第十話 庭に残る歌
庭へ出ると、トロは石の段の下で立ち止まっていた。
まめこが最後の一段を下りたところで、振り返る。
「待ってくれてたん?」
「ん」
短く鳴いて、また歩き出した。
まめこもそのあとを追った。昨日座った丸い腰掛けの向こうに、イオルドとドーナがいる。花壇の脇には浅い木箱が置かれ、小さな苗が幾つも並んでいた。
「本は、しまえたか」
「うん。鞄に入ったで」
「では、こちらを見せてもらおう」
イオルドが声を掛けると、庭師は手の土を払い、立ち上がった。
日に焼けた顔に、深い皺があった。帽子の下から覗く髪は白く、腰に下げた布も、靴の先も土で汚れている。
「そのままで構わない。何を植えているんだ?」
「花壇の手前に、低い花を。奥の花が隠れませんように」
庭師は木箱から一つ持ち上げた。
小さな鉢の中で、葉が重なっている。その間から細い茎が伸び、先に丸い蕾が付いていた。
まめこは屈んだ。
「まだ咲いてへんのやな」
「ええ。こちらは、もう少しです」
「何色になるん?」
「白ですよ。隣に植えたものは、紫です」
指された方を見ると、土の上に同じような葉が並んでいた。今はどちらも緑色で、まめこには見分けがつかなかった。
「咲いたら、よう分かるな」
「楽しみにしていてください」
庭師はまた膝をつき、小さな道具で土を掘った。
まめこはその横から覗いた。鉢を傾け、苗の根元を指で支えて抜く。根と土は、鉢と同じ形のまま出てきた。
「崩れへんの?」
「根が回っておりますから。少しほぐしてやります」
白い細いものが、土の周りにたくさん見えた。
トロが鼻を近づける。
「トロ、そこ掘るとこやで」
まめこが背中へ手を置くと、トロは顔を上げた。庭師は道具を止め、空いた手で黒い頭をひと撫でした。
「お手伝いですか」
「土、触りたいだけかもしれへん」
トロは撫でる手へ頬を押しつけた。
「それか、こっちやな」
ドーナが笑い、まめこの隣へ屈んだ。
「まめこも、一つ植えてみます?」
まめこは庭師を見た。
「ええの?」
「では、こちらへ。穴は、私が掘りますから」
庭師が少し横へ動いてくれた。まめこは花壇の縁へ膝をつこうとして、ワンピースの裾を見下ろす。
後ろから、メグが手を伸ばした。
「裾を、こちらへ寄せておきましょう」
「朝のお部屋の服、着てこんでよかったな」
「こちらも、土だらけにはしないでくださいませ」
庭師が、折った厚い布を足元へ敷いてくれた。まめこは礼を言って、その上へ膝を下ろした。
空いた穴へ、苗を両手で持って入れる。
「この高さでよろしいですよ。あとは、周りの土を戻しましょう」
まめこは片手で苗を支え、もう片方で土を寄せた。
指の間に、小さな土の塊が当たる。押し込もうとすると、庭師がそっと手を止めた。
「強く押さえなくても大丈夫です。倒れないくらいに」
「このくらい?」
「ええ」
手を離しても、苗は立っていた。
まめこは少し後ろへ下がり、並んだ葉を眺めた。
「わたしの、どれやったっけ」
「今、植えたばかりですわよ」
メグが言った。
「隣と一緒なんやもん」
イオルドが腰を屈め、花壇の端の石を指した。
「この丸い石の前だ。覚えておけるか」
縁に並んだ石のうち、一つだけ、上が丸く膨らんでいた。
「ここやな」
まめこは石へ指を置いた。それから、苗の蕾を見た。
「次、来たとき咲いてる?」
「お越しになる頃合いによりますね。咲き始めましたら、奥様にお伝えしておきます」
「では、わたくしからお手紙に書きますわ」
ドーナは立ち上がり、まめこへ手を差し出した。
「あなたの植えた花が咲きましたよ、と」
まめこは自分の指を見た。
爪の周りまで、土が入っている。
「お手々は、あとで洗いましょうね」
ドーナは気にせず、その手を取ってくれた。
*
庭の端には、水を使うところがあった。
マリーが持ってきてくれた布を脇へ置き、まめこは器の上で両手を洗った。手首から流れた水が、土を連れて落ちていく。
「指の間も、見せてください」
マリーに確かめてもらうと、右の小指の付け根に、まだ土が残っていた。
「ここ、忘れてた」
「苗は、うまく植えられましたか?」
「うん。白い花になるんやって」
「咲くのが楽しみですね」
まめこは頷き、洗った手を布で包んだ。
庭師はもう次の苗を植えている。メグがその横で何か尋ね、イオルドは少し離れた道に立っていた。
屋敷から来た使用人が、一枚の紙を差し出している。
イオルドは紙を開いて目を通し、短く言葉を返した。使用人が頭を下げて去ると、紙を畳み、上着へしまう。
「イオルド様、お仕事?」
「ええ。少し、お返事が必要だったようですね」
まめこはマリーを見上げた。
「おうちにおっても来るんやな」
「こちらでお仕事をなさることも、多いですから」
イオルドが戻ってきた。まめこの手を見る。
「きれいになったな」
「お仕事、終わったん?」
「今の用は済んだよ」
「ほな、まだお庭おれる?」
「ああ。昼食まで一緒にいよう」
まめこは布をマリーへ返した。
イオルドの横へ並ぶと、彼は歩く速さを落としてくれた。
道の先で、低い枝が揺れた。
鳥が一羽、葉の中から出て、塀の方へ飛んでいく。まめこの耳がそちらへ向くより早く、トロが腹を低くした。
「もう飛んでったで」
トロは枝を見たまま、尻尾の先を動かしている。
「あんた、さっきまで撫でてもろてたのに」
「ニャ」
まめこが笑うと、トロは姿勢を戻し、草の上を歩き始めた。
花壇から、メグも戻ってきた。
「何を聞いてたん?」
「花が終わったあとのことですわ。うちの花も、少し手を入れたいところがございますから」
「また植えるん?」
「すぐにではありません。まずは、今あるものをよく見てから」
まめこはメグの顔を見た。
「歩くとこ、残すんやで」
「覚えておりますわ」
マリーが後ろで笑った。
*
丸い腰掛けの近くに、ドーナがいた。
日陰になったところへ椅子を出してもらい、膝に薄い布を載せている。まめこが近づくと、その布を横へ置いた。
「手は、きれいになりました?」
「なったで」
まめこは両手を広げた。
ドーナに頷いてもらってから、石の腰掛けへ上がる。日が当たっていたところは、服越しにも少し温かかった。
イオルドが隣へ座り、メグはドーナのそばの椅子へ腰を下ろした。マリーも椅子を勧められたが、先に昼食の時刻を確かめに行った。
風が通ると、木の葉が擦れ合った。
まめこは花壇を見ながら、学院で覚えた歌を小さく口ずさんだ。
授業では、みんなの声が重なる。今日は、自分の声と、葉の音だけだった。
途中で一度、言葉が出てこなくなった。
そこだけ鼻歌にして、次の節へ進む。
「今のところは?」
メグが尋ねた。
まめこは歌を止めた。
「そこだけ忘れてもうた」
「そういうふうに続けるのですね」
「止まったら、次も分からんくなるから」
ドーナが少し身を寄せた。
「どんな歌なの?」
「朝、おうちを出ていく歌。帰ってくるとこもあるで」
「では、帰ってくるところまで、聞かせてもらえます?」
まめこはイオルドを見た。
イオルドも、こちらへ顔を向けていた。
「もう一回、最初から?」
「うん。よければ、聞かせてくれ」
まめこは靴の先を揃えた。
歌うときの座り方を、フィオナ先生に言われていた。背中を丸めず、お腹を窮屈にしないように。
膝に両手を載せ、息を吸う。
さっきより、少し大きな声を出した。
最初の節は、よく覚えていた。朝の戸口と、道へ伸びる影のこと。次の節で、畑を通って、橋を渡る。
忘れたところが近づいてきた。
まめこは花壇の向こうを見た。
庭師が立ち上がり、道具を木箱へ置いている。こちらを見ていたが、何も言わず、帽子の縁へ手を添えた。
まめこはそこで一度息を継いだ。
歌の中でも、道を曲がるのだった。
その言葉を思い出すと、続きが出てきた。
橋の向こうの風を歌い、日が傾いた道を歌う。最後は、灯りの付いた窓が見えて、歩く足が速くなる。
終わりの音を伸ばしていると、トロが腰掛けの下へ来た。
まめこの靴へ、尻尾が触れた。
歌い終える。
ドーナが両手を合わせた。イオルドも拍手をしてくれる。
「最後まで帰ってこられたな」
「うん。途中、思い出した」
「お声も、よく聞こえましたわ」
ドーナが言った。
まめこは少し笑って、庭師の方を見た。彼も、土の付いた手を軽く打ち合わせていた。
「お仕事の邪魔した?」
「ちょうど、ひと区切りでございました。いいものを聞かせていただきましたよ」
まめこは腰掛けの上で、小さく頭を下げた。
前へ倒れすぎて、靴の先が浮く。
イオルドの手が背中へ添えられた。
「お辞儀は、そのくらいで大丈夫だ」
「あい」
メグが笑いをこらえている。
「笑ったら、歌えへんくなるで」
「もう、歌い終えましたわ」
「次のやつ」
「では、次は真面目に聞きます」
まめこはすぐにもう一曲を考えたが、庭の扉からマリーが顔を出した。
「お食事の支度ができたそうです」
イオルドが立ち上がった。
「続きは、また聞かせてもらおう。昼食を冷ますわけにはいかないからな」
「うん」
まめこが下りると、トロも立った。
ドーナが庭師へ声を掛ける。
「花が咲いたら、教えてくださいね」
「承知いたしました」
まめこは丸い石の前を確かめてから、みんなのあとを追った。
*
昼食の席で、まめこはパンを小さくちぎった。
庭から戻ると、急にお腹が空いていた。皿の料理を食べてから、もう一度パンへ手を伸ばす。
「おかわりは、いかが?」
ドーナが籠を寄せてくれた。
「半分くらい」
「では、こちらをどうぞ」
小さなパンを一つ取って、半分に割ってくれる。
残りの半分は、メグの皿へ置かれた。
「お母様。わたくしには、まだございますわ」
「食べられません?」
「……いただきます」
まめこは二人を見て笑ったが、自分のパンにも、まだ温かいところがあった。そこから食べることにした。
「さっきの歌は、いつ覚えたんだ?」
イオルドが尋ねた。
「学院で。フィオナ先生が、先に歌ってくれるん」
「先生のあとに、歌うのか」
「最初はそう。覚えたら、みんなで歌うで」
まめこはパンを飲み込んでから続けた。
「長いとこ、息なくなるん。先生は、途中で吸うとこ教えてくれる」
「今日も、考えて歌ったのですね」
ドーナの言葉に、まめこは頷いた。
「忘れたとこばっかり考えたら、息するん忘れそうになった」
マリーが水のカップを近くへ置いてくれた。
「次にいらっしゃるときは、また別の歌も聞けるかしら」
「覚えたらな。今日のも、忘れんようにする」
「楽しみにしていますわ」
まめこはカップを持った。
次に来るときには、白い花が咲いているかもしれない。別の歌も、覚えているかもしれない。
その二つを考えていると、ドーナがメグへ向き直った。
「今日は、何時頃に出るの?」
「昼食のあと、支度ができましたら。明るいうちに戻れるように」
「そう。もう少し、ゆっくりしていけたらよかったのに」
メグは食べかけのパンを皿へ置いた。
「また伺いますわ、お母様」
「ええ。お待ちしています」
ドーナは頷いたが、今度はまめこへ目を向けた。
「まめこも、まだ遊びたいでしょう?」
まめこは庭の方を見た。
「おりたいけど、帰って本の続き見るん」
メグがこちらを向いた。
「うちの棚にも入れるから」
「そうでしたわね」
ドーナは少し笑い、まめこのカップが置かれるのを待ってから、手の甲へ触れた。
「では、お手紙も待っていますわ」
「あい。今日、花植えたって書くで」
「それは、わたくしも見ていたことですわね」
まめこは考えた。
「ほな、帰ってからのことも書く」
「ええ。それも、聞かせてちょうだい」
*
部屋へ戻ると、マリーが新しい服を畳んでくれた。
薄い布で包み、まめこの鞄とは別の荷物へ入れる。まめこは自分の鞄を開き、本と帳面の位置を確かめた。
どちらも、さっき入れたところにあった。
「こちらは、ご自分で持ちますか?」
「うん」
「では、留め具をきちんと掛けてくださいね」
まめこは鞄を閉じた。
トロは、もう籠の中へ入っていた。
「帰るん、分かったん?」
黒い顔が、籠の縁から少し出る。
「ん」
「まだ蓋せえへんで」
トロはまめこの手を嗅ぎ、また布の上へ顎を下ろした。
窓の外では、庭の葉が揺れている。
まめこは寝床を見た。朝、自分がめくった掛け布は、端まで揃えられている。椅子から服がなくなると、部屋が少し広くなったように見えた。
忘れ物は、ない。
そう思ったところで、扉を叩く音がした。
朝、花の水を替えていた使用人が、小さな紙包みを持っている。
「奥様から、お帰りになってから召し上がるように、と」
「お菓子?」
「ええ。昨日、気に入ってくださったものを」
まめこはマリーを見上げた。
「今、食べへんで」
「まだ何も申し上げておりませんよ」
マリーは包みを受け取り、服の荷物とは別にしまってくれた。
「お礼、言うてくる」
「ご一緒に行きましょう。お嬢様も、下でお待ちです」
まめこは鞄を持った。マリーが籠を持ち上げると、トロの耳が起きる。
戸口で振り返り、もう一度、椅子と寝床を見た。
それから、扉を出た。
*
玄関には、イオルドとドーナがいた。
外の馬車では、御者が荷物を受け取っている。メグはそのそばで話をしていたが、まめこたちを見ると戻ってきた。
「道の様子は、変わりないそうですわ。来たときと同じ道を戻ります」
「気をつけて帰りなさい」
イオルドが言い、娘の肩へ手を置いた。
「学校も、農園も、一度に頑張りすぎないようにな」
「ええ。ありがとうございます、お父様」
ドーナが娘を抱き寄せた。
今度は、メグも鞄を先にマリーへ預けていた。両手が空いていたので、母の背へそっと手を回せた。
「また、お手紙を出しますわ」
「ええ。六分儀のお話も、聞かせてくださいな」
メグが少し顔を離した。
「そちらのお話だけでしたら、いくらでも」
「まあ」
ドーナが笑うと、メグも笑った。
次に、まめこの前へ腕が伸びてきた。
まめこは鞄を横へずらし、ドーナへ寄った。
「お菓子、ありがとう」
「おうちで、皆さんと召し上がってね」
「うん。マリーにも、メグにも分ける」
「トロには、いつものごはんをね」
まめこは籠を見た。
蓋の隙間から、黒い鼻が出ている。
「あんたは、お魚やな」
ドーナの腕が、少しだけ強くなった。まめこも空いた手をその背へ添えた。
「また来るで」
「待っていますわ」
腕を離してもらうと、イオルドが腰を屈めた。
「歌も、ありがとう」
「次は、忘れんと歌う」
「今日のもよかったよ。思い出すところまで、聞かせてもらえた」
まめこは少し首を傾け、それから笑った。
「次も忘れるかもしれへんな」
「そのときは、また思い出せばいい」
イオルドが頭を撫でてくれた。
御者に手を貸してもらい、馬車へ上がる。座席へ腰を下ろし、鞄を膝へ置いた。
マリーが隣へ座り、籠を足元に収める。メグは向かいへ座った。
扉が閉まる前に、まめこは顔を外へ向けた。
「ドーナ様。花、咲いたら教えてな」
「ええ。忘れずに書きますわ」
馬車が動き始めた。
二人の姿が、少しずつ遠くなる。
まめこは窓から手を振った。メグも、隣の窓から手を上げていた。
砂利の道を曲がるところで、花壇が見えた。
丸い石の前に、小さな葉がある。
まだ花のない苗は、ほかの苗に混じっていた。それでも今度は、どれを植えたのか分かった。
*
門を出ると、車輪の音が変わった。
まめこは窓から顔を戻し、鞄の上へ両手を置いた。
「忘れ物は、ございませんね?」
メグが尋ねた。
「本も、帳面もあるで」
「服とお菓子も、お預かりしています」
マリーが言った。
まめこは足元を見た。
「トロもおる」
籠の中から、小さく「ニャ」と聞こえた。
「あい。分かってるで」
メグが笑った。
窓の外を、木の柵が流れていく。
まめこは、帰ってから書く手紙を考えた。花を植えたことは、ドーナも知っている。歌を歌ったことも、みんなが聞いていた。
「メグ」
「はい?」
「帰って、本が棚に入ったか書くの、どう?」
「よろしいと思いますわ。お母様は、そのあとのことをご存じありませんから」
「入らへんかったら?」
「そのときは、入るように考えてから、書きましょう」
「帳面、端へ寄せたら入るかな」
「本を寝かせて置くこともできます。家へ戻ったら、試してみましょう」
まめこは頷いた。
それなら、手紙の続きが書ける。
鞄の留め具へ指を置きかけ、今は開けなくてもよいと思った。本はちゃんと、その中にある。
籠で、トロが寝返りを打った。布に爪を引っ掛けたのか、しばらく小さな音がして、やがて静かになる。
まめこは窓へ向き直った。
道の向こうから来る風の中で、さっきの歌の続きを、小さく歌った。
今度は、曲がり角の言葉を忘れなかった。
めぐ「アミさん!ムーンヴェイル家の花壇は染料の材料じゃありませんわ!」




