第七話 港の大物
籠の中には、まだ魚が一匹も入っていなかった。
代わりにトロが入っていた。
「そこ、お魚入れるところやで」
まめこが覗き込むと、トロは丸めた尻尾の先を少し動かした。籠の底に敷いた古い布が、すっかり寝床になっている。
「釣れるまでは、貸してあげましょう」
メグはそう言って、釣り糸の先を確かめた。
休日の朝の港には、荷を運ぶ人の声が響いていた。桟橋に繋がれた船がゆっくり揺れ、舷側と岸の間で水がちゃぷちゃぷ鳴っている。大きな船の帆は畳まれたままで、その向こうに青い海が見えた。
まめこは桟橋の端から少し離れた木箱に腰を下ろし、自分の竿を両手で持った。
「今日は船、乗らへんの?」
「ええ。先に、船頭さんへお話を聞きたくて」
メグが顎で示した先では、日に焼けた男が小船に積んだ荷を下ろしていた。さっき挨拶した船頭だった。仕事が済んだら話を聞いてくれるというので、二人は邪魔にならない桟橋の外側で釣りをして待っている。
「六分儀のこと?」
「それも。学校で本を借りられましたけれど、読んでいると、聞きたいことが増えてしまいましたの」
「分からんところ、増えたん?」
「……知りたいことが増えた、と言ってくださいな」
まめこは笑って、海へ目を戻した。
借りた本を開いていたメグは、昨夜、何度も前の頁へ戻っていた。机の端には六分儀の箱があったが、今日は家に置いてきている。港へ持ってくるか迷った末、まず話を聞いてからにすると決めたらしい。
竿先が、小さく揺れた。
まめこは口を閉じた。両手に力を入れ、浮きを見つめる。
もう一度揺れた。
「今?」
「まだですわ」
浮きが沈む。まめこが竿を上げると、銀色の小さな魚が水から跳ね出した。
「釣れた!」
魚は空中で身をひねり、まめこの方へ飛んできた。
「あっ、こっち来る!」
「竿を止めて。はい、そのまま」
メグが糸を取った。魚は二人の間でぶら下がり、尻尾を忙しく振っている。
籠の中から、黒い頭が出てきた。
「今起きたん?」
トロは魚を見上げ、鼻を動かした。
まめこが籠から抱き上げると、前足を縁へ掛けて名残惜しそうにしていたが、地面へ下ろされるとメグの足元へ移った。
布を取り出し、魚を籠へ入れる。
「これで貸すん、おしまいやで」
トロは籠の隙間へ鼻を寄せた。
*
まめこが三匹目を釣ったころ、メグは自分の仕掛けを替え始めた。
普通の釣り針を片づけ、小さな包みから太い針と短いワイヤーを取り出す。糸の先へ繋いだワイヤーは、朝の光を受けて鈍く光った。
「それ、何なん?」
「大きなお魚用ですわ。歯で糸を切られないように、針の近くをこちらに替えますの」
メグは結び目を引いて確かめ、大きめの餌をつけた。
「大きいの、おるん?」
「船頭さんが、岸壁の下に時々来るとおっしゃっていましたわ」
「どれくらい?」
「釣ってからのお楽しみです」
まめこは籠を見た。三匹の魚を入れても、まだ半分以上空いている。
「入るかな」
「まず、掛かってくれませんとね」
メグは餌を少し遠くへ投げ、糸を落ち着かせた。
船頭は最後の荷を岸へ渡していた。受け取った男が肩へ担ぎ、倉庫の方へ歩いていく。メグはそちらを確かめてから、竿先へ視線を戻した。
風が吹くと、船の綱が軋んだ。
まめこは自分の餌をつけ直した。指についた匂いを嗅いで顔をしかめ、海へ仕掛けを下ろす。
「トロと同じ匂いになるわ」
「トロは、もう少しきれいにしていますわよ」
足元のトロが、前足を舐めて顔を洗った。
「今やってるだけやん」
メグが笑った。その直後、竿先がぐっと下がった。
笑い声が止まった。
メグは竿を握り直し、糸の走る先を見た。
「……来ましたわ」
竿が深くしなる。
まめこも立ち上がりかけたが、メグは海を見たまま言った。
「まめこ。自分の仕掛けを上げて、後ろへ下がって」
いつもの声より短かった。
まめこは急いで竿を上げた。餌のついた針をメグから離して置き、籠を持って木箱の後ろへ回る。トロもついてきた。
メグの踵が、桟橋の板を擦った。
両腕を引き寄せ、足を開いて踏ん張っている。糸はぴんと張ったまま、船のいない沖側へ走っていた。
「メグ、大丈夫?」
「そこで待っていてくださいな」
返事の途中で、竿がもう一段曲がった。
メグは口を結び、腰を落とした。
荷を下ろし終えた船頭がこちらを見た。
「おい、大きいのが掛かったか」
「ええ。少し、手を貸していただけます?」
船頭が駆け寄った。竿と糸を一目見て、隣の男へ声を飛ばす。
「長い鉤を持ってこい。あと、そこの綱だ」
男が船へ戻った。
メグは竿を低く保ち、少しずつ糸を手繰った。しかし、水の中で魚が向きを変えるたび、その手が止まった。
袖口から覗く指が白くなっている。
メグは一度息を吐いた。体を支える足は動かさず、胸の奥から腕へマナを巡らせる。
「Asti Fiana」
メグは筋力を高める術の力の言葉を短く唱えた。
詠唱を終えると、竿を握る腕に力が戻った。
メグは肩を引き、糸を少し取り戻した。竿の曲がりは変わらない。それでも、さっきまで動かなかった魚が、岸の方へ寄り始めた。
「お、いいぞ。そのまま急ぐなよ」
船頭が腰を屈めて水を覗く。
まめこには、糸の先の深い青しか見えなかった。籠の持ち手を握ったまま、メグの背中を見つめた。
近くを歩いていた人が、足を止めた。
「何か掛かったのか?」
「でかいらしいぞ」
その声で、別の人もこちらを向いた。
長い柄の鉤を持った男が戻ってくる。船頭はそれを受け取り、桟橋の端へ片膝をついた。
「船の下へ入れるな。こっちへ向けられるか」
「やってみますわ」
メグは竿を横へ倒した。魚は反対へ引いたが、しばらくすると、糸の角度がゆっくり変わった。
水面の下に、白っぽいものが見えた。
まめこは首を伸ばした。
それが腹だと分かったとき、その上に続く体の大きさも見えた。
「……入らへん」
思わず籠を見下ろした。
「何に?」
そばの女の人が尋ねた。
「これに」
まめこが持ち上げると、女の人は海を見て笑った。
「それは、入らないねえ」
*
魚が水面へ上がると、周りから声が上がった。
大きな頭に厚い唇。灰色がかった褐色の体には、濃い斑が浮いていた。鰭が水を叩き、桟橋の端まで飛沫が飛んでくる。
「そいつか! 道理で重いはずだ」
船頭が鉤を掛けた。
魚が暴れた。メグの竿が跳ね、船頭の腕も引かれる。
「綱、こっちへ!」
男が綱を渡した。もう一人、荷運びをしていた男が駆け寄り、端を受け取る。
まめこはトロを抱き上げた。濡れた板の上へ出ようとしていた前足を胸へ収め、木箱からさらに離れる。
「あかん。今は見てるだけやで」
トロの尻尾が、腕にぱたぱた当たった。
船頭たちは鉤で魚を支えながら、綱を鰓の下へ通した。メグは糸を緩めすぎないよう、竿を少しずつ下げていく。
「よし。釣り糸で持ち上げるなよ。こっちで上げる」
「お願いいたしますわ」
綱を持つ男たちが息を合わせた。
大きな魚が桟橋の縁を越えた。板の上へ落ちると、どん、と重い音がした。
まめこは肩を跳ねさせた。
魚は一度、大きく尻尾を打った。近くの人が一斉に下がり、船頭が濡れた布を頭へ掛ける。男たちが綱を押さえた。
メグは竿を置いた。
すぐには手を離さず、指を一本ずつ開いてから、ようやく立ち上がる。
「……上がりましたわね」
頬に飛沫がついていた。袖も濡れている。
まめこはトロを抱いたまま近づき、魚の尾の方で止まった。
「メグ。これ、わたしより長いんちゃう?」
「並ばなくてよろしいですわよ。まだ動きますから」
「並ばへんけど」
魚の口から針を外していた船頭が笑った。
「こんなのが港で上がるのは、久しぶりだ」
メグは魚を見下ろした。口元が、少しずつ緩んでいく。
「よい場所を教えていただきましたわ」
「掛けても上がるとは限らんよ。よく持ちこたえた」
周りに人が増えていた。
籠を持った買い物帰りの人。倉庫から顔を出した人。何があったのかと尋ねる子供に、先に見ていた子供が、両腕をいっぱいに広げて説明している。
その向こうから、聞き慣れた声がした。
「何の騒ぎぷに?」
人の間からカエルさんが現れた。魚を見たところで、足を止める。
「……これは大きいぷに」
「メグが釣ったんやで!」
まめこが言うと、カエルさんは魚からメグへ視線を移した。
「一人で上げたぷに?」
「掛けたのはわたくしですけれど、上げるときには皆さんに助けていただきましたの」
「途中で魔法も使ってたな」
船頭が針をメグへ返した。
「腕が持っていかれそうになってたが、あれで寄せられた」
「筋力強化の術ですわ。あのままでは、竿を支えきれなくなりそうでしたから」
カエルさんが頷いた。
「よく、その状態でマナをまとめられたぷに」
メグは、受け取った針を包む手を止めた。
「腕だけで引こうとすると、足元も危なくなるぷに。必要なところで力を補って、最後は綱に任せた。うまく使ったぷに」
「……ありがとうございます」
メグの背筋が伸びた。
「魔法で魚を飛ばそうとしなかったのも、よかったぷに。あれが人のいる方へ飛んだら、大騒ぎぷに」
まめこは魚を見てから、集まった人たちを見た。
こんなのが飛んできたら、避けられる気がしない。
「カエルさんやったら、釣れるん?」
「まず、釣り針に掛けられるかが問題ぷに」
「カエルさんが餌になっては? ふふ」
「ぷに」
カエルさんはメグを見て笑った。
「怖い事言うぷに」
メグは笑いを収め、小さく咳払いをした。
その顔を、まめこは下から覗き込んだ。
口の端が、戻っていなかった。
*
「さて。これを、どうお持ち帰りになります?」
近くの女の人に尋ねられ、メグは魚を振り返った。
まめこも振り返った。
魚を見る。籠を見る。
籠の隙間から、三匹の小魚が見えている。
「トロ、もう一回入ってええで」
「そっちを入れ替えても、この魚は入りませんわ」
メグは腰に手を当て、少し考えた。
「皆さんで分けて、お持ち帰りになりません?」
「いいのか?」
綱を貸してくれた男が尋ねた。
「助けていただきましたもの。うちだけでは、食べきれませんし」
船頭が魚の腹を見た。
「それなら魚屋を呼ぼう。ここで素人が切るより早い」
倉庫の脇にある魚屋から、前掛けをした男がやってきた。魚を一回り見て、メグに分け方を尋ねる。
「こちらの皆さんへ。うちへは、三人で食べられる分をお願いいたしますわ」
まめこの腕の中で、トロが身をよじった。
「四人やで」
「トロにも、少しですわね」
魚屋は笑い、運ぶための板を持ってこさせた。
魚が店へ運ばれると、人の輪もそちらへ動いた。メグは船頭たちに礼を言い、竿と仕掛けを片づけた。濡れた袖を見てから、鞄の中の布を取り出す。
まめこはトロを地面へ下ろした。トロはすぐ魚屋の方へ行こうとしたので、呼び戻す。
「まだやで。順番や」
その間に、船頭が小船から帳面を持ってきた。
「六分儀の話だったな」
「ええ。お仕事が終わったら、とお願いしていたのに、釣りまで手伝わせてしまって」
「面白いものを見せてもらったよ」
船頭は、乾いた木箱へ帳面を広げた。
メグがその隣に立つ。まめこもつま先立ちになって覗いたが、数字と線が並んでいて、どこから読めばよいのか分からなかった。
「学校で本を借りまして、まず測り方から覚えようと思っていますの」
「なら、晴れた日に岸でやってみるといい。揺れる船で初めて覗くと、何を合わせてるのかも分からなくなる」
メグは頷き、持ってきた帳面を開いた。
船頭が自分の記録を指しながら説明する。メグは途中で一つ尋ね、答えを聞いてから書き留めた。
まめこはしばらく聞いていたが、魚屋から名前を呼ばれて顔を上げた。
紙に包んだ魚が並んでいた。
さっき綱を引いた男が、一包みを受け取っている。女の人は買い物籠へ包みを収め、隣の人と、煮るか焼くか話していた。
まめこは魚屋へ行き、家へ持ち帰る分を受け取った。
思ったより重い。
両手で抱えて戻ると、メグが帳面を閉じた。
「ありがとうございます。まずは岸で、何度か測ってみますわ」
「記録して持ってきな。時間も忘れずに書くんだぞ」
「はい」
メグが魚の包みを受け取った。まめこの腕が軽くなる。
「わたしの魚も、あるで」
「ええ。ちゃんと持って帰りましょう」
竿をまとめ、籠を持つ。
トロは今度こそ籠に戻ろうとしたが、中の小魚を見て足を止めた。
「おうちまで歩いてな」
まめこが言うと、トロは尻尾を立て、先に歩き出した。
*
帰り道、メグは港の方を何度か振り返った。
もう魚は見えない。船の帆柱だけが、建物の間から覗いていた。
「カエルさん、褒めてたな」
「ええ」
「釣りも、魔法も」
「ええ」
まめこは隣を見上げた。
「めっちゃ嬉しいん?」
メグは前を向いたまま、包みを抱え直した。
「嬉しいですわよ。あの方に、うまく使えたと言っていただけたのです」
まめこは少し考え、頷いた。
「ほんなら、わたしも三匹釣れて嬉しいわ」
「ええ。最初のお魚、もう少しでわたくしの顔に当たるところでしたけれど」
「次は止めるで」
「お願いしますわ」
家の門へ着くと、台所の窓が開いていた。
まめこはそこへ向かって声を上げた。
「マリー! メグが、めっちゃ大きい魚釣ったで!」
マリーが窓から顔を出した。
「まあ。どれくらいですか?」
まめこは籠を地面へ置き、両腕を広げた。
「これより大きい!」
マリーの目がメグの包みへ移った。
「……それで、全部ですか?」
「皆さんに分けましたの。うちには、こちらを」
玄関へ回ってきたマリーへ、メグが包みを渡した。紙の端を開いて確かめると、マリーは台所を振り返った。
「これなら、夕食にも使えますね。お昼の分を先に焼きましょう」
「わたしのもあるで」
まめこが籠を差し出す。
「三匹も釣れたのね」
「うん。わたしのは、全部持って帰れたで」
メグが横で笑った。
マリーは二人を見比べ、籠を受け取った。
「では、手を洗って。お魚の話は、食べながら聞かせてくださいね」
台所までついていこうとしたトロが、マリーの足元で止められた。
「あなたの分もありますよ。火が通るまで、待っていてね」
トロは敷居の手前へ座った。
まめこが手を洗って戻ると、メグは居間の机で帳面を開いていた。船頭に教わったことを読み返し、最後の行へ短く書き足している。
「何書いたん?」
「次に港へ行くとき、忘れないように」
まめこが隣から覗くと、六分儀の練習、と書かれていた。
その下にも、もう一行あった。
大物用の仕掛け。
「また釣る気やん」
「せっかく港へ行くのですもの」
メグは帳面を閉じた。
台所から魚の焼ける匂いがして、敷居の前のトロが立ち上がった。
まめこも机を離れた。今日は自分の釣った魚が、昼ご飯になる。
椅子へ座る前に、両腕をもう一度広げてみた。
やっぱり、足りなかった。
めぐ「150ストンってとこね」




