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第38話 笛の音と大きな牙

 北の港へ近づくと、まめこは白いフードを押さえた。


 家を出た時より、風が強かった。木の実の刺繍がある裾が膝へまとわりつき、その向こうから、綱の軋む音が聞こえてくる。


「まだ、おるかな」


「ええ。船員の方のお話では、まだ何日か停泊するそうですわ」


 メグの足が、少し速くなった。


 倉庫の屋根の上へ、帆柱が現れた。


 ベスチアから来たガレオンだった。畳まれた帆の下を鳥が横切り、船腹に沿って、小さな船が揺れている。


 今日は荷物を下ろすところではなく、甲板を見せてもらえるか尋ねるつもりだった。


 マリーは、二人の後ろで籠を抱え直した。


「まず、ご都合を伺ってからですよ」


「分かっておりますわ」


 メグは答えた。


 まめこは、その横顔を見た。


「めぐ、もう乗った顔してるで」


「どんな顔ですの」


「お魚釣れた時の顔」


 メグは口元を引き締めた。


 けれど、帆柱を見ると、また少し緩んだ。


     *


 倉庫の間には、荷車が何台も並んでいた。


 穀物の袋。蓋へ印を焼きつけた木箱。縄でまとめられた細長い板。


 人が行き来するたびに、石畳の上の藁が動いた。


 三人は、荷車の通り道から外れたところを歩いた。


 そこで、まめこは足を止めた。


 倉庫の横に、大きな檻があった。


 太い木の枠に鉄の棒を渡し、下へ車輪をつけてある。中で、青いものが動いていた。


「めぐ。あれ」


 鉄の棒の間から、長い脚が見えた。


 その上には、丸い背中があった。海の色より濃い青で、光の当たるところだけが、つるりと明るくなる。


「グレートビートルですわね」


「ビートル……。あんな大きい虫なん?」


「ええ。荷物を運ばせることもありますのよ」


 まめこは、もう一度檻を見た。


 あの丸い背中へ、荷物を載せるのだろうか。


「乗ってもええの?」


「人に馴れたものなら。ただ、こちらは……」


 檻のそばで、男たちが言い合っていた。


「まだ開けるな。扱える奴が来てからだ」


「分かってる。留め具を見てるんだよ」


 中のビートルが、鉄の棒へ頭をぶつけた。


 がん、と鳴った。


 まめこの耳がフードの中で立った。


 丸い頭の横から、大きな牙がのぞいた。


 まめこは、メグのそばへ半歩寄った。


 メグが、まめこの手を握り直した。


「近づかないでいましょう」


 その時、倉庫の向こうで空の樽が倒れた。


 石畳を跳ね、別の樽へぶつかった。


 大きな音が続いた。


 檻の中で、青い背中が持ち上がった。


     *


 もう一度、鉄の棒が鳴った。


 今度は、木の裂ける音が混じった。


「離れろ!」


 男の声と一緒に、檻の扉が外へ傾いた。


 片側の留め具が木枠ごと外れていた。


 扉が石畳へ倒れる。


 青い脚が、その上へ乗った。


 ビートルが出てきた。


「ガード呼んでこい! 早く!」


 船員が、倉庫の間へ向かって叫んだ。


 若い荷役の男が走りだした。人と荷車の間を抜け、港の通りへ消えていく。


「こっちへ来るぞ! 道を空けろ!」


 船員は近くの男を引き下がらせた。


 近くにいた男が縄を伸ばしたが、頭を振られて手放した。縄の先が地面を引きずり、荷車の車輪へ絡まった。


 木箱が一つ、落ちた。


 蓋が割れ、中の藁が飛んだ。


「まめこ、こちらへ!」


 メグが手を引いた。


 三人は倉庫の壁へ寄ろうとした。


 けれど、その前へ逃げてきた男がぶつかった。


 メグの肩が押され、握っていた手が離れた。


 まめこは二歩、後ろへよろけた。


 背中が木箱に当たった。


 目の前で、青い頭がこちらを向いた。


 左右に開いた牙が見えた。


 脚が石を掻いた。


 まめこは横へ逃げようとした。


 靴の下で、丸い木片が転がった。


 膝から力が抜け、まめこの体がその場に崩れ落ちた。


「まめこ!」


 メグの声がした。


 まめこが顔を上げた時、もうビートルは動いていた。


     *


 笠の縁が、目の前を横切った。


 誰かがまめこの腕を取り、体を引き上げた。


「こちらです!」


 引かれるまま、木箱の角を回った。


 すぐ横を、ビートルの頭が通った。


 男の上着が大きく引かれた。


 布の裂ける音がした。


「……っ」


 まめこの腕を握る手に、力が入った。


 男は肩をひねり、牙から身を外した。笠が傾き、足元へ落ちかける。


 それでも、まめこを離さなかった。


「この子をお願いします」


 木箱の向こうから駆け寄ったマリーの腕へ、まめこが押し出された。


 マリーは抱き留め、そのまま壁際へ下がった。


 メグが前へ出た。


 右手を上げ、短く息を吸う。


 男は傷ついた肩を押さえ、反対の手を上げた。


「お待ちください。私が鎮めます」


「ですが、その肩が――」


「ええ。あとでお願いします」


 青い頭が、また振り向いた。


 男はビートルから目を離さず、数歩下がった。


「皆さん、近づかないでください。縄も、今は引かずに」


 荷車の陰にいた男が、縄から手を放した。


 男は、腰の細い袋へ手を伸ばした。


     *


 まめこは、マリーの腕の中で見ていた。


 笠の男が取り出したのは、笛だった。


 横へ長い、竹の笛。


 節の近くへ糸が巻かれ、いくつも小さな穴が並んでいた。


 男が両手で持ち上げた。


 傷ついた肩が動いた時、眉が少し寄った。


 それから、笛の端へ唇を当てた。


 細い音が、港の風へ伸びた。


 まめこは瞬きをした。


 まめこの耳が、笛の方へ向いた。


 ビートルは止まらなかった。


 頭を低くし、笛の男へ近づいた。


 メグが半歩、踏み出す。


 男は吹きながら、三人から離れる方へ斜めに足を運んだ。


 ビートルの牙が上着の裾をかすめた。


 笛の音が、わずかに揺れた。


 それでも途切れなかった。


 高い音から低い音へ、ゆっくり下りていく。


 ビートルが向きを変えた。


 六本の脚が、ばらばらに石を掻いた。


 その音が、少しずつ減った。


 前へ出かけた脚が戻った。


 開いていた牙が、狭まった。


 まめこはマリーの袖を握っていた。


 握っていることにも、気づかなかった。


 青い背中が、ゆっくり低くなった。


 笛の男は、その場で吹き続けた。


 最後の音が細くなり、綱の軋む音に溶けていった。


     *


 男が笛を下ろした。


 ビートルは、そこにいた。


 けれど、男が一歩近づくと、頭が持ち上がった。


 マリーの腕の中で、まめこの体が固くなった。


 男も足を止めた。


「ええ。そこにいてください」


 声は、笛を吹く前より静かだった。


 男は少し体を横へ向け、手を低くした。


「もう、追い立てません。よく頑張りましたね」


 ビートルの牙が動いた。


 男は待った。


 倉庫の前で、誰かが木箱を持ち上げかけた。


 メグが、手のひらを向けて止めた。


 木箱は、そっと地面へ戻された。


 男が、もう一歩進んだ。


 今度は、ビートルが後ろへ下がった。


「大丈夫です」


 追いかけなかった。


 肩の破れたところから、赤いものが滲んでいた。


 まめこはそれを見て、唇を噛んだ。


 男は同じ調子で話しかけ続けた。


 ビートルが触角を動かした。


 頭が少し傾いた。


 伸ばした手が、青い頭の上へ届いた。


 一度、脚が動いた。


 男は手を引かず、そのまま待った。


 しばらくして、指が甲殻をゆっくり撫でた。


「ええ。そうです」


 男が一歩下がった。


 青い脚が、そのあとへついてきた。


     *


 ビートルは、倉庫脇の空いた場所へ連れていかれた。


 男が止まると、ビートルも止まった。


 荷役の男が、深く息を吐いた。


「助かった……。まだ誰にも馴れてないのを、運んできたところだったんだ」


「檻の修理が先ですね。今日は、私がそばについています」


 笠の男が答えた。


 それから、ようやく自分の肩を見た。


「少しかじられてしまいました」


 メグは、その前へ立った。


「少しではありませんわ。こちらへ、お座りになってください」


 倉庫の壁際に、小さな腰掛けが置かれた。


 男が座ると、笠の縁が揺れた。


 ビートルも、近くで脚を畳んだ。


 まめこは、マリーと一緒に近づいた。


 男の上着の肩には、牙で裂けた穴があった。


 メグが布を避け、傷のそばへ手をかざした。


 息を整える。


 短い詠唱が、まめこにも聞こえた。


 手の下へ、淡い光が集まった。


 傷の縁が、ゆっくり寄っていった。


 男が肩を動かした。


 さっきほど、顔をしかめなかった。


「ありがとうございます。楽になりました」


「しばらくは、無理をなさらないでくださいませ」


 マリーが濡らした布を渡した。


 残った血を拭くと、上着の破れだけが目立った。


 まめこは自分の肩へ手を置いた。


 白い布は、破れていなかった。


     *


「こちらです!」


 倉庫の向こうから、さっき走っていった男が戻ってきた。


 その後ろに、鎧を着た若いガードが二人いた。隊長のチェリーでも、副隊長のベリーでもなかった。


 先に来た一人が、倒れた檻の扉を見た。


 それから青いビートルへ目を向け、武器へ手を掛けた。


「近づかず、そのままでお願いします」


 笠の男が声をかけた。


「もう鎮まりました。私に従っています」


 ビートルは脚を畳んだまま、触角を動かしていた。


 ガードは手を止めた。男とビートルの様子を見てから、荷役の男へ尋ねた。


「怪我をした方は?」


「こちらの方が肩を。今、こちらの方が治してくださったところだ」


 メグに気づくと、二人は姿勢を正した。


 メグは軽く頷き、壊れた檻へ目を向けた。


「こちらの方が、ビートルを鎮めてくださいましたわ。まず、ほかに怪我をされた方がいないか、確かめていただけますか」


「はい。承知しました」


 一人は荷車の向こうへ回り、もう一人は檻の周りから人を離した。


「破片を踏まないよう、こちらを通ってください」


 船員が事情を話し始めた。


 まめこは、鎧の背中の向こうに、割れた木箱を見た。


 さっき飛び散った藁が、まだ風に動いていた。


     *


「……ありがとう」


 まめこが言った。


 男が顔を向けた。


「わたし、足、滑って……」


 続きが、うまく出てこなかった。


 牙が近づいてきたところを思い出すと、膝がまた頼りなくなった。


 マリーが背中へ手を添えた。


 男は少し屈み、まめこの顔を見た。


「ええ。怪我はありませんか」


 まめこは頷いた。


「ありません」


「それはよかったです」


 男が笑った。


 メグが、まめこの隣へ立った。


「私は、メグと申します。この子を助けていただき、本当にありがとうございました」


 男は笠へ手を添え、頭を下げた。


「私はゲンゴロウと申します」


「わたし、まめこ」


「まめこさんですね」


 まめこは頷き、マリーに預けていた手を下ろした。


 メグが言った。


「改めて、お礼をさせていただきたいのですけれど。よろしければ、私どもの家へ――」


「礼には及びません」


 ゲンゴロウは、穏やかに答えた。


「まめこさんが無事で、何よりです。私も、肩を治していただきましたから」


 メグはまだ何か言いかけたが、ゲンゴロウが微笑むと、静かに頭を下げた。


「では、どうぞお大事になさってくださいませ」


「ええ。ありがとうございます」


     *


 港の男たちが、壊れた扉を運び始めた。


 今度は樽を倒さないよう、一人が通り道を片づけていた。


 ゲンゴロウは、ビートルの横へ戻った。


 青い頭が持ち上がり、近づく手を待った。


 まめこは、笛の袋を見ていた。


 聞きたいことがあった。


 でも、破れた肩を見ると、今は引き留められなかった。


「ゲンゴロウさん」


 呼ぶと、笠がこちらへ向いた。


「笛、きれいやった」


 ゲンゴロウは、少し目を細めた。


「ありがとうございます」


 まめこは手を振った。


 今度は、自分からメグの手を握った。


     *


 倉庫の角を曲がってから、メグは足を止めた。


 屈んで、まめこの顔を見た。


「怖かったでしょう」


「……うん」


 メグが、白いローブごと抱きしめた。


 まめこも、上着を握った。


 背中へ回された手は、まだ少し固かった。


 しばらくして、メグが体を離した。


「今日は、帰りましょう」


 まめこは帆柱を見上げた。


「お船、ええの?」


「ええ。また見られますわ」


 マリーが、フードのずれを直してくれた。


 三人は、港を離れた。


 綱の音が遠くなり、通りを歩く人の声が戻ってきた。


 まめこは何度か、肩越しに振り返った。


 もう、笠も青い背中も見えなかった。


 それでも、笛の音は覚えていた。


 初めの細い音。


 牙が近づいた時にも、途切れなかった音。


 まめこは、唇を小さく尖らせた。


 息を吹いた。


 何も鳴らなかった。


 メグが横を見た。


「どうしましたの?」


「……笛、ないからや」


 メグはまめこを見つめ、それから、握った手へ少し力を込めた。


「そうですわね」


 まめこはもう一度振り返った。


 帆柱の先だけが、屋根の向こうに見えていた。


挿絵(By みてみん)

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