。
「よく眠れました?」
「うん。起きたとき、天井ちゃうって思った」
「お部屋が変わると、そうなりますわね」
椅子へ近づくと、ドーナがまめこの髪へ触れた。
「まあ。もう支度も済んだのね」
「マリーにしてもろた。今、メグ起こしてるで」
「あの子は、昨日も遅くまで本を開いていましたから」
ドーナが椅子を少し引いてくれた。まめこは腰を下ろし、テーブルの下へ足を入れる。
トロのための小皿も、椅子から少し離れたところに置かれた。黒い鼻がすぐに近づく。
「トロは、もう食べるん?」
「待っていても、お茶は飲みませんもの」
まめこは頷いた。それから、まだ空の椅子を見た。
イオルドは先に来た。手にしていた紙を使用人へ渡し、まめこの向かいに座る。
「おはよう。昨夜の続きは、覚えているかな」
「お金しまったとこやで」
「そうだった。では、そこから聞こう」
まめこが茄子を売ったお金の話をしていると、庭の扉が開いた。
メグが、マリーと一緒に出てきた。髪はきれいに編まれているのに、目だけが少し眠そうだった。
「おはようございます」
「おはよう。よく眠れたか」
「ええ、お父様」
メグが座ろうとすると、ドーナが手を伸ばした。
「襟が入っていますわよ」
首元の布が、そっと引き出される。
「……ありがとうございます」
「昨夜は、何を読んでいたの?」
「昔、読んでいた本ですわ。少しだけのつもりでしたのに」
まめこは、ドーナに襟を直してもらうメグを見ていた。
「メグも、直してもらうんやな」
「見えないところは、仕方ありませんわ」
「わたしも、後ろの留め具してもろたで」
「あなたの留め具は、手が届きにくいのです」
「メグの襟は?」
メグは、直してもらったところを指で押さえた。
イオルドがパンへ手を伸ばしながら笑った。
マリーも席に着き、温かい卵と、切った果物が取り分けられた。まめこはパンを割った。中から湯気が上がり、指先が少し熱い。
「昨日の本、面白かったん?」
「ええ。昔は分からなかったところも、今なら読めるのですわ」
「メグの部屋にあったん?」
「そうです。こちらに置いてある本も、まだたくさんございますから」
まめこは窓の並んだ壁を見た。
「見てもええ?」
「本を?」
「お部屋も。メグ、前はそこで寝てたんやろ?」
メグはパンを皿へ戻した。
「ええ。朝ごはんが済んだら、行ってみましょうか」
「うん」
「昨夜のままになっているものを、少し片づけてからですわよ」
ドーナが言うと、メグは母を見た。
「本が一冊、開いているだけですわ」
「その下に、もう一冊ありましたわね」
まめこは、二冊やな、と思ったが、口にする前にメグがこちらを向いた。
パンを食べることにした。
*
朝食のあと、メグはまめこを二階へ連れていった。
トロも階段を上ってきたが、途中の窓から日が差しているのを見ると、そこで横になった。
「ついてくるんちゃうかったん」
返事の代わりに、トロは小さく「ふぁ」と声を漏らした。黒い腹だけが、ゆっくり動いている。
メグは廊下の先で扉を開いた。
「どうぞ」
まめこは、敷居をまたいで中へ入った。
自分が泊まった部屋より、ずっと広い。
壁際に大きな寝床があり、窓のそばには机と椅子。机の横の花瓶には、さっき廊下で見たものと同じ花が入っていた。
棚には本が並んでいる。下の段には、小さな木箱と、大きな二枚貝の片側の殻が置かれていた。白い殻のふちは、欠けずにきれいに残っている。
「ここ、ずっとメグの部屋なん?」
「ええ。家具の場所は、何度か変えましたけれど」
メグは机へ行き、開いた本へしおりを挟んだ。その下の一冊も持ち上げ、棚へ戻す。
まめこは棚の貝殻を見た。
「これ、触ってもええ?」
「どうぞ。両手で持ってくださいね」
手のひらへ載せると、指先から少しはみ出した。もう片方の手を添えて裏返すと、内側は薄い桃色になっている。
「拾ったん?」
「ええ。小さい頃、お父様と海へ行ったときに。砂浜に落ちていたのです」
「きれいやな。持って帰ってええって?」
「ええ。ただ、砂を洗ってからにしなさい、と」
「砂、落ちるもんな」
「早くお母様に見せたくて、そのまま馬車へ持っていってしまいましたの」
まめこが顔を上げた。
メグは貝殻を受け取り、元の場所へ戻した。
「座席に、少し落としましたわ」
「少し?」
「……掃除はいたしました」
まめこは笑って、今度は本の背を眺めた。
細い本、大きな本、表紙の色が褪せた本。読める字もあったが、題名の全部は分からない。
「どれ、昔読んでたん?」
メグは下の段から、薄い本を抜いた。
窓辺の長椅子へ並んで座り、膝の上で開く。最初のページには、絵があった。小さな船と、それより大きく描かれた魚。魚の下には、短い文章が続いている。
「これなら、絵だけでも楽しめますわよ」
「釣りの本?」
「海で暮らすものの本です。魚のほかにも、貝や鳥が載っております」
まめこは、次のページをめくった。
大きな鳥が岩の上に立っている。隅には、鉛筆で小さな丸が付けてあった。
「ここ、誰か書いてるで」
「わたくしですわ。見たことのあるものに、印を付けていたのです」
まめこは前のページへ戻った。魚にも丸がある。
「これも?」
「そちらは、お店で見ました」
「海ちゃうやん」
「見たことは、ありますわ」
さらにめくると、見開きの地図があった。
折り目のところが柔らかくなり、端には細い紙が貼ってある。まめこが指を置こうとすると、メグが下からページを支えた。
「ここは破れやすいので、そっと」
「いっぱい開いたん?」
「ええ。この地図が好きでしたの」
まめこには、形の意味はよく分からなかった。陸の周りに青い色が塗ってあり、小さな船の絵が幾つも浮かんでいる。
「ムーン、どこ?」
メグが一点を指した。
「この辺りですわ。街の中まで描いてある地図ではありませんが」
「ちっちゃいな」
「広いところを描けば、一つ一つは小さくなります」
まめこは、メグの指の先を見た。家も、学院も、港も、その小さな辺りにあるのだという。
「これ、全部海なん?」
「青いところは、そうですわね」
「船、ずっと漕がなあかんやん」
「帆を使う船もございますよ。風を受けて進むのです」
「港で見た大きいやつ?」
「ええ。ああいう船で、もっと遠くへ行くのですわ」
メグの指が、ムーンベルから離れたところへ動いた。
その先にも陸がある。文字がある。まめこがまだ読めない名前だった。
廊下からドーナの声がした。
「入ってもよろしい?」
メグが返事をすると、ドーナは扉を開けた。
「まあ。その本を見ていたのね」
「地図、いっぱい開いてたんやって」
「ええ。寝る前にも、このページでしたわ」
ドーナは長椅子の横へ来て、まめこの見ている地図を覗いた。
「もうおしまいと言っても、まだここへ行っていないから、と」
「本の続きを、見たかったのですわ」
メグはページの端を押さえた。
まめこは地図の船を見た。絵の船は、確かにどこへも行っていない。
「メグ、昔から海行きたかったんやな」
「ええ。釣りも、好きでしたけれど」
メグは窓の方を向いた。
「釣りをしていると、出ていく船が見えるのです。あの船は、どこまで行くのかしら、と」
「追いかけたん?」
「そこまでは、できませんでしたわ」
「岸から歩いて、ずいぶん先まで行こうとしたことはございましたね」
ドーナが付け加えた。
メグは母を見た。
「本日は、そういうお話をする日ですの?」
「まめこが、あなたのお部屋を見たいと言ったのでしょう?」
まめこは頷いた。
メグは困ったように息を吐いたが、本を閉じはしなかった。
*
地図を見終えると、ドーナが棚の隣の引き出しを指した。
「小さい頃の帳面も、そこに残してありますわよ」
メグの手が止まった。
「それも?」
「昨日は、まめこが見せてくれましたもの」
「見たい」
まめこが言うと、メグはしばらく引き出しを見ていた。それから、本を棚へ戻し、薄い帳面を一冊取り出した。
「昔のものですから、今とは違いますわよ」
「分かってるで」
机の上で開いてもらう。
同じ字が、横へ幾つも並んでいた。
まめこは身を乗り出した。最初は小さく揃っているのに、行の終わりへ行くほど、大きくなっている。隣の字とくっつき、直した跡もあった。
「ここ、ぎゅうぎゅうやな」
「終わりまで入ると思ったのです」
「わたしもなる」
まめこはページの端へ指を置いた。
「メグも、字ぐにゃぐにゃやん」
「それは、今のあなたより小さい頃のものですわ」
ドーナが帳面の最初を覗いた。
「こちらは、八つの頃ですわね」
まめこは顔を上げた。
「わたしと一緒や」
メグは表紙を見直した。
少しの間、誰も喋らなかった。
「……別の帳面と、間違えましたわ」
まめこが笑い出すと、ドーナも口元へ手を添えた。
メグは一度目を閉じ、それから机の上へ帳面を戻した。
「ほら。こちらは、ずっと揃っているでしょう?」
後ろのページを開く。今度は、端まで字が収まっていた。
「ほんまや」
「練習したのですわ」
まめこは前のページと見比べた。
「どれくらい?」
「一度では、ありませんわね」
メグが幾枚かページを戻した。同じ字が続いているところがある。消しすぎて、紙が毛羽立っているところもあった。
まめこは、そこには触らず眺めた。
メグはいつも、まめこの横で簡単に字を書く。見本を頼んだら、待たせずに書いてくれる。
メグが今のように字を書けるようになるまでには、何度も練習した時間があった。
「これ、置いとくん?」
「ええ。捨てる理由もありませんし」
「わたしのも、置いとこ」
「今の帳面ですか?」
「うん。上手くなったら、前の見たい」
メグは頷いた。
「でしたら、日付も書いておきましょう。いつ書いたものか、分かるように」
「ここにもある?」
「最初にございます」
表紙の裏を見せてもらうと、確かに字があった。
まめこは読めるところを一つずつ追った。ドーナは口を挟まず、机の向こうで待っていた。
*
ドーナが昼食の支度を見に行ったあと、まめこは窓へ近づいた。
庭の道が、上からよく見える。朝ごはんのテーブルは片づけられ、白い布もなくなっていた。庭師が花壇の脇で屈んでいる。
メグは帳面を引き出しへ戻し、まめこの隣へ来た。
「この窓からも、船見えるん?」
「港は見えませんわ。もっと高いところなら、海は見えますけれど」
「お庭は、よう見えるな」
「小さい頃は、庭師がどこにいるか、ここから探していましたの」
「何で?」
「お庭へ行けば、何をしているのか教えてくださるから」
まめこも庭師を見た。小さな道具で、土を掘っている。
窓から離れ、もう一度部屋を眺めた。
寝床は広いし、本もたくさんある。廊下へ出れば、知っている人がいる。朝になれば花の水を替えてくれて、ごはんもできる。
「メグ」
「はい?」
「こんなええ部屋あったのに、なんで今のおうちにしたん?」
メグは窓枠から手を離した。
「今のおうちも、悪くありませんでしょう?」
「うん。でも、こっちの方がおっきいで」
まめこは寝床の方を指した。
「ごはんも、作ってもらえるし」
「今も、マリーに作ってもらっておりますわ」
「せやな」
まめこが頷くと、メグは少し笑った。
「自分で決めて、暮らしてみたかったのです」
「何を?」
「菜園に何を植えるか、とか。机をどちらへ向けるか、とか」
「そんなん、ここでも決めたらええやん」
メグは自分の机を見た。
「そうですわね。お部屋の中は、ずいぶん好きにさせていただきました」
「ほな、何がちゃうん?」
メグは長椅子へ座り、隣を軽く叩いた。
まめこも戻って座った。
「ここでは、わたくしが忘れていても、誰かが整えてくださるのです。薪も、お台所のものも。気づいたときには、ちゃんとございます」
「マリーもしてくれるで」
「ええ。ただ、マリーだけに任せていたら、手が足りないこともありますわ。わたくしがやることも、決めなくてはいけません」
「買いに行くやつ?」
「それもございます。雨の前に片づけるものとか、明日までに済ませておくこととか」
メグは少し考えた。
「家を出る前は、もっと簡単だと思っていたのですが」
「簡単ちゃうかったん?」
「菜園を始めたら、植えたいものが全部入らないのですわ」
まめこは声を立てて笑った。
「広さ見てからにせな」
「今は、そうしております」
「マリー、何て言うたん?」
「まず、歩く場所を残してください、と」
まめこは、家の菜園の細い通り道を思い浮かべた。あそこにも野菜があったら、水を運ぶたびに踏んでしまう。
「釣り道具も、最初は全部、作業部屋へ置こうとしたのです」
「竿、長いで」
「置いてから気づきましたわ」
メグも笑った。
「そういうことを、一度、自分でやってみたかったのです。お父様とお母様にお願いして、あの家で暮らせるようにしていただきました」
「マリーも一緒に?」
「ええ。一人だけでは、まだ早いと言われましたから」
廊下で、足音が止まった。
「今でも、お嬢様お一人にはできませんね」
開いた扉のところに、マリーがいた。手にした盆には、水差しとカップが二つ載っている。
「ちょうど、あなたのお話をしていたのですわ」
「ええ。歩く場所のお話から、聞こえておりました」
マリーは小さなテーブルへ盆を置いた。
「最初は、あれもこれもとなってしまいますからね」
「今は、考えておりますわよ」
「存じております」
水を注いでもらうと、まめこはカップを両手で持った。
「ドーナ様、寂しくなかったんかな」
メグは扉の向こうを見た。
「寂しかったと思いますわ。最初は、帰ってきたら、もう少し泊まっていきなさいと何度も」
「近いのに?」
「近くても、夜は別のおうちでしょう?」
まめこはカップの中を見た。
メグが帰ってこない夜は、うちで待っていたら寂しい。ここにもたくさん人がいるけれど、ドーナもそうだったのかもしれない。
「そやな」
「ですから、お顔を見せに来るのですわ。お手紙も出して」
「わたしも書くで」
「ええ。昨日のお約束ですものね」
メグがカップを持ち上げた。
まめこは、自分の寝床のことを考えていた。
「わたしの寝るとこも、作ってくれたんやな」
メグの手が、少し止まった。
それから、カップをテーブルへ戻した。
「ええ。あなたが来てから、変えたところもありますわ」
「何変えたん?」
「あなたのお部屋にあったものを、別の場所へ移しました。棚も、下の方を空けて」
まめこは顔を上げた。
「前は、何入ってたん?」
「わたくしの本です」
「今、わたしの帳面あるとこ?」
「ええ」
あの棚の下の段は、自分のものを入れるところだった。最初から、そういう棚だと思っていた。
「本、どこ行ったん?」
「作業部屋と、わたくしの部屋へ。よく読むものは机のそばにございます」
「入った?」
メグはマリーを見た。
「……整理いたしました」
「床にまで積まれましたので、置き場所を決めて片づけていただきましたね」
マリーが言った。
まめこは、床に本を積んでいるメグを想像した。抱えて移し、また別のところへ置いている。
「メグも運んだん?」
「本は、わたくしのものですから」
メグは膝の上で手を重ねた。
「あなたが、自分で出したりしまったりできるところが必要でしたの。高い棚ばかりでは、毎回、誰かを呼ばなくてはいけませんでしょう」
まめこは頷いた。
帳面も、着替えも、持っていく鞄も、自分で取れる場所にある。
「最初は、その下の段でも、奥まで届きませんでしたね」
マリーが椅子へ腰を下ろした。
「手前へ置くようにいたしました」
「今は届くで」
「ええ。今は、奥へしまったものも取れますね」
まめこは少し背筋を伸ばした。
メグが、その頭の高さを見ていた。
「大きくなりましたもの」
その言い方が、昨日のドーナに少し似ていた。
*
部屋を出る前に、まめこはもう一度、棚の本を見た。
「このお部屋、なくならへんの?」
「なくなりませんわ。帰ってきたら、使いますし」
「本も置いとける?」
「ええ。お母様は、今でも花を入れてくださいます」
まめこは窓辺の花へ目を向けた。
メグがここにいない日にも、机と寝床は残っている。帰ってくる日は、花が入る。
「わたし、ここに泊まるとこもあるな」
「昨日のお部屋ですわね」
「うん。でも帳面は、うちの棚やで」
「持って帰って、しまいましょう」
メグは地図の本を手に取った。
「こちらも、持って帰りましょうか。続きを見られますわよ」
「ええの?」
「わたくしの本ですもの」
まめこへ渡しかけ、メグは本を開いた。見開きの地図をもう一度確かめる。
「ただ、このページは一緒に開きましょう。破れかけておりますから」
「下、持っとくやつやな」
「ええ。覚えていてくださいね」
まめこは本を受け取り、胸に抱えた。
廊下へ出ると、トロはまだ窓の下にいた。日向が少し動いたらしく、さっきより壁際へ寄っている。
「トロ、そこがお部屋なん?」
黒い耳が、こちらへ向いた。
「あんたの寝るとこ、いっぱいあるな」
まめこが屈むと、トロは起き上がって手の匂いを嗅いだ。それから、本の角へ頬を寄せようとする。
「これは、あかん。破れかけてるんやで」
少し持ち上げると、トロは「ん」と短く鳴き、何事もなかったように尻尾を立てて、階段へ向かった。
*
階下では、イオルドが廊下を通るところだった。
「見てきたか」
「うん。メグの字、わたしと一緒やった」
「昔の帳面ですわ、お父様」
メグが、すぐに付け加えた。
イオルドは娘を見て笑った。
「そうか。よく残してあったな」
「お母様が、見せてあげたらと」
「私の帳面は、探さなくていいぞ」
まめこが顔を上げると、イオルドは髭へ手をやった。
「長い名前を書くのには、苦労したからな」
「短くしてもろたらよかったのに」
「昨日の私のように?」
まめこが頷くと、メグも笑った。
隣の部屋から、ドーナが顔を出した。
「その本は、持って帰るの?」
「うん。メグと続き見る」
「まあ。今度は、二人で読むのね」
ドーナは本の表紙へ目を落とした。
「大事に持っていてくれて、嬉しいわ」
まめこは、隣のメグを見た。
「ドーナ様にもろたん?」
「ええ。こちらにある本は、そういうものも多いのです」
まめこは抱え直した。指が折れた角へ掛からないよう、手のひらで支える。
イオルドが、庭の方を指した。
「昼まで、少し外へ出るか。庭師が新しい苗を植えていた」
「窓から見えたで」
「では、何を植えていたのか、聞いてみよう」
まめこは頷いた。それから、持っている本を見た。
「先に、しまってくる」
「お部屋へ?」
メグに尋ねられ、まめこは階段を振り返った。
「うん。わたしが泊まってるとこ」
駆け出しかけて、本を抱えていることを思い出す。歩いて階段を上った。
部屋では、寝床が整えられていた。椅子の服も、鞄も、昨日と同じ場所にある。
まめこは鞄を開き、帳面の隣へ本を入れた。窮屈にならないように位置を変え、留め具を掛ける。
帰ったら、棚の下の段へしまおう。
帳面の横に入るだろうか。
幅を思い出しながら廊下へ出ると、メグが階段の上まで迎えに来ていた。
「入りました?」
「鞄には。棚は、ちょっと動かさなあかんかも」
「でしたら、一緒に考えましょう」
「わたしが動かしてもええ?」
「あなたの棚ですもの。使いやすいように」
まめこは頷き、メグの隣へ並んだ。
下から、庭へ出る扉の音がした。
トロはもう外へ行ったらしい。
「あんた、また先に行くん」
まめこが階段の下へ呼びかけると、庭の方からドーナの笑う声が聞こえた。
メグと歩く速さを揃えて、まめこは一段ずつ下りていった。
めぐ「まめこには負けたくない!」




