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第六話 海へ出るための道具

 ライセィムの教室へ入ったとき、メグは教卓の上に置かれた木箱に気づいた。


 蓋は開いていた。布を敷いた箱の中に、扇の骨組みに似た金属の道具が収まっている。弧に沿って細かな目盛りが刻まれ、短い筒と小さな鏡が取り付けられていた。


 今日の授業で使うものらしい。メグは席へ鞄を置いてから、もう一度そちらを見た。


「気になりますか」


 教卓で資料を揃えていた教師が、顔を上げた。


「ええ。それは、何かを測る道具ですの?」


「六分儀です。太陽や星の高さを測る道具ですよ」


「星の高さ、ですの?」


 メグは不思議そうに首を傾げた。


「ええ。実はこれ、船乗りたちにとって、とても大切な道具なんです」


「船乗りに?」


「沖へ出て、陸が見えなくなっても、太陽や星の位置を調べることで、自分たちがどの辺りにいるのかを知る手掛かりになるんですよ」


 メグの表情が変わった。


「まあ……! そんなことができますの?」


 釣りに出るときは、いつも島の景色を目印にしていた。陸が見えなくなるほど遠くへ行くなど、考えたこともなかった。


「では、これを使えば、もっと遠くの海へも行けるのですわね」


「使い方を覚えるだけでは足りませんよ。海図や計算の知識も必要です。興味があるなら、あとで航海術の本も探してみなさい」


「そうなんですのね……」


 メグは木箱の中の六分儀を、もう一度じっと見つめた。


 次の学生が教室へ入ってきた。メグは席へ戻り、筆記具を取り出した。


 授業が始まると、六分儀は順に学生の手へ渡された。メグも両手で受け取り、鏡と筒を覗き込んだ。見えるものの位置が、腕を少し動かしただけで変わる。


 教師の説明に合わせて目盛りを確かめ、帳面へ道具の形を描いた。鏡の場所を描き足すと、扇のようだった絵が、少しだけ実物に近づいた。


 その下に、六分儀、と書く。


 釣りに出るときは、いつも島の風景を見ていた。遠くへ行きすぎないように、知っている岬や木立を確かめ、帰りのことを考えて船を進める。


 陸が見えなくなったら、その先へは行けない。


 そう思っていたところへ、箱に入るほどの道具が現れた。


 メグは授業の終わりに、六分儀を扱う店を教師に尋ねた。

挿絵(By みてみん)


     *


 その日の夕方、まめこがマリーと帰ってくると、メグは居間で外出の支度をしていた。


「また農園へ行くん?」


「今日は街のお店へ。少し見たいものがありますの」


「何なん?」


「六分儀という道具ですわ。船で使いますのよ」


 まめこは鞄を置きに行き、手を洗って戻ってきた。


「釣りの道具?」


「魚を釣るものではありませんけれど、沖へ出るときに役立ちますの」


「わたしも行ってええ?」


「ええ。マリー、夕食までには戻りますわ」


「では、お気をつけて。まめこ、上着を持っていきましょうね」


 まめこが袖へ腕を通していると、トロが玄関へ来た。二人の靴を順に嗅いでから、扉の前に座る。


「トロも行くん?」


 メグが扉を開けると、トロは先に外へ出た。門のところで立ち止まり、二人を振り返っている。


「もう行く気やな」


 まめこは上着の前を留め、メグと並んで家を出た。


 街へ向かう道には、買い物帰りの人がいた。野菜を積んだ荷車を避けて歩き、ガードに挨拶をして門をくぐる。トロはまめこの足元を離れず、人の多いところでは少し後ろへ下がった。


 教えてもらった店は、通りから一本入ったところにあった。


 窓辺には小さな時計と秤が並び、壁には鍋や金具が掛かっている。入口の上に下がった看板には、細工道具の絵が描かれていた。


 扉を押すと、頭の上で鈴が鳴った。


「いらっしゃい。ちょっと待ってな」


 奥の作業台から、声がした。


 まめこが見たのは、黒い熊の頭だった。

挿絵(By みてみん)


 ぎょっとして足を止めると、その下から人の顔が上がった。黒い肌の女性が、細い道具を持ったままこちらを見ている。黒髪を三つ編みにして、暗い色の服の上に、紫がかった半分丈のエプロンを着けていた。耳元の飾りが、窓の光を受けて小さく光る。


 熊の頭は、帽子らしい。


 まめこが見上げているのに気づくと、女性は空いた手で帽子の鼻先を持ち上げた。


「こっちが顔やで」


「……熊かと思ったわ」


「こんな小さい熊が店番してくれたら、仕事が楽でええなあ」


 女性は笑い、持っていた道具を布の上へ置いた。


「みっきーって呼んで。今日は何を探してるん?」


「六分儀を拝見したくて伺いましたの。ライセィムで、こちらのお店を教えていただきましたわ」


「六分儀な。あるで」


 みっきーは作業台の脇を通り、奥の棚へ向かった。


 まめこは、台の上に開かれた時計へ目を留めた。真鍮色の歯車がいくつも重なり、外された部品が小さな皿に分けられている。その後ろには、まめこよりずっと背の高い柱時計が立っていた。艶のある木に葉の模様が彫られ、文字盤の上には小さな月の飾りがある。


「大きい時計やなあ」


「預かりものや。今、直してるところ」


「これ、全部中に入るん?」


「せやで。せやから、どれか一つ持って帰ったらあかんで」


 まめこは、皿を見ていた手を背中へ回した。


「持って帰らへんで」


「うん。そっちの黒い子にも言うといてな」


 トロは作業台の脚に鼻を寄せていた。まめこに呼ばれると顔を上げ、尻尾を立てて戻ってくる。


「トロ、触ったらあかんで」


 入口のそばには、口を布で覆った瓶が並んでいた。棚の奥にはガラスの管をつないだ器具があり、乾いた草の束が吊るされている。金属の匂いに混じって、どこか薬に似た匂いもした。


 みっきーが木箱を持って戻ると、メグは背筋を伸ばした。


 蓋が開く。教室で見たものと似た六分儀が、箱の中に収まっていた。


「持ってみる?」


「よろしいんですの?」


「持つところは、ここや。鏡には指を当てんといてな」


 メグは言われたところを握り、慎重に持ち上げた。


「今日、学校で拝見しましたの。これがあれば、陸の見えない海でも船を進められるそうですわね」


 みっきーは、開いた箱を少し奥へ寄せた。


「それだけ持って出たら、帰れんようになるで」


 メグの手が止まった。


「……それだけでは、いけませんの?」


「これで分かるんは角度や。今おる場所を、そのまま教えてくれるわけやないねん」


 みっきーは六分儀の腕を指した。


「太陽や星を見て、水平線からどれくらい高いところにあるか測るんや。その数字を使って、自分のおる場所を求めるねん。海図も、天体の位置が載った暦もいるし、計算も覚えなあかんで」


 メグは目盛りへ視線を落とした。


「先生にも、航海術の本を探すように言われましたわ」


「ほな、そっちが先やな。私が教えられるんは、道具の扱い方と、ちゃんと測れるようにするところまでや。航海の計算やったら、船乗りか、それを教える人に聞いた方がええで」


「みっきーは、これを作れますの?」


「作れるで。直すのもな。せやけど、遠い海を渡れるとは限らへんやろ」


 まめこが柱時計を振り返った。


「時計を作れる人が、時間の使い方もうまいとは限らへん?」


 みっきーは一瞬黙ってから、声を出して笑った。


「それ、誰かに言われたん?」


「今、思ったん」


「耳が痛いなあ。そこの時計、今日の昼までには組み上げるつもりやったんや」


 メグも笑ったが、六分儀を持つ手は動かさなかった。箱の布へゆっくり戻し、鏡が何にも当たっていないのを確かめる。


「分かりましたわ。使い方も、必要なものも調べます」


「うん。それやったら、持っていく意味があるな」


「こちらは、おいくらですの?」


 みっきーが値段を告げると、まめこはメグの顔を見た。


 メグは驚いた様子を見せなかった。ただ、箱の中をもう一度眺めてから、鞄へ手を伸ばした。


「いただきますわ。まずは、岸の見えるところで練習いたします」


「最初から沖へ行くつもりやったん?」


「……いつかは、と思っていましたの」


「いつかやったらええな。最初からは、やめとこか」


 みっきーが箱を閉じようとしたとき、入口の鈴が鳴った。


 身なりのよい老人が、帽子を脱ぎながら入ってきた。上着の袖口はきれいに整い、磨いた靴に通りの埃が少しついている。


「お邪魔してよろしいかな」


「どうぞ。時計やったら、もうちょっと掛かるで」


「急かしに来たのではない。近くを通ったのでね」


 老人は柱時計の前へ行き、開いた扉から中を覗いた。みっきーが作業台へ戻り、皿の部品を一つ持ち上げる。


「ここの歯が欠けてたんや。新しく作ったから、あとは組み直して、しばらく動かしてみるで」


「同じものが作れたのかね」


「合わへんかったら、また止まるからな」


 老人は、みっきーの指にある小さな部品を見つめた。


「父の代から使っている時計でね。もう部品がないと言われて、諦めかけていたんだ」


「ほかにも擦り減ってたところがあったから、そこも見といたで。音も戻ると思うわ」


「君に頼んでよかった。たいした腕だ」


 みっきーは少し口元を緩め、部品を皿へ戻した。


「まだ動かしてへんで。褒めるんは、ちゃんと鳴ってからにしてや」


 老人は笑い、近くの椅子へ腰を下ろした。


 メグは時計の文字盤を見上げた。止まった針の下で、外された振り子が壁に立て掛けられている。


 作れないものだと言われた小さな部品を、この人は作った。


 箱の中の六分儀にも、同じように細かな部品が収まっているのだろう。教室では、遠くへ行ける道具だと思って見ていたものが、今は少し違って見えた。


「みっきー。使っていて、具合がおかしいと思ったら、また持ってきてもよろしいかしら」


「もちろんや。ぶつけたり落としたりしたら、見た目が平気でも持ってきてな」


 みっきーは箱を閉じ、留め金を掛けた。それから紙を一枚取り、日常の手入れで気をつけることを短く書いてくれた。


「海から戻ったら、そのまま片づけたらあかんで。濡れた手で触ったときも、拭いてから箱に戻してな」


「分かりましたわ」


「そっちの子、名前は何ていうん?」


「まめこやで」


「まめこ。帰ったら、この人が箱を開けっぱなしにしてへんか、見てあげてな」


「メグ、聞いた?」


「聞いておりますわ。わたくし、自分で片づけられます!」


 みっきーが笑い、老人も帽子の陰で口元を緩めた。


     *


 店を出ると、通りの石が夕日の色に変わっていた。


 メグは箱を胸の前に抱えて歩いた。まめこはその隣で、さっき教わった名前を繰り返している。


「ろくぶんぎ」


「ええ」


 メグは箱を少し抱え直した。


「でも、魚を釣るときにも持っていけますわ。船から測る練習をして、釣りもして」


「わたしも?」


「もちろん。お天気と、海の様子を見てからですけれど」


「トロもやで」


 前を歩いていたトロが立ち止まった。振り返ったところへ、まめこが追いつく。


「今度、船乗るで」


 トロはまめこの足へ頬を擦りつけたあと、また歩き始めた。


 家へ帰ると、マリーは台所から二人を迎えた。


「おかえりなさい。見たいものはありましたか?」


「ええ。こちらですわ」


 メグは居間の机へ箱を置き、留め金を外した。マリーが手を拭いて覗き込む。


「ずいぶん細かな道具ですね」


「太陽や星の高さを測りますの。海で、自分のいる場所を調べるために」


「これだけやったら、帰れんようになるんやって」


 まめこが横から言うと、メグは箱の蓋を支えたまま振り向いた。


「必要な勉強をするのですわ」


「ええ。では、本を広げる前に、手を洗ってきてくださいね」


 メグは素直に蓋を閉じた。


 夕食のあと、居間の机には学校の帳面と、みっきーが書いてくれた紙が並んだ。


 メグは新しいページを開き、明日ライセィムで調べることを書き留めた。航海術の本。海図。天体の暦。それから、教えてもらえる先生がいるかどうか。


 まめこも向かいの席へ、自分の帳面を持ってきた。


「何を書きますの?」


「みっきー」


 まめこは、まず熊の帽子を描いた。丸い耳を二つつけて、その下へ顔を描く。三つ編みを描こうとして、片方がずいぶん太くなった。


「こっち、縄みたいになってもうた」


「もう片方も同じくらいにしますの?」


「そしたら、両方縄になるやん」


 メグが筆を止めて笑った。


 まめこは細い方へ線を足すのをやめ、絵の下に名前を書いた。み、のところで一度手を止め、次の字とくっつかないように間を空ける。

挿絵(By みてみん)


 描き終わると、帳面をメグへ向けた。


「熊の帽子、分かる?」


「ええ。ちゃんと耳がありますもの」


「明日見ても、名前分かるようにしといたで」


 メグは机の端の木箱を見た。それから自分の帳面へ目を戻し、書いた項目を一つずつ確かめた。


 トロが椅子の下へ入り、まめこの足に背中を預けた。まめこは足を動かさず、空いたところへ小さな黒猫を描き足す。


 向かいでは、メグが頁の上に見出しを書いていた。


 ――六分儀の使い方。


 まめこはその字を眺めてから、熊の帽子の横へ、小さな箱を一つ描いた。

まめこ「めぐ、それはお風呂に持っていかないの」

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