第37話 池の大物
みっきーが、釣り竿を肩に担いでいた。
もう片方の肩には道具袋が掛かり、その下で、厚手の作業着の袖が揺れている。
黒い熊の帽子は、いつもと同じだった。
「今日は、桶ちゃうで」
まめこは隣を歩きながら言った。
「やっと外で試せるな」
竿の持ち手のそばで、木の円盤が揺れていた。
前に店の裏庭で見た時より、支える金具が増えている。糸は、円盤の間へ均等に巻かれていた。
メグは、その糸巻きを何度も見た。
今日は帽子の下にも首元にも、いつもより暖かい支度をしていた。歩きながらも、糸巻きへ目を落としていた。
「水に糸を下ろせるのが、楽しみですわ」
「まず池で、小さい魚やで」
「分かっております」
返事は、とても早かった。
マリーは籠を持ち直した。
まめこは新しい白いローブの袖へ手を引っ込め、風が吹くとフードの縁を押さえた。
耳は、その中で動いていた。
*
池の周りには、落ち葉が溜まっていた。
岸近くの水に、黄色い葉が浮いている。風が止むと、対岸の木の枝が水面へ細く映った。
夏の草は色を落とし、葦の穂が茶色く揺れていた。
みっきーは、足場の平らなところへ道具袋を下ろした。
「ここやったら、糸の動きも見えるな」
メグが水を覗き込む。
岸から少し先で、底の色が暗くなっていた。
「あちらへ下ろしてみましょうか」
「うん。その前に、もう一回、出し方見てな」
みっきーは竿を持ち上げた。
糸巻きの縁へ、小さな革の片が当たっている。
「ここ、押してみて」
メグが革の片を押すと、円盤が止まった。
「前より、押さえやすいわ」
「糸が出すぎそうやったら、それで加減してな」
メグは取っ手へ左手を添えた。
前に桶の重りを上げた時より、握るところが少し太くなっていた。
*
最初は、餌をつけずに下ろした。
竿を前へ出し、少しずつ糸を送る。
重りが水面へ小さな輪を作った。
糸は竿の輪を通って、まっすぐ下へ伸びていった。
「ここまで出ましたわ」
メグが手を止めた。
みっきーは金具を見た。
竿につけたところは、動かなかった。
「ほな、戻してみよか」
取っ手が回った。
水面の輪がもう一度でき、濡れた重りが現れた。
まめこは、糸の巻かれるところを見ていた。
「右、ちょっと山やで」
「ほんまや。いったん止めて」
みっきーが、糸を導く小さな輪の位置を変えた。
それから、巻くたびに少しずつ左右へ動かす。
「ここは私が見るわ。まだ、釣る人だけやと忙しいな」
「でも、前より使いやすいですわ」
メグは取っ手を回した。
糸が、今度は円盤の間へ広がった。
まめこも頷いた。
「山、なくなった」
*
小さな餌の箱を開けた。
マリーが用意した、パンを練った餌だった。
少しだけチーズが混ぜてある。みっきーが粒をつまむと、風の中でもその匂いがした。
まめこは鼻を近づけた。
「ええ匂い」
「まめこさんのおやつは、こちらです」
マリーが籠から別の包みを出した。
中には、食べる方のパンがあった。
「分かってる。こっちは、お魚のや」
まめこは餌の箱を指した。
「お魚、チーズ食べるんやな」
「今日はこれも試してみましょう。何に寄ってくるか、見てみたいですから」
メグが、小さく丸めた餌を針につけた。
白っぽい粒が、糸の先で揺れた。
トロが見上げた。
「お前も、そっちちゃうで」
まめこが言うと、トロはマリーの籠へ顔を向けた。
*
餌をつけると、まめこの見るところが変わった。
糸巻きではなく、水に浮いた小さな浮きだった。
風に揺れて、少しずつ岸から離れている。
メグは竿を持ったまま動かなかった。
みっきーはその隣で、時々、金具へ目を落とした。
マリーが敷物を広げた。
まめこはローブの後ろを整えて座り、パンを受け取った。
一口食べたところで、浮きが動いた。
「めぐ!」
「まだですわ」
もう一度、沈んだ。
今度は戻らなかった。
メグが、竿を小さく上げた。
先がしなった。
「掛かりましたわ」
まめこはパンを持ったまま立った。
取っ手が回り始めた。
張った糸の先で、水が小さく光る。
みっきーが糸の入り方を見て、輪を少し動かした。
銀色の魚が、岸へ近づいてきた。
メグは最後に竿を上げた。
小さい魚が、水の上で跳ねた。
「釣れた!」
まめこの声で、トロも立った。
みっきーは魚を見てから、木の糸巻きを見た。
それから、ようやく笑った。
「ちゃんと、戻ってきたな」
*
小魚は、針を外して池へ戻した。
水へ入った途端、すっと姿が消えた。
「もう見えへん」
まめこは水面へ顔を寄せた。
二匹目も釣れた。
一匹目より少し大きかったが、メグは急がず、引かれる時には巻く手を止めた。
みっきーは紙へ何か書き、もう一度取っ手を確かめた。
「濡れたら、ここがちょっと滑るな」
「ええ。握りを変えた方がいいかもしれませんわね」
まめこが自分の手を見た。
パンの粉がついていた。
「わたし、まだ回したらあかんな」
「まずお手を拭きましょうね」
マリーが布を渡した。
池の向こうで、葦が揺れた。
風は、こちらへ吹いていた。
*
葦の陰に、カエルさんがいた。
岸には小さな厚手のベストと、丸めた首巻きが置いてあった。
カエルさんは水へ入り、日が当たるところに顔だけ出していた。
市庁舎へ戻る前の、少しだけの休憩だった。
「風が来ないぷに……」
目を細めた。
その前を、小さな魚が通った。
カエルさんは顔を上げた。
魚が来た方から、何かの匂いがする。
パンだった。
それに、チーズ。
朝ご飯は食べた。
けれど、もう昼前だった。
「むっふー」
鼻を動かした。
水面の向こうから、白っぽいものが下りてきた。
すぐ目の前へ。
*
「今度は、もう少し向こうへ出してみますわ」
メグが言った。
みっきーが周りを確かめる。
まめことマリーは、竿の後ろから離れていた。
メグは軽く竿を振り、円盤が回りすぎないよう押さえた。
餌が先へ飛ぶ。
ぽちゃん。
葦から少し離れたところへ落ちた。
「前の糸では、そこまで届きませんでしたわね」
メグの声が弾んだ。
みっきーも、伸びた糸を見た。
「出る方も、ええ感じやな」
まめこが水面を指した。
「もう動いてるで」
浮きが横へ走った。
そのまま、沈んだ。
*
「掛かりましたわ!」
竿が、大きく曲がった。
メグは両足を踏み直した。
みっきーの鉛筆が止まった。
「……ちょっと、待って。これ、小さないで」
「分かっております!」
糸が、じりじり出た。
メグは革の押さえを少し緩め、竿を支え直した。
「まめこ、少し下がっていなさい」
まめこはマリーの横へ下がった。
耳が、フードの中で立っていた。
「大物や……」
水面が、葦の前で盛り上がる。
何かがもがいた。
メグは引く力が弱まったところで、取っ手を回した。
みっきーが隣で、竿についた金具を押さえた。
「ゆっくり。無理せんといて」
また、水が跳ねた。
茶色い落ち葉が、波で岸へ来た。
その向こうから、丸い目が二つ出た。
「……ぷにぃ!」
巻く手が、止まった。
*
池から、カエルさんが出てきた。
口の端に、釣り糸がついていた。
餌の残りもついていた。
まめこは黙って見た。
メグも見た。
みっきーは、竿と市長を交互に見た。
「……カエルさん?」
まめこが言った。
「んぐ……ぷに」
カエルさんが、岸へ手を掛けた。
マリーが籠を置き、布を持って近づいた。
メグはすぐ糸を緩めた。
みっきーも竿を下ろした。
「動かないでくださいませ。今、外しますから」
マリーが口元を支えた。
みっきーが小さな道具を出し、唇の端に浅く掛かった針をそっと外した。
糸が離れた。
カエルさんは、ようやく大きく口を開けた。
「釣られたぷに!」
誰も、すぐには答えなかった。
足元へ、水がぽたぽた落ちていた。
*
「どうして、餌をお食べになったのです?」
メグが尋ねた。
カエルさんは、マリーの布に包まれていた。
「パンの匂いがしたぷに」
「ええ。パンですけれど」
「チーズも入ってたぷに」
「入っておりましたけれど!」
まめこが餌の箱を見た。
それから、自分のパンの包みを見た。
「カエルさん、こっちにパンあるで」
まめこが包みを持ち上げた。
みっきーは口元を押さえていた。
肩が小さく揺れている。
カエルさんがそちらを見た。
「笑ってるぷに?」
「……ごめん。顔、見えた時、びっくりして」
「おいしそうだったぷに!」
「そこは、よう分かったわ」
*
カエルさんの服は、葦の向こうにあった。
みっきーが取りに行き、ベストと首巻きを持って戻った。
まめこは小さなベストを覗いた。
「ちゃんと冬の服あるんや」
「市長も寒いぷに」
「ほな、なんで脱いで池おったん?」
カエルさんは首巻きを受け取った。
しばらく、端を見ていた。
「……静かだったぷに」
メグが腕を組んだ。
「市庁舎は、お静かではありませんの?」
「仕事があるぷに」
「それは、ありますわね」
カエルさんは、首巻きへ顔を埋めた。
まめこは自分のフードを押さえた。
「わたし、耳もあったかいで」
「いい服ぷに……」
「アバンとベリーが作ってくれたんや」
カエルさんは、一瞬だけ顔を上げた。
ベリーの名を聞いて、メグの方も見た。
「今日のことは、内緒ぷに」
メグは答える前に、池を見た。
浮きが、岸へ戻ってきていた。
*
マリーが、温かい飲み物を注いだ。
カエルさんは両手でカップを持ち、少しずつ飲んだ。
今度は、食べる方のパンも渡された。
まめこがその横へ座る。
「そっちは糸ついてへんで」
「見れば分かるぷに」
カエルさんは裏も見た。
みっきーは竿を膝へ置き、糸巻きを確かめていた。
金具に緩みがないか、円盤が歪んでいないか。取っ手を一度回し、また紙へ書いた。
メグが隣へ屈んだ。
「大丈夫そうですか?」
「今のところはな。せやけど、今日はもうここまでにしよ。持って帰って、外して見てみるわ」
「そうですわね」
メグは頷いた。
「小さいお魚で試すはずでしたのに」
カエルさんが、パンを飲み込んだ。
「市長は、魚じゃないぷに」
「存じておりますわ」
みっきーの肩が、また揺れた。
*
片づけの最後に、まめこはみっきーの紙を見た。
取っ手のこと。
糸を巻く場所のこと。
留め金のこと。
細かい字が並んでいる。
「釣れたのも、書いとかな」
「そうやな。小さい魚、二匹や」
みっきーが書き足した。
まめこは、その下を指した。
「あと、カエルさん一匹」
「一人ぷに!」
岸から声が飛んだ。
みっきーは鉛筆を止めた。
「ほな、市長一人」
「書かなくていいぷに!」
まめこは紙を覗き込んだ。
みっきーは、もう書いていた。
メグが口元へ手を当て、マリーは空いたカップを籠へ収めた。
その足元で、トロがカエルさんの方を見ていた。
鼻が、小さく動いた。
カエルさんはベストの胸元を見下ろした。
さっきの餌が、一粒だけついていた。
トロが近づいた。
カエルさんは慌ててそれを払った。
「もう、釣られないぷに!」
まめこは白いフードの中で笑い、みっきーの竿を見上げた。
「くるくる、よう釣れるなあ」
疲れたのでこのへんで、、また明日




