第五話 湯気の向こうの約束
翌日の昼休み、メグはライセィムの中庭へ出た。木陰の長椅子には、レイナが一人で座っていた。制服の襟元を緩め、膝の上で弁当の包みを開いている。
「アミ先輩は?」
「そこ。呼んだけど、まだ来ない」
レイナが顎で示した先で、アミは花壇の前にしゃがんでいた。小さな黄色い花を指先で支え、裏側をのぞいている。
「アミ先輩、お昼にしませんこと?」
メグが声を掛けると、アミは顔を上げた。
「うん。これだけ見たら」
「さっきもそう言ってたよ」
レイナはパンをかじった。アミは花から手を離し、そばに置いた帳面へ何か書き込んでから、ようやく二人のところへ来た。
手を洗って戻ったアミを間に入れ、三人で弁当を広げる。メグの包みには、卵を挟んだパンが入っていた。
「何を調べていらしたの?」
「花が終わる前に、色を試したくて。乾かしたのと、そのまま煮たのと、比べてみようと思ってる」
「この前の染料ですの?」
「うん。布に染めると、思ったより薄くなったから」
アミは弁当の脇に帳面を置いた。端のほうに、細い布が何枚か挟んである。
「また農園へ行くとき、一緒に行ってもいい?」
「もちろんですわ。採ってよいものは、ハラルドに聞いてみましょう。今日は帳簿を見せていただくので、ゆっくり回れませんけれど」
「じゃあ、次に。前に見た花も、まだ咲いてるといいな」
メグがうなずく横で、レイナは弁当の包みを押さえた。風が通り、アミの帳面の頁がめくれる。
「レイナ先輩も、ご一緒にいかが?」
「花はいいや。二人とも、一度しゃがむと動かなくなるし」
「待っていてくださったのね」
「帰ろうって言いに行っただけ」
レイナは長椅子の背へもたれ、日なたへ足を伸ばした。
「ああ、午後もここにいたいな。授業、抜けちゃおうか」
メグがパンを持つ手を止めた。アミは食べながらレイナを見る。
「次、小試験だよ」
「……知ってる。だから今のうちに休んでるの」
しばらくして、中庭に予鈴が響いた。レイナが真っ先に立ち、弁当の包みを結ぶ。
「ほら、行くよ」
アミは最後の一口を食べ、帳面を鞄へしまった。メグも包みを片づけて立ち上がる。レイナは襟元を直しながら、もう校舎へ歩き始めていた。
*
その日の夕方、まめこは四つ角からマリーと一緒に帰ってきた。まめこが玄関で靴を脱いでいる間に、マリーは台所の窓を開け、夕食の支度に戻った。
煮込みの匂いに混じって、包丁がまな板をたたく音がする。靴を揃えていると、トロが廊下の向こうからやってきた。
黒い毛並みは夕方の光を受けて艶めき、長い尻尾がゆっくり左右に揺れている。トロはまめこの姿を見つけると、耳をぴんと立て、喉の奥で小さく鳴いた。足音を忍ばせるように近づき、まめこの膝へ体を寄せる。
「ただいま、トロ」
黒い尻尾がまめこの膝を撫でた。しゃがんで背中に触れると、トロは目を細め、指先へ額を押しつける。それから、その場で一度大きく伸びをした。前足を前へ突き出し、背中をしならせ、最後に尻尾を高く立ててから、台所へ引き返した。
「まめこ、おかえりなさい。鞄を置いて、手を洗っていらっしゃい」
「あい。メグは、まだなん?」
「今日はライセィムのあと、農園へ寄ってくるそうですよ。もうじきお帰りになると思います」
「ほな、帰ってくるまでお手伝いしよかな」
まめこは鞄を部屋へ運び、手を洗った。台所に戻ると、マリーが皮をむいた野菜を鍋へ入れていた。
トロは鍋のそばには近づかず、少し離れた床に座っていた。鼻先をひくひくさせながら煮込みの匂いを嗅いでいるが、マリーが振り向くと、何食わぬ顔で前足を舐め始める。
「何かお手伝いすることある?」
「では、こちらをお願いします」
渡されたのは、豆の入った籠だった。
まめこは椅子に座り、さやを開いた。中に並んだ豆を指で押すと、小さな音を立てて鉢へ落ちる。初めのうちは一つずつ落としていたが、慣れてくると、親指でまとめて外せるようになった。
その足元では、トロが椅子の脚へ体を擦りつけていた。まめこが豆を落とすたび、耳だけが小さく動く。やがて満足したのか、トロは椅子の横で前足を揃え、まめこの手元をじっと見上げた。
「今日な、帳面の字を褒めてもろたで」
「まあ。どの字ですか?」
「名前のとこ。前は『め』が潰れてたんやけど、今日はちゃんと読めるって」
「毎日書いた甲斐がありましたね」
「でも、後ろの方はまた潰れてもうた」
マリーが笑った。
「全部を急いで書こうとしたの?」
「ルカが先に終わったから」
「まめこは、まめこのペースでいいんですよ」
まめこは次のさやを手に取った。今度は、豆が一つだけ机へ転がった。
床へ落ちる前に押さえようとして、肘が籠に当たる。籠が傾いたところを、マリーが片手で支えた。
トロが驚いて、尻尾を膨らませた。すぐに籠が元へ戻ると、何事もなかったように尻尾を戻し、まめこの足元へ鼻先を寄せる。
「……こっちも急いだらあかんな」
「そうね。籠は少し離しておきましょう」
拾った豆を鉢へ戻すと、玄関の扉が開いた。
「ただいま戻りましたわ」
「メグ、おかえり!」
メグは玄関で靴を脱ぎ、鞄を置いた。台所へ顔を出すと、まめこの前の鉢を見て微笑んだ。
トロはメグの足音を聞くと、すぐに立ち上がった。尻尾を高く掲げ、廊下を軽やかに歩いていく。メグの足元へ着くと、靴下に頬を擦りつけ、短く鳴いた。
「まあ、トロもお出迎えしてくれましたのね」
メグがしゃがんで背中を撫でると、トロは喉を鳴らしながら目を細めた。けれど、撫でる手が止まると、すぐにまめこの方へ戻っていく。
「今日はお手伝いですの?」
「うん。もうこんだけ取れたで」
まめこは机の上の鉢を指した。底が見えないくらい、豆がたまっている。
「まあ、ずいぶんできましたのね」
メグは空いている椅子を引き、まめこの隣へ座った。
トロは二人の間へ入りたそうにしたが、椅子の脚に尻尾を巻きつけるだけにして、床から二人を見上げた。
「農園、どうやった?」
「今日はハラルドに帳簿を見せていただきましたの。野菜が売れた分と、農園で使ったお金を比べていましたわ」
「いっぱい売れたら、いっぱい儲かるん?」
「その分、種を買ったり、働いてくださる方へお給金を払ったりもしますでしょう。売れたお金を全部使ってしまったら、次の野菜を育てられませんわ」
「わたしも、茄子売ったお金で次の種買うたで」
「そうでしたわね。まめこは、ちゃんと残していましたものね」
メグが籠の豆へ手を伸ばすと、まめこはその手を見た。
「メグ、豆触る前に手ぇ洗うんや」
メグは伸ばしかけた手を止め、目を丸くした。
トロもメグの手を見上げ、鼻先を少し持ち上げた。
「まあ、そうでしたわね。失礼いたしました」
「手ぇ洗ってからやで」
「ええ。すぐに洗ってまいりますわ」
メグは立ち上がり、洗い場へ向かった。まめこはその背中を見送り、マリーは鍋を混ぜながら微笑んだ。
メグが手を洗って戻ってくると、まめこは籠を少し手前へ寄せた。
トロはメグの濡れた指先を一度見たが、すぐにまめこの足元へ戻り、前足を舐め始めた。
「これも売ったら、お金になるなあ」
「今夜のごはんが減ってしまいますよ」
鍋の前でマリーが言うと、まめこは慌てて籠を引き寄せた。
「ほな、これは食べる分やな」
「わたくしも、お手伝いしますわ」
「あと、これだけやで」
まめこは籠の底に残ったさやを、メグの前へ寄せた。メグも一つ手に取り、筋に沿って開く。
トロはさやの匂いを嗅ごうとしたが、興味を失ったように顔を背けた。
「今日は、学校で何をしましたの?」
「名前の練習。先生に、前より読めるようになったって言われてん」
「まあ。あとで見せてくださいまし」
「うん。でも、最後のとこ急いでもうてん」
まめこは豆を鉢へ落としながら、ルカが先に書き終わった話をした。メグは手を止めずに聞いていたが、次のさやを開こうとしたところで、豆を一つ机へ転がした。
「あ! メグも」
トロが机の下から顔を出し、転がった豆の行方を目で追った。
まめこが手で受け止めると、メグは空のさやを籠へ入れた。
まめこの手の中へ収まったのを見ると、トロは何も無かったかのようにまた伏せる。
「逃げ足の速い豆でしたわね」
「豆のせいなん?」
「……次は、鉢の上で開きますわ」
マリーは鍋を混ぜながら、笑っていた。
最後のさやまで開くと、まめこは鉢を両手で持った。メグが空のさやを集め、籠を台所の端へ運ぶ。
「マリー、できたで」
「お二人とも、ありがとうございました」
マリーが豆を鍋へ入れるのを見てから、まめこはメグと洗い場へ向かった。
トロは二人の後ろをついていきかけたが、水の音が聞こえると、洗い場の手前で立ち止まった。濡れるのは嫌なのか、前足を一歩引き、廊下の壁際で待つことにした。
夕食までは、まだ少し時間があった。
着替えを済ませたメグは、居間の机に帳面を広げた。まめこも台所の片づけを終えると、向かいへ自分の帳面を持ってきた。
メグの帳面には、細かな字と、まめこには読めない印が並んでいる。途中に丸をいくつも結んだ図があり、まめこはそちらへ首を伸ばした。
トロは机の下へ入り込み、二人の椅子の間に体を横たえた。黒い背中が机の影に溶け込み、時折、尻尾の先だけがゆっくり揺れる。
「それ、何なん?」
「マナの流れについて、授業で習ったことですわ」
「この丸がマナ?」
「ここでマナを集めて、こちらへ巡らせる、という意味ですわ。言葉だけですと、あとで分からなくなりますから」
メグは図の横へ短い文を書き足した。
「授業で分かったつもりでも、家で書こうとすると、抜けているところがありますの」
「メグでも?」
「ええ。昨日レイナ先輩に教えていただいたところも、今日はもう一度確かめましたの」
まめこは自分の帳面へ目を戻した。名前の練習の最後の行だけ、字が小さく詰まっている。
新しい行に、ゆっくり名前を書いた。
メグが筆を止めた。
「その『め』、前よりきれいに書けましたわね」
「先生にも言われたで」
「では、二人に褒められましたわ」
「マリーも褒めてくれたから、三人やで」
「それは失礼いたしました」
メグが澄ました顔で頭を下げるので、まめこは笑い、書きかけの線を少し曲げてしまった。
机の下では、トロが二人の間に寝そべっていた。まめこが足を引くと、黒い耳だけがこちらを向いた。まめこがそっと足先で毛並みに触れると、トロは目を開け、足へ頬を寄せてから、また静かに目を閉じた。
マリーに呼ばれるまで、居間には紙をめくる音と、筆記具が紙を擦る音が続いていた。
夕食の煮込みには、まめこが取った豆も入っていた。
まめこは匙で豆を一つすくって、口へ運んだ。柔らかく煮えていて、さやから出したときとはずいぶん違う。
「おいしいなあ」
「まめこのお手伝いが入っていますからね」
マリーが言うと、メグも豆をすくった。
「わたくしの分にも、たくさん入っていますわ」
「その豆は、わたしが取ったやつやで」
「では、一つも残せませんわね」
食卓の下で、トロが鳴いた。まめこが覗くと、自分の食事を済ませたトロが、椅子のそばに座っていた。
トロは前足を揃え、尻尾を体の横へ巻きつけている。煮込みの匂いに鼻先を動かしながらも、食卓へ手を伸ばすことはせず、ただまめこたちを見上げていた。
「トロには豆、ないで」
トロはもう一度鳴き、メグの方へ歩いていった。
「わたくしに聞いても同じですわ」
メグがそう言うと、トロは返事をするように短く鳴いた。それから諦めたように椅子の下へ戻り、丸くなった。
夕食のあと、メグは帳面の続きをまとめるため、作業部屋へ上がった。
まめこはマリーと食器を片づけた。皿を拭いて棚へ戻す仕事は、もう何度もしている。高い段には届かないので、そこへ入れるものだけ、マリーへ渡した。
「今日は私とお風呂に入りましょうか」
「うん。髪も洗う?」
「洗いましょう。明日の朝、梳かしやすくなりますよ」
脱衣場で着替えを用意していると、トロが入口までついてきた。
トロは浴室の扉の前で立ち止まり、細い隙間から流れてくる湯気をじっと見ていた。耳が少し横へ倒れ、尻尾の先が落ち着かなげに揺れている。
「トロも入るん?」
マリーが浴室の扉を開けた途端、トロは湯気を避けるように一歩下がった。
毛並みがふわりと逆立ち、トロは廊下の壁際まで後ずさる。けれど、まめこが中へ入るのを見届けるまでは動かなかった。
「待ってる方がええみたいやな」
まめこが手を振ると、トロは廊下に座り込んだ。前足を揃え、浴室の方へ顔を向けたまま、じっと待っている。
浴室には、温めた湯と石鹸の匂いがこもっていた。
まめこは小さな椅子に座り、マリーに髪を洗ってもらった。指が猫耳の周りへ来ると、耳が勝手にぴくりと動く。
「ここに触ると、いつも動きますね」
「くすぐったいんやもん」
「では、少しずつ流しますよ。下を向いていてね」
湯が髪を伝って落ちていく。まめこは目を閉じ、膝の上で手を握った。
洗い終わると、今度は自分で腕と足を洗う。マリーに背中を流してもらってから、湯船へ入った。
「あったかいなあ……」
指先まで湯に沈めると、まめこの口から長い息が出た。
マリーも洗い終えて、向かいへ入ってきた。湯面が揺れ、まめこは顎を少し上げた。
「マリー」
「はい?」
「メグと、お胸が違うなあ」
マリーは一度瞬きをしてから、まめこを見た。
「急にどうしたの?」
「この前、メグと入ったときに思ってん。マリーと、ずいぶん違うなあって」
「そうね。人によって違うものですから」
まめこは湯の中で膝を曲げた。
「大人になったら、みんなマリーみたいになるんかと思ってた」
「みんな同じにはなりませんよ。背の高さや、髪の色が違うでしょう? 体つきも、それぞれです」
「ほな、わたしは?」
「今はまだ分かりませんね。まめこも、少しずつ大きくなっていきますから」
まめこは少し考え、湯の中の自分の手を見た。
「今は、手もメグより小さいで」
「ええ。でも、前より大きくなりましたよ。靴も替えましたし」
「あの靴、つま先きつかってん」
「足が大きくなったのに、履きやすいからと、ずっと履いていましたものね」
新しい靴を買った日も、まめこは古い方を玄関へ並べていた。マリーに言われるまで、翌朝もそちらを履くつもりだったのだ。
「大きくなるん、ちょっとずつやから分からへん」
「毎日一緒にいても、服の袖が短くなったときに、あら、と思うんですよ」
まめこは腕を湯から出してみた。すぐに冷えて、また沈める。
「メグ、まだ大きくなるん?」
「まだ十五ですもの。これからも変わるでしょうね」
「ほな、靴も?」
「靴も、替えるかもしれませんね」
まめこは頷いた。湯面を指でなぞると、小さな輪がマリーの方へ広がっていった。マリーが身を寄せ、手拭いでまめこの額を軽く拭いた。
「ほら、頬が赤くなってきました。そろそろ上がりましょう」
「もうちょっとだけ」
「では、十まで数えたら」
「いーち……にーい……」
まめこがゆっくり数え始めると、マリーは三のあとから一緒に数えた。
十は、思っていたより早く来た。
浴室を出ると、廊下で待っていたトロが立ち上がった。
トロはまめこの濡れた髪へ鼻先を近づけ、石鹸の匂いを嗅いだ。
「まだおったん? トロ」
まめこが濡れた手を伸ばすと、トロは一歩横へ避けた。まめこは手を引っ込め、先に体を拭いて寝間着を着る。髪に手拭いを巻いてから廊下へ出ると、トロは居間へ先導するように歩いた。
メグは、作業部屋から戻ってきていた。机には閉じた帳面と、折り畳まれた手紙が置かれている。
トロはメグの足元へ戻ると、濡れた廊下を避けるように少し離れた場所へ座った。まめこが歩くたび、黒い目でその姿を追っている。
「おかえりなさい。よく温まりましたの?」
「うん。十まで数えて出てきたで」
「ずいぶんゆっくりでしたから、百まで数えているのかと思いましたわ」
まめこはメグの隣へ座った。マリーが手拭いをほどき、髪の水気を丁寧に取っていく。
トロはまめこの椅子の下へ入り、尻尾を足元へ巻きつけた。マリーが髪を拭くたび、手拭いの動きを目で追っている。
「お勉強、終わったん?」
「今日の分は。あとでお風呂へ入ったら、わたくしも休みますわ」
メグは机の手紙を持ち上げた。
「お母様から、お便りが来ていますの」
「ドーナ様?」
「ええ。近いうちに、まめこも一緒に遊びに来ませんか、と」
まめこの耳が立った。振り向こうとして、マリーに「まっすぐ座っていてね」と声を掛けられた。
トロもまめこの耳の動きに気づいたのか、顔を上げた。まめこが嬉しそうに身を乗り出すと、トロの尻尾も床を一度だけ叩いた。
「お屋敷に行くん?」
「お父様とお母様のご都合を伺って、お休みの日に。まだ日は決めていませんけれど、どうかしら?」
「行く! イオルド様もおる?」
「お父様のお仕事の都合も、お尋ねしておきますわ」
まめこは足を揃えて座り直した。
「前に行ったとき、ドーナ様がお菓子出してくれてん。丸いのと、細長いの」
「よく覚えていますわね」
「メグが、細長いの二つ食べたから」
「三つですわ」
メグは答えてから、マリーと目が合った。
「……あの日は、お母様がお勧めになったので」
「何も申し上げておりませんよ、お嬢様」
マリーは笑いながら、手拭いの乾いたところでまめこの毛先を包んだ。
トロは「お菓子」という言葉に反応したのか、机の下から顔を出した。まめこが見下ろすと、期待するように耳を立てている。
「トロの分は、ないで」
まめこが言うと、トロはゆっくり瞬きをした。それから、何も聞かなかったように顔を伏せた。
「わたし、帳面持っていこかな」
「お勉強をしに?」
「名前、前より上手に書けたから。見てもらうん」
メグは手紙を膝に置いた。
「きっと喜んでくださいますわ。お父様にも、お母様にも見ていただきましょう」
「うん」
まめこは夕食前に書いた行を思い浮かべた。笑ったせいで、最後の線が少し曲がっている。持っていくなら、もう一度書いておこう。
「道は、大丈夫なん?」
尋ねると、メグはまめこの方へ体を向けた。
「出掛ける前に、ガードに様子を伺いますわ。お屋敷にも知らせて、行き方を相談します」
「林は通らへん?」
「今は、通りません。皆で安全な道を行きましょう」
まめこは頷き、足元へ来たトロを見た。
「トロも一緒やで」
「ええ。トロも一緒ですわ」
トロはまめこの言葉を聞くと、顔を上げた。まめこの足へ体を寄せ、尻尾を一度だけ高く立てる。
マリーが髪を拭き終えると、まめこは椅子から下りた。自分の帳面を取りに行き、机へ広げる。
「今から書きますの?」
「忘れんうちに、きれいなの書いとく」
メグが筆記具を取って渡した。
まめこは空いた行へ、一文字ずつ名前を書いた。最後まで書いてから、少し離して眺める。
今度は、どの字も潰れていなかった。
「これにするわ」
「では、そのページを覚えておきましょう」
マリーが細い紙を持ってきて、ページの間へ挟んでくれた。
トロは机の横で座り、まめこの帳面を覗き込むように首を伸ばした。紙の匂いを嗅いだあと、興味を失ったようにまめこの足元へ戻り、体を丸める。
メグがお風呂へ行っている間、まめこはマリーに髪を梳いてもらった。櫛が引っ掛かるたび、マリーは毛先から少しずつほぐす。まめこは膝に帳面を置いたまま、何度も挟んだ紙を確かめていた。
やがて、まぶたが重くなってきた。
トロはまめこの膝へ顎を乗せようとしたが、帳面があるために届かず、代わりに足元へ頬を寄せた。まめこが足先を動かすと、トロは安心したように喉を鳴らした。
「帳面は、ここへ置いておきますね」
「挟んだ紙、そのままにしといてな」
「ええ。ここへ置いておけば、すぐ開けますよ」
マリーが机へ置くのを見届けて、まめこは寝室へ向かった。
寝床へ入ると、トロが足元へ丸くなった。黒い体が掛け布の端に沿って収まり、温かな重みが足先へ伝わってくる。まめこが足を少し動かすと、トロは尻尾で一度だけ布団を叩き、すぐに静かになった。
少しして、入浴を済ませたメグが部屋を覗いた。
「もう眠りましたの?」
「まだやで」
まめこは枕から顔を上げた。
トロも耳だけを動かしたが、起き上がることはなく、丸い背中をまめこの足元へ寄せたままだった。
「お手紙、返すん?」
「ええ。明日、お返事を書きますわ」
「わたしも、行きたいって書いといてな」
「ちゃんと書いておきます」
「トロも」
「トロのことも」
メグが掛け布を直した。まめこはその手を取り、開いた手のひらに自分の手を重ねた。
手首の位置を揃えてみても、まめこの指先はメグの指の途中までしか届かなかった。
「何をしていますの?」
「大きさ見てるん」
メグは手を動かさず、まめこが見比べるのを待ってくれた。
「前より、大きくなりましたわね」
「マリーも、そう言うてたで」
メグは重ねた手を少し持ち上げて、指先を見比べた。
「そのうち、追いつかれてしまうかしら」
「メグも、まだ大きくなるんやろ?」
「そうでしたわ。では、すぐには追いつかれませんわね」
まめこは笑って、今度はメグの指を握った。
その動きに合わせて、足元のトロが目を開けた。メグの手とまめこの手を見上げ、二人の間へ鼻先を伸ばす。まめこが空いた手で頭を撫でると、トロは目を細め、喉を低く鳴らした。
「おやすみ、メグ」
「おやすみなさい、まめこ」
手がそっと離れ、掛け布が肩まで引き上げられた。
足元でトロが寝返りを打つ。黒い尻尾がまめこの足首へ触れ、すぐに温かな体のそばへ戻っていった。廊下ではマリーが、明日の支度を終える音がしていた。
まめこは目を閉じた。公爵邸の玄関と、ドーナの声を思い出そうとしたところで、部屋の扉が静かに閉まった。
めぐ「大きさの違いが、女子力の決定的差でないことを教えてやる!」
まめこ「...........ふっ」




